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第三部 26-1

 葵はふと視線を感じた。何も意識することなく、自然とそれを感覚として捉えていた。その様子は、人の目には香月家の菩提寺へとのんびり歩いているように映るだろう。うちにおいては、空気の振動と匂いを探り、感知したものへと意識を定めている。  山門の前に、黒塗りの高級車が停止していたのは見えていた。開いたドアの横に、黒っぽいワンピース姿の女がいたこともだ。女が車に乗り込む直前に、こちらに顔を向けたことで、葵の感覚が刺激されたのだとわかる。  女は背が高く、すらりとしていた。大きめのサングラスで隠されているが、シニヨンに結わえた髪に漂うしっとりした大人の雰囲気からして、美人だろうと思わせる。その女に意識を向けた時には、女は既に車に乗り込んでいた。葵の視線を振り切るように、すぐに車は走り去って行く。 「あの車……」  見覚えがあった。省吾の弟が乗っていた車を思い出させる。無関係だったとしても、女のことが頭から離れない。葵は女の雰囲気が省吾に似てなくもないと思うのだった。  葵が香月家の菩提寺に寄ろうと思ったのは、翔汰からのメールが理由だった。三つ巴の気色悪いゾンビ映画の上映時間が午後だと知らされ、集合場所である受付ロビーに行く前に、早めに出て、両親に会いに行こうと思ったからだ。  葵が庫裏(くり)に顔を出すと、本堂に両親の位牌が用意される。遺骨は別々の場所に納められているが、尚嗣の許しで、葵が詣でた時には、こうして位牌だけは並べてもらえる。葵は葬式から四十九日も過ぎた今日までに、二回会いに来ていた。秘密ばかりの両親への苛立ちもあって、二回ともが、掛ける言葉もないままに、睨むようにして二人の位牌を見詰めていた。 「今日は報告することがある……」  翔汰のこと、田中に井上、それに省吾の仲間達、この町にも友達が出来たことで、葵の気持ちには余裕が生まれた。両親の秘密は追々わかって来るだろう。急ぐことはないと思えた。白木の位牌から塗りに変わったように、葵の思いも変化したようだった。 「あいつのことは……」  省吾についてはもう少し時間が欲しい。照れ臭いのかもしれないが、今はまだ話せない気がする。それでも、この町での暮らしを報告出来るのが嬉しかった。気持ちに余裕があると、気安くなれる。住職に用意が出来たと言われ、二人して本堂へと向かうあいだに、山門で見たあの女のことを尋ねていた。 「それは……」  住職は一瞬、驚くように言い淀んだが、答える口調は滑らかだった。 「何分(なにぶん)、個人的なことでありますから、ご容赦願います」  葵はもっともだと思い、それ以上は何も聞かずに頷いた。見られていたのは間違いないが、向こうにしたら、たまたまということもある。全体としては気分がいい。それなら気にすることはないと思った。時間まで、本堂で一人、両親と過ごしたあと、三つ巴の気色悪いゾンビ映画を観る覚悟を決めて、映画館へと向かった。  そこは万人受けする人気作品を上映しない。趣味に偏った作品の公開を売りにしている。ファンのあいだでは有名で、必然的に観客も限られて来る。場所もそれらしく、入り組んだ路地を抜けなくてはならなかった。  翔汰のメールにも、詳細な位置情報が載せてあった。葵には必要のないものだが、翔汰が心配したのは頷ける。葵がこの町に不慣れだからというのではない。翔汰自身が心細いからだ。田中と井上に連れられて、何度も来ているというのに、毎回、二人と一緒でなければ来られなかった。映画館が裏と呼ばれた街の外れにあるからだった。  省吾に誘われた時は、人気(ひとけ)のなかった通りも、日曜の昼間のせいか、それなりの賑わいを見せている。女子供を近付かせない昔ながらの歓楽街を、僅かに残る店を回りながら、観光するかのように楽しんでいる。省吾が〝結構稼いでいるぞ〟と言っていたのは、本当のようだった。そうした通りを、葵は慣れた様子で横道に逸れ、映画館を目指した。  田舎では、映画を観る時は、町の巨大シアターまで出掛けて行った。葵の中では、映画と言えばシネコンだった。電飾に飾られた煤けた看板と、古めかしい外観が目を引く、いかにもレトロな建物には驚かされる。入り口には三つ巴の気色悪いゾンビ映画のポスターが貼ってあった。ポスターの上に、急遽、貸切になったことを告げる張り紙がしてあった。  葵は翔汰のメールで教えられたように、入り口でメイの名前を告げてロビーに入った。異様なくらいに光り輝くピカピカなタイル張りの壁や床が、貸切である理由を思わせる。某国の王子に失礼があってはならないのだろう。  映画館の支配人らしき男が、ロビーチェアに座るメイの機嫌を損ねないよう必死に媚びていた。飲み物がどうの、菓子がどうのと、メイに掛ける声が葵のところにまで聞こえて来る。それを疎ましげに払う男に、葵は顔を顰めた。カフェで飲み食いしたメンバーは全員参加とメールにあったが、その男の参加は知らされていない。  リクはメイと一緒にロビーチェアに座っている。コウは二人の前で、男と並んで立っている。男はあの大男ではない。省吾でもない。その従兄弟の誠司が、コウの横に立っていた。  誠司はファッション誌の表紙を飾ってもおかしくない程にスタイルがいい。細身のジーンズに白のカットソー、そこにネイビーのカーディガンを合わせている。靴は黒のコインローファーだった。ラフな格好でも、さり気なくしているプラチナのブレスレッドや高級ブランドの腕時計を見ると、全部が金の掛かったものだと気付かせる。  誠司は三つ巴の気色悪いゾンビ映画に、興味はないのだろう。つまらなさそうにしながらも、同じように金の掛かった装いの仲間には、嘘のない笑いを見せていた。コウに耳打ちされると、嫌々ながらもこちらに目を向け、馬鹿にした顔付きで、視線をさっと葵の全身に走らせた。  葵は暗灰色のスウェットの上下を着て、上着の前を開けてフードを被り、ポケットに両手を突っ込んで彼らへと歩いていた。インナーのTシャツには、海外コミックのキャラクター付きのものを選んでいる。足元はビーチサンダルで、タイル張りの床に、ペタペタという音を響かせていた。それを迎えるように、誠司が仲間から離れて葵へと近付いて来た。 「寝起きのままか?」  誠司の男らしい低めの声に、葵は途中で足を止め、ふふんと鼻で笑う。 「ちゃんと色分けしてるぜ。紺色のが寝間着だ」  葵が余りに堂々と答えたことで、誠司の顔が憎々しげに歪む。ロビーチェアーに座って二人の遣り取りに笑い転げる仲間達には、誠司も厳つい顔を赤らめるしかないようだった。 「ったく、生意気な野郎だ」  葵にすれば、省吾に乗せられ、この男の顔に期待した自分に腹が立つ。顔が全てと思っていないが、可愛いと聞けば、期待したくもなるだろう。省吾の言葉を信じて、楽しみにしたことが情けない。それも省吾のあの優美な顔が悪い。身長と性格には少しも可愛いところのない男だが、顔に限れば、中々のものだ。その従兄弟というのなら、さぞかし可愛いのだろうと思って当然だ。〝だよな?〟と、自分自身に同意を求めた。〝その通り〟と、心の声が聞こえた気がして笑えた。 「あんたとはさ……」  葵はその笑顔のまま、誠司と和解するつもりで、のほほんと続けた。 「……初っ端(しょっぱな)からギクシャクしたよな?あんたのこと、かわい子ちゃんと思わせたあいつが悪いんだけど……」  そこで誠司が目を剥き、怒りの形相で睨んで来る。 「省吾がなんだって?」  誠司は掴み掛からんばかりに声を裏返し、葵に詰め寄った。

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