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第四部 28-3

 省吾の父親が逮捕されたとニュースになったその日の夕方、蜂谷家の当主が倒れた。直後に、尚嗣にも緊急入院したとの知らせが届いた。葵はそこら辺りの事情について承知していたが、誰にも話していない。マキノの店で、こっそりと省吾に耳打ちされていたからだ。祖父の為にも、ここだけの話にして欲しいと、省吾には言われていた。  葵は省吾に囁かれた時、吉乃が話していた朝食会のことを思い出していた。マキノ自慢の手料理が次々と運ばれて来る中、さり気なく箸を付けながら、吉乃の話に感じたことを省吾にそっと問い返していたのだった。 〝その二人、仲、悪りぃんじゃねぇのか?〟 〝複雑なんだよ〟  省吾は笑うような口調で答えていた。騙すのとは違う、二人のことに、誰もかかわらない方がいいからだとも言った。省吾が正しかったのは認めるしかないようだ。尚嗣は知らせを聞くとすぐに吉乃を呼び、ハイヤーを手配させていた。黙っているのが後ろめたく感じたくらいに、悲愴な面持ちで出掛けて行った。  翌朝になってマンションに戻って来たが、その時には笑顔になっていた。一晩、病院で過ごすという連絡は受けていたが、事情を知る葵にすれば、付き添う理由がわからなかった。あとで聞いた話だが、着いた早々には、病院の特別室から二人の激しく怒鳴り合う声が廊下にまで響いていたそうだ。  尚嗣は登校しようとしていた葵を呼び止め、一晩掛けてじっくり話し合い、全てを水に流したと言った。息子を庇わず、鍛え直す為に逮捕させたこと、蜂谷の事業は嫁の麻美に引き継がせること、他にもあれやこれや、剛造が父親としてしたことは、息子の弘人には耐え難いのだと、聞いてもいないことまで説明した。朝帰りしたことの言い訳でもしているように、葵には思えた。 〝ゴウは昔から嫌みな奴だったからな〟 〝ゴウ?〟 〝学園時代にそう呼んでいたのだよ、向こうは私をナオと呼んでいた〟 〝へぇ〟  葵にすれば、そういう話だ。それからは日を空けずに病院に通っている。予定を全てキャンセルし、いそいそと出掛けて行く。寡黙で厳しい人だと思っていた葵には別人に見えたが、幸せならとやかく言うことでもないと思った。  かわいそうなのは吉乃だろう。どこへ行くにも側に付いていたのが、置いて行かれるようになり、暇そうにしている。 〝わたくしは香月家の家令でございます。本来の業務に戻ったまでのこと、お気になさらないで下さい〟  寂しげな口調がいじらしく聞こえた。香月家が吉乃なしには立ち行かないのは、変わっていない。常にマンションにいるようになったことで、吉乃は香月家の奥向きに(いそ)しみ出した。そのことに文句はない。ただ、尚嗣や葵の帰りが予定より少しでも遅くなると、夕食の準備がどうのと、グチグチと口煩いことを言うようになったのには困りものだ。尚嗣は葵と一緒になって謝っている。  そうした日々にも慣れた頃、中間テストの結果が発表された。 〝凄い!篠原君が一番だ!〟  翔汰の嬉しそうな声が、葵には照れ臭かった。上位者十名が廊下に張り出されていたのだ。翔汰も七番目に名前があった。一学年に八十人程度とはいえ、同級生が聡だけという田舎の中学と比べれば大人数だ。試験の順位に意味がないところで育った葵には、注目されることへの恥ずかしさしか感じなかった。  葵はやたら嬉しそうな翔汰を引っ張って、教室に戻った。何が翔汰を喜ばせているのか、気にはなったが聞かずにおいた。翔汰のことだ、自分から話すのはわかっていた。思った通り、翔太は教室に入るなり、勢い込んで話し出した。 〝僕、篠原君に内緒にしてたけど、お母さんと指切りしたんだ〟 〝俺に?内緒?〟 〝うん、だって、篠原君の成績のことだもん。篠原君は絵理子様の息子だから、絶対に僕より賢いって、お母さんが言ったんだ。僕、ちょっと悔しくて……それなら中間テストの結果を見てよって、言っちゃった〟  勉強させようとした母親に、うまく乗せられたのかと、葵は思った。それの何が楽しいのかは、翔汰にしかわからないことだ。そう思ったが、翔汰の話には続きがあった。 〝僕が篠原君に勝ったら、門限を一時間伸ばすこと。だけど、負けたら、絵理子様の追悼会に必ず篠原君を連れて来ること……って、指切りしたんだよ〟  葵がどういった顔で翔汰の話を聞いていたのかは、すぐに言い足した翔汰の言葉でわかるだろう。 〝あっ、心配ないからね。追悼会って言っても、少人数のお茶会みたいなものだから〟  葵には得るところが何もないこの話も、発端は三つ巴の気色悪いゾンビ映画にあった。B級映画らしく、突っ込みどころ満載の奇抜で笑える映画が切っ掛けで、翔汰の人生も変革の時を迎えたようだ。  上映室は貸切ということもあり、気兼ねはいらない。葵は茶々を入れまくって観ていた。つまらなさそうに観ていたコウとリクも、その手があったかと騒ぎ出し、省吾でさえ笑い出していた。うるさいと喚いたのは、従兄弟のかわい子ちゃんだ。寝るに寝られないと、怒っていた。田中と井上は最前列に移動して、騒ぎから遠く離れるようにして観ていた。翔汰も初めのうちは飛び散る臓器のリアルさに真っ青になっていたが、途中からは一緒になって騒いでいた。メイは気色悪さにワクワクしていたはずなのに、スクリーンには目もくれず、最後まで翔汰を眺めて楽しんでいた。  そういった映画館での興奮が、翔汰の気持ちを大きくしたのだろう。マキノの店で腹を満たしたあと、十代限定のダンスパーティーへも即座に行くと叫んでいた。突然の催しでも、スマホで拡散され、チケットは即完売だったと聞く。その特別なパーティーへの招待状が、こちらにはあった。翔汰が行くと決めた気持ちもわからなくない。  葵は大いに楽しんだ。翔汰も同じだったが、門限を回ってから帰宅したことで、家では大騒ぎになっていたそうだ。翌朝、教室で顔を合わせるなり、翔汰はプリプリしながら話していた。 〝たった十分だよ。お母さんったら、警察に捜索願いを出そうとしていたんだ。お父さんが篠原君と一緒だから大丈夫だって、お母さんを止めてくれたから良かったけど、僕、かっとしちゃって、いい加減にしてって怒鳴っちゃった。お母さん、わーわー泣き出すし、そうしたら、お父さんまでお母さんの味方になって、丁度帰って来たお姉ちゃんも、最初は僕の味方だったのに、ダンスパーティーが原因だって知ったら、急に態度を変えてさ、チケットが手に入らなかったんだって。それで、そんなとこへ行った翔ちゃんが悪いって、僕を責め始めるし、無茶苦茶だよ〟  葵はその日、この世に〝箱入り息子〟が存在することを知った。それ以来、翔汰の門限には気を遣っているが、田中と井上が知らないはずのない話だ。ダンスパーティーという慣れない興奮が、二人にも作用したようだ。その日の昼休み、翔汰が食堂で長話を繰り返していた時、悔しがるような表情を揃って見せていた。

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