115 / 154

第四部 愛と嘘 2 (終)

 子供の頃は側にいられたなら、それだけで幸せだった。同い年が他に誰もいなかったことで、葵と二人、悪ガキ呼ばわりされるくらいに悪戯をして、泥んこになって転げ回っていた。中学に入学した頃から、それだけでは物足りなくなった。何かがもっと欲しくなった。コンビニの入り口に置かれたままのベンチで、キスをされた時に、何が欲しいのかが、はっきりとわかった。  葵が欲しい。体中で葵を求めている。年季(ねんき)の入ったベンチに並んで座り、自分でも気付かないうちに、葵を誘っていたようだった。 〝俺、自分の顔が嫌いだ、兄ちゃんみたいに、でかい男に似合う顔になりたい〟  嘘を吐いた。女子よりも可愛いと言われるたびに、相手の顔を殴り付けていたが、それも葵の目を気にしたからだ。喧嘩に強いと見抜かれているのだから、少しは嫌がって見せないと、媚びていると思われ兼ねない。あの時にはもう、自分の顔が色々と役に立つことには気付いていた。 〝そうか?俺は好きだけど、聡のその顔〟  そう言ってもらえて、嬉しかった。だから、顔を赤くして俯いた。キスは切っ掛けに過ぎない。体はわかっていたが、意識が理解していなかっただけだ。キスのあと、聡があたふたしたのは、体が痛いくらいに反応し、それを隠そうとしたからだった。 〝……葵、俺……葵のこと、好きだ、好き過ぎて……変になる〟  たがが外れたように大胆になったのは、意識の暴走といったところかもしれない。  二人の関係を隠して欲しいと頼んだのも、葵の気持ちを他へと向けさせない為だった。葵なら必ず守ってくれる。責任感の強さを利用したことになるが、葵も嫌がっていなかった。刺激に煽られ、熱に反応し、蕩けるような疼きを奪ってくれていた。  それより前、葵がどうしようもなく暴れ回っていた頃、聡は胸のうちに響く声に従って、何があっても葵から離れなかった。幼い時に気付いたその声は、心の友達だ。悩みや苦しみに答えを出してくれている。その声に従うことに、迷いはなかった。  日に日に、葵の美貌に凄みが増しても、怖がらなかった。大したことではないと、笑って済ませた。葵が聡の変わらない態度を、ありがたく思っていたのも知っている。 「なのに、なんでだ」  聡は葵と連絡が取れないことに苛立つが、捨てられたとは思っていない。根が真面目な葵には、出来ないことだ。 〝葵!帰って来るだろ!〟  葵が迎えの車に乗り込もうとしていた時に掛けた言葉が、思い浮かぶ。振り向いて、頷いてくれると信じていたが、聡のその思いは裏切られた。葵は聞こえないふりをしたのだ。真っ直ぐ前を向いたまま、車に乗り込んでいた。  理由はわかっている。事故のその瞬間に、いちゃつき、笑い合っていたことが許せないのだ。たまたま起きたことなのに、真面目過ぎて自分を責める。あの事故が憎い。事故さえなければ、幸せは続くはずだった。  聡には計画があった。大学を遠く離れた県外にして、卒業後は二人で別の町に移ってひっそりと暮らす。我がままで子供じみた計画だが、葵を説得する自信はあった。葵が引き取られたあの町でなければ、どこでも構わなかった。  葵の中にいる血に棲むものの存在は、胸のうちに響くその声に教えられている。葵のそれは欠片でしかないが、それ自体にも力がある。苦労はしない。優雅に暮らせる。不安なことは何もなかった。  血に棲むもののことは、かつて人に鬼と呼ばれて恐れられていたものだと聞かされている。その眷属として生み出されたのが、胸のうちに響く声だった。声には大勢の仲間がいる。鬼は彼らの主人なのだ。  千年の昔、主人が人と『血の契り』という約束をしたことで、人が鬼を、血に棲むものと言い換えた。血に棲むものには、あの町を丸ごと守れる力がある。しかし、欠片なくして、完全とは言えない。『血の契り』は不完全なものを正す行為ということだった。  聡に寄生するそれの苦悩も、始まりは『血の契り』にあった。人の手に、鬼の欠片が持てるよう、丸い器のような透けたもので覆ったことが、聡の胸のうちに響く声が、はぐれ鬼になった原因を作り出した。  全てが葵の知らないことだ。知らせる必要もない。 「二人で一つ……」  胸のうちに響く声が、自然と口に出る。〝……だもんな?〟と続ける囁きにも頷いた。 「俺のだ、渡すもんかっ」  聡は声を大きくして呟いた。柔らかく毛羽立ったような掠れ声に、高校生が顔を向けて来る。何を勘違いしたのか、ふらふらと立ち上がり、機嫌を取るようにへらへらと笑う。  聡は天使のように可憐で愛らしいその顔に、笑みを浮かべた。わざとしたことだが、高校生にはわからない。わからせようと思い、隙だらけの無骨な顔に拳を見舞った。高校生が地面に吹っ飛んだその時、スマホが鳴った。  ズボンのポケットからスマホを取り出し、画面に表示された名前にニコッとする。聡は笑顔のままで、スマホを耳に当てていた。 「爺ちゃん、なんか用?」  可愛らしい甘々な響きで答えて行く。 「どこにいる……って?うーん、葵のこと思って、森ん中で、ぼーっとしてた。えっ?迷わないのかって?ヘーキヘーキ、大丈夫だって、それより、なんの用?」  聡は森の外へと歩き出した。地面に伸びている高校生のことは、完全に忘れ去っている。 「えぇぇ!やったー!中間テストの結果で編入試験が受けられるの?それで二学期から?退学する奴の都合って、そいつ、何したの?マジでバカ?」  聡は声を弾ませて続けた。 「わかってるって、他じゃ言わないって。うん、ちゃんと勉強するよ、葵をびっくりさせたいもん。うん、すぐ帰る」  電話を切り、スマホをズボンのポケットに戻す。 〝だろ?うまく行ったよな?〟  胸のうちに響く声に、聡は微笑んだ。葵と離ればなれになって焦った聡に、葵がいないことに癇癪を起こせと、声が囁いてくれていたのだ。聡をおとなしくさせるには、葵の側にやるしか方法がない。又吉を始めとする村の大人達に、そう思わせた。 「だけど、あの町には……あいつがいる」  列車の窓を叩いた男―――今の名前はわからないが、あの男が誰かはわかった。聡には不思議な感覚だったが、胸がドクンとし、目を逸らせなくなった。  初めて見る顔なのに、懐かしかった。背が高くて恐ろしげな様子だったが、親しみも感じた。最初、聡の意識は戸惑ったが、すぐに胸のうちに囁かれ、記憶を共有し、何者かを知った。 「あいつはいつも現れる。やめろと言う為だけに……」  胸のうちの思いが言葉になった。 「見てることしか出来ないくせに、口を出したがる厄介者だ。邪魔臭くてならない」  聡の愛らしさでは、ごまかせない相手でもある。それならと、聡に寄生するそれを表に出して、こちらも気付いたことを見せ付けてやった。  あの男だけではない。あの町には、うようよいる。列車が到着した途端、久しく忘れていた仲間の匂いに、むせ返るようだった。それもこちらだけのことだ。向こうは誰も気付いていない。主人から逃げ出し、感情を持ったそれのまま、好きに寄生しているうちに、はぐれ鬼と呼ばれるようになったが、その頃から、匂いも消せるようになっていた。  学園前の駅で絡んで来た大男も、すぐに仲間だとわかった。大男の方は、聡に寄生するそれには気付いていないようだった。うどの大木は扱いやすい。そう馬鹿にしていたが、ホームにあの男が現れたのを見ると、多少は頭が回るようだ。 「だから何?キモくてウザイ奴らってだけじゃん」  そこで突然、寄生するそれが胸のうちへと声を戻す。 〝あいつらは何もしない。仲間を傷付けられない、だけど……〟  あの町に帰るのを不安がるように、声が続けた。 〝……主人は違う。今回は最後なんだ、主人だって必死だよ〟 「だから、離れてちゃダメ、だろ?」 〝欠片が子供のうちは、主人にも手が出せないから……〟  不安は増すばかりだが、まだ間に合う。聡は胸のうちの囁きに、強く頷き返していた。

ともだちにシェアしよう!