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第四部 28-2
高等部ともなると体付きが違う。大人の男に近くなり、声にも迫力が出る。ジャンケンでずるをしたと喚いたのが、その三年生では、妹のように可愛がられて育った翔汰が怯えたのもわかる。
二年も前のことなのに、翔汰は思い出しても恐ろしいと震えていた。幼さが今以上に残っていただろう小さな顔を思い、葵はその場にいられなかった自分を残念に感じた。
「篠原君、変な顔してる……」
オヤジ臭く鼻の下を伸ばしていた葵を見て、面白がっていると思ったようだ。翔汰は不満げに言い、小さな顔に似合ったちんまりした鼻に皺を寄せていた。
「あっ、そうだ、さっき、僕……」
説教もだが、お喋り好きな翔汰だけあって、賭けについての語り漏れに気付くと、むくれていたことも忘れてしまう。翔汰は熱のこもった口調で話を繋げた。
「……卒業生のあいだでは、凄い配当になりそうだったって言ったけど、バレーで中等部のクラスが優勝したからなんだ。過去に二度、中等部が優勝してること、記録にあるって教えたでしょ、二年前が半世紀ぶりの二度目だったんだよ。ジャンケンで負けて〝最強クラス〟にはなれなかったけど、勝ってたら、こっちも凄いことになるところだったみたい」
「大穴なんて絶対に認めない……か?」
「うん」
「半殺しの目に遭わされるとか?」
「うぅん、そこまではないと思うけど……わかんない。だって、藤野先輩、怖いもん」
その怖い藤野先輩に、省吾の思惑の斜め上を行く逸材と言わせたのを、翔汰は知らない。葵は更衣室のロッカーをバタンと閉め、期待に満ちた声音で明るく言った。
「半殺し、上等だぜ」
「篠原君……」
「おっと、説教は聞かねぇぞ」
葵は翔汰のちんまりした鼻を軽くつつき、笑いながら続けた。
「男は勝負する時は勝負しねぇとな」
妹扱いから脱皮して、強い男になろうと意気込む翔汰には、殺し文句となる言い方だった。葵が男気漂う雰囲気でニヤリとすると、翔汰も幼さの残る顔を、慣れないことに、ぴくぴくと痙攣させながらもニヤリとさせた。男らしさを真似ようと、葵と同じようにロッカーをバタンと勢いよく閉め、奮起するように鼻息を荒くする。
「僕、勝負する!」
「おう!そう来なくちゃ!」
翔汰と話すのは本当に楽しい。互いの母親が『淑芳女学園』の同級生というのも、不思議な縁だと、葵は思う。マキノの店で聞いた怪しげな女達の集まりを、翔汰は〝恵理子様を称える会〟と言っていたが、そこにも、この町との繋がりの深さを思わされる。
〝お母さんも会員で、藤野先輩のお母さんもメイ先輩のお母さんも会員だよ……その会には在校生も入会出来て……お姉ちゃんも……〟
翔汰の長ったらしい話は割愛 したとしても、溢れ出る思いまでは切り捨てられない。葵がこの町に来ることになったのは、両親の事故があったからだが、事故に関係なく、いつかはこの町に来ていたような気がする。事故はその時期を早めたに過ぎないのだろう。
両親のことを思うと、今も胸が苦しくなる。これから先も、二人の死を完全に乗り越えることはないと思うが、悲しみに浸り続けるつもりもない。〝俺は大丈夫だよ〟と、胸の奥で密やかに、母親に伝えたことの意味を、葵は大切に思っている。
事故のことは、省吾から聞かされた通りになった。三つ巴の気色悪いゾンビ映画を観た週の後半に、省吾の父親が逮捕されたのだ。この町の再開発を巡って、隣町のいかがわしい連中との密約が発覚し、そこに両親の死が関係していたのかどうかも調べられた。梅雨の最中 に始まった裁判は、政界、官界、財界を揺るがすもので、省吾の父親は保釈が認められず、今も拘置所に留め置かれている。
省吾から話を聞いたその日は、映画を観たあと、全員でマキノの店に行った。そこで宴会紛いの食事をしてから、大男のサキが企画したというダンスパーティーへと向かった。全員にサキからの招待状があったが、趣味の違いに、田中と井上は渋っていた。翔汰が行くと叫んだことで、当然のように二人も付いて来た。来て良かったと、二人が認めた頃には、葵はダンスフロアで思い切り弾けていた。
両親の死後、悶々としていた思いも、音と光の乱舞にすっかり洗い流された。帰宅したその足で、尚嗣の書斎へ行こうと決めたのは、胸に巣くっていた蟠りが晴れたからだろう。
感情を押し殺す尚嗣のひややかさはいつものことだったが、その夜は、葵には陰鬱な表情に隠された深い悲しみが見えていた。これから起きることを尚嗣に知らせていいものなのか、葵はその瞬間まで迷っていた。尚嗣の悲しみに気付けたことで、躊躇いは消えてなくなった。
〝剛造が?〟
尚嗣の驚きは、父親が息子を告発したことにではなく、剛造という男がした行為自体にあった。
〝二人を死なせたのは、私と剛造ということか、馬鹿な親達のせいで……〟
そう続け、恥じ入るように顔を伏せた。
〝私と剛造は、この町の秘密に振り回された。二人して、間違いを犯した……〟
そこで顔を上げ、覚悟を決めたような強い口調で言った。
〝いや、剛造の思いは一貫していた。何もかも、私のつまらない誇りが招いたことだ〟
尚嗣は具体的には話したがらなかった。秘密はもう過去のこと、知らずにいた方がいい。葵がどう生きるかは、葵の自由だと続けた。葵も無理に知ろうとは思わなかった。知るべき時が来れば、自ずと知れる。それで十分に思えた。しかし、自分に対する尚嗣の冷たい態度が、ストリッパーをしていた父親にあるのなら、誤解を解きたい。葵が知る父親の姿を知ってもらう為にもと、理由を尋ねた。
尚嗣は黙り込み、答える気配を見せなかった。葵が諦めて書斎を出ようとした時に、ようやく重い口を開いた。愛した者が悉 く早死にしているからだと、尚嗣は言った。ひややかに接することで、葵の命が守られる。孫に嫌われようが構わない。孫の命を優先したということだった。
〝母さんは……〟
葵は尚嗣の鬱屈した思いを放っておけなかった。葵もまた自分を責めていた。事故のその時に、両親の不在を喜んでいたのが許せなかったのだ。
〝……最期の時に、こう言ったんだ、ごめんね、葵……ってさ〟
謝られる理由が知りたかった。秘密ばかりの両親にも、腹を立てていた。行き場のない怒りに、おかしくなりそうだった。それも駅のホームで省吾に声を掛けられたことで、少しずつ和らいで行ったように思う。最高なのは、〝愛している〟と言われたことだ。葵もこれにはぶっ飛んだ。
〝なんか、似てねぇか……〟
葵は省吾を思い、つい笑顔になって続けた。
〝……血筋っての?お爺さんも母さんも、俺もだけどさ、みんなで自分を責めてるだろ?〟
愛する者の死はつらく悲しいが、その死に責任を感じる必要はない。理由や秘密を探ったところで、どうなるものでもない。それは尚嗣にも言えることだとわかる。
〝オヤジは母さんと出会えて幸せだった。俺も生まれたことに感謝してるぜ、全部、お爺さんのお陰さ〟
尚嗣はほっとしたように笑った。その夜、尚嗣とした約束の全てを、取りやめにした。二人で母親のことをたくさん話した。香月家のご令嬢らしく、外では楚々としていながら、家ではおてんばだったと聞かされても、驚かない。山間の村での武勇伝に―――隣村の不良達を相手に、竹ぼうきを振るって叱り飛ばしていた母親に、尚嗣の方が笑った。話は尽きなかった。
夜も更けて、もう寝ようという時、尚嗣から鍵を渡された。山間の村から運ばせた荷物が保管してある倉庫の鍵だった。葵の好きにしていいと言われたが、いざ鍵を手にしてみると、遺品の整理という重みを実感させられた。もう少し、このままにしておくと、葵は答えた。静かに頷いた尚嗣には、葵のその思いがわかったようだった。
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