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第三部 25-4 (終)

 孫はもう一人いる。剛造がそれに触れずにいるのなら、省吾もそうするまでのことだ。勢い付いて話す剛造を、省吾は黙って眺めることにした。 「私は無駄にした五十年も取り戻さなくてはならない。おまえ達鬼どもには、余計な干渉をされてしまったからな。となれば、老い先短い身では、身軽でいた方が何かと便利なのだよ。それにだ……」  剛造は息を継ぐように話を切った。ゴホゴホとわざとらしい咳払いをしながら、年を取ったと小声で愚痴っている。剛造の嘘臭い演技には笑えたが、省吾はその時にも表情を変えることなく、嗄れた剛造の声を静かに聞いていた。 「弘人は馬鹿としか言いようがない。優希もだ。何が起きているかを考えもせずに、今日、おまえが私に会いに来ると知って、代わる()わる文句を言いに来た。ここで繰り返す価値もない些末(さまつ)なことをだ。少しは私が感心するようなことを言うかと期待したのだが、無駄だった。あの二人は何もわかっていない。だが、最後に来たおまえの母親だけは違った……」  そこで剛造はニヤリとし、勿体ぶった口調で続けて行く。 「……私はあれの人生を好き勝手したらしい、弘人に言わせるとそうなる。その女の名前くらい、きちんと言えと言われたよ。自分の不始末だろうと思いはしたが、弘人の言い分も間違ってはいない。それで、これからは名前で呼ばせてもらうことにした、麻美にもそう言ってある」  この時の息継ぎには、意味を持たせていたようだった。老獪(ろうかい)な笑いを顔に浮かべ、省吾を見返している。 「麻美はな、思い出を語りに来たのだよ、おまえに伝わるのを承知でな」  剛造の口調には年寄りらしい悪賢さがあったが、母親への気遣いも感じさせる。麻美と名前で呼ぶのを見ても、母親のことが相当気に入ったようだ。何故そうなるのかはわからないが、省吾は話したければ聞くという態度を変えなかった。剛造にはそれで良かった。 「麻美は最初にこう言った、〝お義父(とう)さまのお好きなように〟とな。弘人にはわからないことも、麻美にはわかっていた。弘人は麻美を同類だと言っていたが、なかなかどうして、才知に長けた女だよ、弘人など、足元にも及ばない」  夫に気付かれないよう、臨機応変に自分の立場を有利にしていたのだろう。淑やかで美しい顔の裏で、状況を冷静に見ていたということだ。剛造がそうした狡猾さを好んだのは理解出来る。だからこそ、葵の両親の事故を予見出来ずに、それを許したことへの認識の甘さを悔いる様子が、母親にはあったと、省吾に聞かせたのだ。 「それで私も教えてやった。この先、弘人に何が起きるかをな。優希を県外の寄宿学校に転校させる手続きをしていることもだ。あれは一度、この町を離れた方がいい。父親に心酔しているからな。そうなったのも〝印〟のせいだが、〝印〟のことは私だけの責任とは言えないぞ。身近な誰かが何かをしなければ、私とて勘違いするはずはない。そう仄めかしてやったら、麻美の奴、〝あの時は、お義父さまを騙せるのか、心配しておりました〟と、軽く言いおった。全く、女は不思議な生き物だ。これも復讐なのだろう。息子二人を私に任せるが、弘人は引き受ける、あんな奴にも情がある、捨てはしない、添い遂げると言われたよ」  剛造は騙されたことさえ楽しいと、体を揺すってクックッと笑った。省吾には笑えるような話ではない。しかし、腹も立たない。過ぎたことだとしか思わなかった。省吾は剛造の長々とした話にも終わりが来たのを感じ、普段通りの物柔らかな口調で答えていた。 「正行伯父……ですか?」 「おまえのことを藤野に相談したのは認めたよ。おまえを私に任せるだけでは駄目だと、弘人から遠く離さないと、おまえがおかしくなるとな。大切な人との約束だから、おまえを守らなくてはならなかった、それでもう一人子供を欲しがっていた弘人を利用した。〝印〟は藤野の指示だった。蜂谷家の言い伝えで気にすることはない、むしろ優希は〝印〟で大切にされると言われたそうだ。藤野にしたら、願ってもない相談だったろうな」 「あなたも俺も、あの兄妹(きょうだい)にして遣られた?」 「仲の悪いふりをしていたことか?確かに、兄妹揃って謀略好きだが、それがどうだという?おまえが気にするのか?私の提案にしても、おまえを人の世で生きやすくしてやるだけのことだろう?」 「その提案、本気ですか?曲がりなりにも、息子ですよ?」 「ふん、小賢しいことを」  剛造はさっと手を一振りし、省吾の言葉を払い除ける。欲しくなかった子として疎まれ、剛造とのかかわりで、生まれた時から憎まれたのは省吾の方だ。それをわかっていながら、生意気だと言われてしまった。 「おまえには父親だろう?」  剛造は省吾の言葉に不満を見せながらも、口調を変えて続けた。 「だが、あれはそれだけのことをした」  梟雄と呼ばれる蜂谷の血が、重々しい響きには流れている。穏やかではあっても、うちに秘める怒りは省吾にも感じ取れた。親子だろうが、裏切りは制裁されてしかるべきことだった。 「あなたは鍛え直すと言いますが、どうするのです?」 「私に無断でしたことを、大いに反省させるまでのこと。それには鉄格子が持って来いだろう?時折、面会に行っては、どれくらい反省したかを見てやるつもりだ。中で朽ち果てるか、外に出て遣り直すかは、弘人次第だな。蜂谷に仕える者達を蔑ろにした罪は大きい、彼奴等をただの使用人と思ったのが間違いなのだよ。おまえも覚えておけ」  剛造は皺の寄った口元を悠然と緩めてから、話を継いだ。 「近々、私は心労で倒れる。なので、適当な時に見舞いに来い」  命令口調には唖然とするしかないが、省吾の心は決まっていた。葵がこの町に戻って来たからには、暫くは普通に人として生きなくてはならない。この町に縛られることになるが、それも一時的なことだと思っている。今の省吾には大した問題ではなかった。省吾は机の上の書類に目を遣り、ソファベンチから立ち上がった。 「言っておくが……」  剛造が意地の悪い笑みを見せ、ペンを差し出しながら続けた。 「……これにサインするということは、蜂谷に仕える者達の面倒も見るということだ」  省吾はペンを受け取り、答えた。 「鬼を恐れた先祖が作った組織ですよ、俺とは対立しませんか?」 「夜伽目付も担っていた者達だ。断首を命じられても文句一つ言わずに従った。見聞したもの全て、腹に納められる者達だぞ。人の世で生きるのなら、これ程便利な者達はいない。おまえが自分の力を過信すれば、ただの化け物だ、それでいいというのか?」  剛造の言葉が記憶の奥に染み込み、省吾の顔が血に棲むものの笑いに揺れる。省吾自身は、剛造が一番の理解者になる日が来るとは、皮肉を通り越して奇跡だと思っていた。 「あなたは本当に……」  省吾はサインをしながら、十五年ぶりに親しみを込めて言った。 「……愉快な方だ、お爺さま」

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