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第四部 愛と嘘 1

 山間の村には、あちらこちらに雑木林がある。余所者が誤って入り込むと、出られなくなるくらいに深い森もある。この地で生まれ育った者には、その違いと兼ね合いがわかっていた。子供のうちに、大人達から教えられるからだった。  深い森はひっそりとして、鳥の鳴き声さえ遠くに聞こえる。人を寄せ付けない静けさだが、少し奥まったところには、明らかに人の手によって整えられた(ひら)けた場所がある。寝転ぶのに具合がいい程度に、枯れ木や石を取り除いただけの簡素なものだが、村の大人達がしたことではない。最近になって、村の子供が作った秘密の場所だった。  そこは森の木々が影を作り、昼間でも仄暗い。それでも、青々と萌える若葉が、吹き抜ける風に、甘く爽やかな香りをもたらす。風が揺らす枝葉の音にも、清爽とした夢を思い描かせる。その穏やかさに、低く掠れた声が混じり合う。柔らかく毛羽立ったような声が、途切れ途切れに、森の涼やかな音と響き合う。  それは喘ぎ声というには幼いが、猛り立つ迸りを満たすには十分な艶めきを持っていた。早くと焦る声に呼応し、森に漂う密やかな優しさにも、妖しげで淫猥な匂いが立ち(のぼ)り始める。  快楽に身を浸せば、不安が消える。その為だけに、痩せ気味のしなやかな体を愉悦の波に(ゆだ)ね行く。熱の放出までの僅かな時間に救いを求め、息を乱す。喜びに乱れた息の熱が、森に吹く甘やかな風に吹き流される。  一瞬の時が過ぎて、意識に現実が戻されると、興奮に忘れ去られていた時間が振り落ちて来る。現実は悲しみに溢れている。そこに欲しくもない睦言を囁かれ、甘美な痺れの余韻も消え去った。 「調子に乗んな!」  少年の怒声が森に響き渡った。柔らかく毛羽立ったような声をより激しく掠らせて、怒鳴り付ける。 「クソが!」  身繕いをする少年は、その手に弾け飛んだ汚れを、隣で寝そべる高校生の制服にこすり付けた。予防はしたはずなのに、それを外す時に付いたようだ。少年は着崩れた学ランを直しながら立ち上がり、天界からの使者と見紛うばかりの可愛さを醜く歪めた。  少年は決して小柄ではないが、高校生と比べれば、繊細で弱々しく見える。体格の違いは明白だが、バランス良くすらりと伸びた手足と、途轍もなく可憐で愛らしい顔を前にすると、誰も逆らえない。高校生は体を起こし、訳がわからないと地面に座り込んだ。ほんの少し前には、歓喜に震えていた相手の豹変ぶりに、戸惑いしかないようだった。 「聡、おまえから……」 「気安く呼ぶんじゃねぇ!」  少年は聡と呼び捨てにされたことに腹を立てた。思い切り強く高校生を蹴飛ばし、その足で頭を踏み付ける。 「なんで……おまえから誘ったのに……」 「はあぁ?暇だから遊んでやっただけだろ、寝ぼけたこと言いやがって、きめぇんだよ、このヘタクソがっ」  聡は時間を無駄にしたと思った。むかついてならない。人肌を求めたのが間違っていた。葵の代わりはどこにもいない。聡は高校生の頭から足を引き、腹立たしい思いのままに蹴飛ばした。 「や……やめろっ」  高校生が何を言おうと、平然と聞き流す。気分を台無しにされた腹いせに、さらに容赦ない蹴りを入れて行く。高校生の口から血の混じった唾が吐き出されると、さっと後ろに飛び退いた。 「汚ぇなぁ、このスニーカー、葵と揃いなんだぞ、汚れたら、どうすんだよっ」 「葵って……おまえ、違い……過ぎる……」  高校生が言いたいことは、聡にもわかっている。葵がいた頃との違いを嘆きたいのだろう。聡は自分を目当てに集まって来た仲間を相手に、そこそこ可愛いふりをしていた。困った顔で嫌がって見せれば、葵が助けてくれると思ってしたことだった。 「そんなの……」  無駄だった。葵はいつも笑って眺めていた。葵には仲間同士のじゃれ合いでしかなかった。聡が喧嘩に強いことも理解して、害をなさないことだと言って、男達の楽しみを邪魔しなかった。この高校生に限らず、誰も本気で葵を怒らせようとはしなかったが、じゃれ合い程度のことに、葵が腹を立てることもない。葵らしい男気がそれを許していた。 「……てめぇに言われたかねぇ」  聡は葵に()かせたかった。自分だけのものと、言ってもらいたかった。息苦しいと思うくらいに、縛って欲しかった。高校生のアホ面を見ていると、自分のその切ない思いをわかろうとしなかった葵が思い出されて来る。 「てめぇはさ……」  聡は悔しさと遣る瀬なさを込めて、八つ当たりするように、高校生にもう一蹴り、食らわしてやった。 「やることしか、頭にねぇもんな?俺は恋してんだぞ、好きな奴には、可愛いって思ってもらいたい」 「あいつはもう、帰って来ない……」 「うるさいっ!」  聡はそれ以上言わせないように、またも高校生を怒鳴り付けた。 「うるさいっ!うるさいっ!黙ってろ!」  事故の知らせを聞いて、大人達に交じって、葵と一緒に病院に行ったあの日を最後に、葵とは連絡が取れていない。この村で使っていた携帯は、あの町では使えない。番号が変わったのは、携帯をスマホにしたからだとわかっている。葵はどうこう言える立場にないのだから、番号を変えたくないとは言えなかったのだろう。聡は葵と連絡が取れないのはそのせいだと、心に言い聞かせ、苛立つ気持ちを宥めていた。  しかし、心のどこかでわかっていた。聡が見ようとしないだけだった。立場がどうだろうと、新しい番号を知らせることが葵には出来る。

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