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第三部 26-4 (終)

〝麻美お姉様……〟  母親の声が葵の頭に響いて来る。葵が知るよりも高めで可愛らしい響きだった。夢と希望に満ちた少女の頃に深めた真摯な愛、秘密がそれをより濃密にした。時にふざけて頬を寄せ、口づけをし、肩を寄せ合い、慰め合った日々が、霞がかった中に優しく浮かぶ。 〝……私達の仲が悪いと思われるのは、我慢がなりません〟  母親らしい強気な口調に微笑まされる。相手の少女も同じなのだろう。愛おしさに溢れた響きで答えていた。 〝聖女の皆様に、そう信じてもらうことが大切なのです。皆様が言うのだから、この町の男達も信じます〟 〝私、そんな男達に負けたりしません〟 〝絵理子様は香月家のお姫様ですもの、それだけで恐れ(おのの)くでしょう。だからこそ、側に寄せる者への監視も怠らない。私は藤野の妹、弾かれることはわかっています。男は臆病ですから、怖がらせないようにしなくてはね。不仲と思われていれば、引き裂かれる心配もないということ〟 〝麻美お姉様の素晴らしさがわからない男なんて、私、嫌いです〟  ぷっと頬を膨らませた母親の顔が懐かしい。葵の記憶にも、こうした幼さを思わせる母親がいる。父親のお気に入りの顔付きだったと、思い出す。相手の少女にも、微笑みをもたらす顔だった。 〝ふふ、心配なさらないで、いかなる時にも、私は恵理子様の側にいます〟 〝誓ってくれますか?〟 〝はい〟  そのあと、二人で声を揃えて言った。 〝聖女の誓いは永遠なり〟  少女達が抱き合って笑い合う声が、淡い煌めきと共に明るく響く。優しい光が降り注ぐ幻想はそこまでだったが、母親自身の記憶が頭に浮かんだことを、葵は疑問に思わなかった。省吾の低く穏やかな声に描き出された夢だと感じていた。 「俺の母親は……」  省吾が祖父から聞いたという話を、物柔らかな口調で続けて行く。 「……女学園時代、おまえの母親にせがまれて、二人で写真を撮っていた。古い携帯に保存したまま、隠し持っていたそうだ。時折、眺めては、必ずこの町に戻れるようにすると、心の中で話し掛けていたらしい。それをあの男に―――俺の父親に見られた。〝君も裏切られた口か?〟と問われて、咄嗟に頷いた。母親の純な気持ちが、俺の父親にわかるはずがない。邪推させた方がいいと思ったようだが、俺にしても、その判断は間違っていないと思う。だけど、それを利用されたと気付いた時には、大切な女を死なせたあとだった」  省吾は淡々と話しているが、自分の人生の始まりの物悲しさには気付いている。それぞれの思いに翻弄されて誕生した命、それが省吾だと、葵は思った。 「父親との結婚に愛はない。お互い、好き勝手に生きている。それでも、憎み合っていた二人が、仲のいい夫婦と言われるようになったのは、優希の存在があったからさ。その裏に、俺を守りたいという思いが母親にあったなんて、信じ難いことだけれど、おまえの母親に、命に罪はないと言われたことが、忘れられなかったようだね。俺は父親に憎まれているからさ。このままでは、俺がおかしくなると思ったそうだ。兎に角、目障りなんだよ、俺がね。だから正行伯父に―――誰よりも信頼する兄に、母親は相談した。その頃、父親は俺に代わる子供を欲しがっていた。それで優希を生んだ。優希が大切にされるのはわかっていたからね。計画通り、俺は外に出された。それに合わせて、兄妹の仲も疎遠にして行ったが、連絡はこっそり取り合っていた。そこは見事に、みんなが騙されたよ」  省吾が温もりを確かめるように、葵の背中に手を置き、優しくさする。葵を慰めるというより、慰めを求めているような動きだった。 「母親は事故を知って、真っ先に夫を疑った。聡い女性だからね。お爺さまが俺を屋敷に呼ぶと知って、確信したそうだよ。父親の陰で生きるには、もったいない女さ。妙な縁だけど、今回のことで、お爺さまのお気に入りになった」  省吾の話に、葵は滲み出ていた涙が乾いて行くような気がする。 〝ごめんね、葵……〟  母親が最期に何を思って言ったのかはわからないが、わからないままでいいと思えた。母親の思いに悩むことはない。素直に聞けばいい。そして〝俺は大丈夫だよ〟と、密やかに言葉を返せばいいことだとわかった。  葵は背中に感じる省吾の手のひらを振り払わないように、ゆっくりと身を起こした。省吾は葵の動きに合わせて手を動かし、肩へ回して、葵を自分にもたれさせる。葵は逆らわなかった。省吾にもたれ、そうすることで、物問いたげな気配を匂わせた。 「なに?」  省吾らしい物柔らかな口調には、笑いがあった。葵も葵らしい素っ気なさで言った。 「〝鬼〟は?両親の話にあったって言ったよな?」 「ああ、それか……」  省吾の気分が上向いたのは確かなようだ。肩に回された手を少し動かし、切らずにおいた葵の髪を指先で弄び出す。幾ら払っても、しつこい虫のようにやめようとしない。諦めて好きにさせると、やっと続きを話し出した。 「鬼は俺のことじゃないかな。おまえが俺に(さら)われるとでも思ったんだろうね」 「あんたが俺を攫う?意味、わかんねぇんだけど」 「わかるだろ?出会ったら……さ」 「はあぁ?出会ったからって……」 「愛している」  省吾は気負うことなく、さらりとその言葉を口にした。葵は頭で言葉を理解した瞬間、体の方がぴたりと動きを止めたのに気付く。いや、実際に動きを止めたのは省吾の方かもしれない。どちらにしても、その一言で、怒りも悲しみも吹き飛ばされた。一瞬とはいえ、葵の心は無になっていた。 「あ、あ……あ……?」 「何も言うな、多分、俺の方がおまえ以上に驚いている」  次の瞬間には、何もなかった葵の心に、〝よっしゃー!〟という勝利の雄叫びが轟き渡る。これで省吾を一生いじめられると思うと、嬉しくてならない。それがどういうことかは、その時の葵には考え及ばないことだった。  葵は髪にまとわり付いていた省吾の指を払い落とすように、澄まし顔ですっと立ち上がった。自然と顔がにやつくのは、どうしようもないことだが、翔汰の声がロビーに響いたことで、カッコつけた無表情さを保っていられた。 「篠原君、映画、始ま……っ」  翔汰は最後まで言わずに、上映室のドアをバタンと閉めている。省吾の姿に目を見開いたのには気付いていた。省吾が来ていることを知らされていなかったのだろう。憧れの先輩に気が動転したようだ。ドアの向こうから、〝メイ先輩!ちゃんと教えてよ!〟と、怒鳴っている声が聞こえて来る。 「なんかね……」  省吾が溜め息まじりに言った。 「……好かれているのかな?嫌われているような気がして来たよ」 「かもな」  葵はニヤリとし、上映室のドアへと歩きながら続けた。 「従兄弟のかわい子ちゃんが言ってたぜ、委員長はさ、あんたの思惑の斜め上を行く逸材だとな」 「……そう?」  省吾のおとぼけは、あっぱれと言うしかない。清々しい程の憎らしさだが、仲間として翔汰を認めたのがわかる。葵はドアの前で立ち止まり、省吾を待ってやることにした。 「早く来いよ。映画、始まるぞ」 「見なきゃダメ?」  省吾がかわい子ぶる時は、翔汰を意識している時だ。斜め上を行かれたことへの(ささ)やかな抵抗というところだろう。 「ったりめぇだ、あの王子が幾ら遣ったかは知らねぇけど、観てやらねぇと、それ、全部、無駄にさせるってことだぞ」  省吾は苦笑し、立ち上がった。独り言のように呟く声が、葵の耳にしっかりと届く。 「俺にメイを気遣う日が来るとはね」 「ぐずってんじゃねぇ、覚悟を決めたんなら、さっさと歩け」  葵は省吾のゆったりした歩調に苛立つが、省吾が嫌がっているということには、喜びを感じた。三つ巴の気色悪いゾンビ映画にも、観る価値が出来た。嫌がるといえば、Tシャツに描かれた海外コミックのキャラクターにも、省吾は不満を見せていた。人気ヒーローなのにと思うと、気になるものだ。葵は割と真剣な口調で尋ねていた。 「あんた、なんで、これが嫌いなんだ?」  葵がTシャツのキャラクターを指すと、省吾は葵のすぐ近くへと寄りながら答えていた。 「敵役のが好きなんだ、そいつのヒーローぶりは鼻に付く」 「あんた……やっぱ、最低だわ」  葵に罵られても、省吾は嬉しそうだった。笑いながら葵の肩に腕を回し、嫌がっていたのも忘れて、自ら上映室へと誘うように入って行く。

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