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第三部 26-2
「おっとぉ……」
葵は誠司の剣幕にのけ反った。唾が飛んで来そうな勢いにも、顔がにやつく。誠司は何も知らされていないのだ。葵は誠司を〝かわい子ちゃん〟と呼んだ経緯を、自分が知り得る範囲で事細かく聞かせてやった。
「クソったれが!省吾の野郎!俺をコケにしやがって!何が可愛い男だ!」
顔を真っ赤にして怒鳴りまくる誠司を眺め、葵は省吾がこの男を可愛いと言ったのを理解して行く。途轍もなく恐ろしい男というのは、厳つい顔に窺 わせる鋭利な知性でわかるが、仲間内には甘々で単純そのものだ。仲間達の態度でも知れることだった。ロビーチェアーから囃 すような笑い声を、誠司に向かって聞かせている。
「笑んじゃねぇ!」
これでは省吾も可愛くて仕方ないだろう。
「まっ、気にすんな」
葵までが笑いながら言ったのがまずかった。誠司に、それはもう空恐ろしげな目付きで、ギロリと睨まれた。それでも、誠司の葵への態度は、微妙な感じに和らいでいた。
「ふん、じきにおまえの間抜け面が見える。それで相子 にしてやるさ」
「なんの……」
話だと言おうとしたが、翔汰の声がして、気持ちがそちらへと向かい、言わずじまいだ。翔汰は田中と井上と連れ立ってトイレから出て来たところだった。葵に気付くと、満面の笑みで駆け寄って来る。葵は可愛いと思った。思ったが、それを上回る衝撃に、言葉が出ない。
「おまえの寝起きも、あれには負ける」
誠司の口調に嫌みはなかった。爽やかとも言える笑いを含ませて、晴れやかな調子で話していた。
「クっ……ソ」
悔しげに呟くが、葵の顔はだらしなく崩れる。葵は翔汰を眺め直し、誠司に負けず劣らずの晴れやかさで、感心するように小さく叫んだ。
「やっぱ、委員長はすげぇ!」
翔汰はサスペンダー付きの半ズボンにハイソックス、襟にフリルがたっぷり付いた白シャツを着ていた。半ズボンと揃いの上着の袖口からも、同様のフリルがたっぷりと食 み出している。眩しいばかりに磨かれたエナメル革の靴が、ホールの明かりを受けて、宝石のようにキラキラと輝いている。
「篠原君、迷わなかった?」
ニコニコしながら目の前に立たれ、葵は思わず目尻を下げた。比類なき美貌がオヤジ臭さで一杯だろうが、自分の顔なのだから、葵にはどうでもいいことだった。
「メールした時、心配するなって返信してくれたけど、心配しちゃったよ。僕はいつも田中君と井上君が一緒だから大丈夫だけどね」
その二人は、ジーンズにグレーのハイネックTシャツ、その上に赤と青のチェックシャツを羽織り、履き古したスニーカーという装いで、翔汰の後ろに立っていた。中学生らしい有り触れた格好でも、二人の場合はそこに間違い探しという楽しみがある。探すだけ無駄というくらいに揃っているが、挑戦する価値はある。翔汰の甘えるような唸り声を聞き付けなければ、実際に探していただろう。
「うぅぅん……」
「なんだよ」
「篠原君、カッコイイ。僕も次からは運動着にする」
翔汰は葵を羨望の眼差しで見上げ、葵の困惑そっちのけで、衝撃的な装いの説明を熱く語り始めた。
「僕のこの服、お母さんとお姉ちゃんとで選んでくれたんだ。篠原君も来るって言ったら、絵理子様のご子息に失礼があってはダメって言ってね。お母さん、篠原君のお母さんと同級生だったんだよ。藤野先輩のお母さんとも友達で、メイ先輩のお母さんとも友達。僕は学年が違ったから、子供同士の付き合いはなかったけど、篠原君と友達になれて、それでこんな風に付き合ってもらえるようになった。なんか、凄いよね」
そこで翔汰がほうっと息を吐いた。話も終わるのかと思ったが、大きな間違いだった。翔汰は前にも増して熱い口調で語って行く。
「それでね、お母さん達が卒業した淑芳女学園には『淑芳聖女会』っていうのがあって、その中に〝恵理子様を称える会〟みたいのがあるんだ。お母さんも会員で、藤野先輩のお母さんもメイ先輩のお母さんも会員だよ。『淑芳聖女会』は卒業生だけだけど、その会には在校生も入会出来て、〝少数言語研究会〟っていうクラブが在校生の窓口なんだ。メイ先輩のお母さんが女学園時代に作ったクラブだって、お母さんが言ってた。お姉ちゃんも、そのクラブに所属してて、だから、篠原君のこと、気にしてる。それで、二人して、僕の服を選んでくれたんだ」
葵は翔汰の長話に耳を傾けながらも、助けを求めるように、田中と井上にちらちらと視線を投げていた。話の半ば辺りで、二人には同時にそっぽを向かれた。仕方なく誠司に視線を移した。笑いを咳でごまかしているようでは、この男も役に立たない。
「ああっと……」
葵は咄嗟に思い付いたことを言った。
「……委員長の母さんと姉ちゃんには、いつか挨拶させてもらうよ」
「本当?お母さんとお姉ちゃん、大喜びするよ」
マキノの店で聞かされた怪しげな女達の話が、葵の頭に浮かんで来る。〝淑芳女学園の聖女の誓いは永遠なり〟と、マキノは話していた。翔汰に余計なことを言ったのかもしれない。追い詰められた気もする。そう不安に思ったその時、メイの苛立たしげな声がロビーに響いた。
「翔汰、おしっこしたなら、早くこっちに来てっ!」
メイの嫉妬丸出しの子供っぽい癇癪には、翔汰でさえ手こずるようだ。翔汰がふうっと妙に大人びた重い溜め息を吐く。
「篠原君、ごめんね。お母さんとお姉ちゃんのこと、話が途中になっちゃった。今度、学園でゆっくり話そうね」
葵は心の中で〝いや、もう十分に聞いた〟と答えていたが、実際には言えないことだ。嬉しそうな翔汰に、頷くしかなかった。
「メイ先輩のこと、他の先輩達に頼まれたんだ。今日みたいな映画を観ると、興奮して、手に負えなくなるからって。〝君の落ち着きには敬服する、だから、手本を見せてやってくれ〟って、言われちゃった。本当に、メイ先輩は子供で困るよね」
葵は耐えた。頬の裏側をぎゅっと噛んで、笑い出さないよう頑張った。
「それじゃあ、篠原君、またあとでね」
翔汰がメイへと小走りで駆け寄る。当然のように田中と井上も付いて行ったが、一瞬、二人同時に葵に目を遣り、瞳を煌めかせたのは見逃さない。
「あんたらさ、委員長に何した?」
「俺に聞くな」
誠司の口調は投げ遣りではあったが、翔汰を傷付けようという気配はない。続く誠司の言葉で、それがわかった。
「けどな、あの小猿は省吾の思惑の斜め上を行く逸材だぞ。そんな奴、俺が知る限りじゃ、小猿だけさ」
つまり省吾が何か仕掛けたが、見事に失敗したということだ。葵は胸のすく話に笑った。その笑いに釣られたように、誠司がクソ面白くもないと呟きながらも、厳つい顔を微かに綻ばせている。
「おまえに聞きたいことがある」
誠司は少しだけ口調を改めてから話を繋げた。
「でなきゃ、こんな映画、観に来るか」
「へぇ……」
葵は誠司に何を知りたいのかを問い返そうとしたが、目の端に省吾の姿を捉え、意識がそちらに引っ張られて言葉も消える。省吾は映画館の裏口からロビーに入ったようだ。優雅で秀逸な容姿が密やかに、突然であるかのように、そこに現れていた。
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