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第三部 26-3

「思ったより早く来やがった」  誠司が厳つい顔をむすっとさせて、ぼそりと言った。葵に何を聞きたかったとしても、諦めたのだろう。省吾に軽く頷き、上映室のドアを開けて中に入って行く。コウとリクも、ロビーチェアーから立ち上がり、誠司のあとに続いている。翔汰と田中と井上は、メイに連れられて、すでに上映室の中にいた。  葵は省吾から視線を外さなかった。黒い革のジャケットに、真っ白なTシャツが映えている。黒でまとめたスリムジーンズにベルト、全てが均整の取れた雅やかなスタイルに似合っている。何よりシルバーのバックルが洒落ていた。凝ったデザインが省吾の為に作られた一点ものなのを思わせる。誠司と違ってジュエリーはしていない。高級ブランドのアンティークの腕時計で、ひと財産築けそうではあった。  省吾が葵の姿をその目に映し、非難していたのはわかっている。にこやかに笑っているが、微かに眉を顰めたのに気付いたからだ。スウェットの上下の何が悪い。そう思ったが、省吾は海外コミックのキャラクターが気に入らないようだった。別のキャラクターなら許せたとでも言いたげに、Tシャツに描かれたキャラクターへは、明らかな不満を見せていた。 「話がある、座らないか?」  省吾は海外コミックのキャラクターについて、何も言わないことにしたようだ。ロビーチェアーに葵を誘い、先に座って手招きしている。 「あんたも映画を観に来たんじゃないのか?」 「ああ……あれね」  (けん)のある言い方だった。三つ巴の気色悪いゾンビ映画は、省吾もお気に召さない。それなのに、わざわざ出向いて来たのには理由がある。葵は省吾の話に興味を持ったが、ここで素直に従っては駆け引きにならない。フードを被り、ポケットに両手を入れたままで前に立ち、顎を突き出すようにしてロビーチェアーに座る省吾を見下ろした。  省吾がくすっと笑った気がした。余裕を見せる省吾を慌てさせるには、どうすればいいのだろう。閃いたのは、三つ巴の気色悪いゾンビ映画だった。葵はくるりと背を向け、上映室のドアへと歩き出した。確かにそうしたはずだった。それが決然と前に出した足が(ちゅう)に浮く。気付くと、葵は省吾の膝の上に、背中を向けてちょこなんと座っていた。 「てめぇ、なんの真似だ!」  激怒する葵の耳に、省吾の楽しげな笑い声が響く。省吾は葵が背を向けた瞬間に、さっと腕を伸ばして葵の腰を引き寄せ、膝の上に座らせていたのだ。 「クソがっ」  葵はポケットから両手を出し、駄々っ子のように手足をばた付かせた。フードも外れ、上着も肩から半分脱げたように着崩れる。数分、暴れ回り、どうにもならない力の差に、息が切れた。どうにもこうにも、腰に回された省吾の腕が振り払えない。はあはあと吐く息が、いつしか笑い声に変わり、その時には抵抗するのもやめていた。 「俺の負けだ。ちゃんと座るから、離せって」  しかし、省吾は離さなかった。葵の背中に胸を寄せて、後ろから首筋に頬を触れさせている。甘えるような仕草にぞくりとしたが、何故だか、そこに傷付いた省吾の心が見えたようで、追い遣れなかった。 「……なんかあったのか?」  省吾が声を出さずに笑ったのが、触れ合う肌の温もりに伝わった。 「おまえは本当にお人好しだね」  省吾は葵の背中から体を離し、滑らせるようにして葵を隣に座らせた。心持ち前屈みになり、男らしく開いた膝のあいだで両の手のひらを合わせている。葵は着崩れた上着をさっと戻し、ロビーチェアーに背中を預けた。粋な感じに体を斜めにし、片足をもう片方の膝に載せ、その足の先でビーチサンダルをふわふわと揺らす。 「で、お人好しな俺に、なんの用さ」  ニヤリとする葵へと、省吾の視線が緩やかに流れて来る。省吾は前屈みの体を引き起こし、葵と同じように背中をロビーチェアーに預け、葵の耳にも聞き慣れた物柔らかな口調で話し出した。 「ここに来る前に、お爺さまに会って来た。色々あったけれど、和解してね。それで……」  省吾は息苦しい訳でもないのに、深く息をしてから続けた。考えをまとめていたようだった。 「……この休み明けに、俺の父親が逮捕される。おまえの両親を事故に見せ掛けて殺害させた容疑でね、教唆に当たるかどうかで調べられる」 「は……あぁ?」  葵には省吾の言葉が理解出来なかった。この男は信用ならない。騙されるなと、心に言い聞かせる。葵は膝に載せていた足を床に下ろした。体中の力が抜けて、崩れ落ちそうだ。両足で踏ん張らなければ、省吾に哀れな姿をさらしてしまう。 「また、ふざけてんのか?」  どうにか口にしたことに、省吾は答えない。事実を受け入れるのに、言葉はもう必要ない。 「ふざけんな!なんでだよ!なんで、あんたのオヤジが……!」  身勝手な愛とプライド―――それが両親を死なせた理由だ。省吾にそれをぶつけようとしたが、葵の思いに答えるように、それだけではないと省吾が先に言った。県外の業者と結託したのも、この町の再開発での利権絡みで、尚嗣を脅そうとしていたからだと続けた。 「そんなことでか?ふざけんじゃねぇ!」  葵は喘ぐように叫んだ。滲み出る涙を押し隠そうと、体を両足のあいだに倒した。 「俺は聞いたんだ……」  顔を埋め、怒りと悲しみに掠れた声で話を継ぐ。 「……事故の前に、両親が話していたのをな。誰かに会いたいと言われて出掛けて行った。それがあんたの父親だってのなら、二人が行くはずないぞっ」  葵は葬式からずっと疑問に思っていたことを、投げ付けるようにして省吾に話した。両親は事故で死んだのだと、省吾に納得させようとした。両親の会話、鬼のこと、母親の謝罪、知りたかったことをぶちまけた。 「おまえの両親が会おうとしたのは、俺の母親だろうな……」  省吾の言い方には、それが全ての答えだという雰囲気があった。 「こんな話、この町の誰も信じない。俺の母親とおまえの母親が親友だったなんてね。誰よりも大切な友達の為に、俺の父親とスキャンダルを起こして、婚約を破談させようとするなんて、信じられるか?」  そこで省吾は少しだけ苦笑まじりの息を吐いた。 「母親は言っていたそうだ、あの時は若さだけが武器だったとね。浅はかだと、お爺さまに言われると、母親も頷くしかなかった。妊娠したのは予定外のことだ、下ろすつもりでいた。それをおまえの母親に止められた。おまえの母親は、命に罪はないと、俺の母親に言った。おまえの父親の存在を教えたのも、俺の母親だよ。婚約者がどういう男かを知らせたかっただけだが、まさか会いに行くとは、母親も思っていなかったみたいだね」 「クソっ、クソ、クソ、クソっ」 〝俺は大丈夫だから。恵理子さんが俺をこんなにも幸せにしてくれたこと、わかってもらいたい〟  父親の声がした。母親との出会いをくれたことへの感謝の言葉だった。しかし、そうなると省吾の母親も事故にかかわったことになる。両親との繋がりを知っていなければ、二人を誘い出すのは無理だ。親友を嵌めたことになる。やはり省吾の話には矛盾がある。そう考えた葵の思いを察したように、省吾が答えて行く。 「……今朝、母親がお爺さまに話して聞かせたことだよ」  少女達の華やかでありながらも、儚く淡い恋と友情が、省吾の口から語られ出した。

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