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第四部 29-1

「クソ生意気な美人が、キーキー、喚いてんぞ……」  誠司が嫌みったらしく囁いて来た。 「……ったく、騒々しい野郎だぜ」  言われなくても、省吾の耳にも葵の怒鳴り声は聞こえている。反響しているが、話の内容を理解するのにも支障はない。わかっていながら、誠司は葵が怒鳴った理由を教えようとする。 「あのクラス、美人を除いた全員で、俺達のクラスに賭けていたからな。小猿が〝いの一番〟に、単独で申し込みに来ていたが、おまえを神聖視している小猿のことだ、選手で出るのを聞き付け、最初で最後になる今年、真っ先に来たのもわかる気がする。だけど、美人のクソ野郎に内緒にしていたなんて、ったく、猿だけあって知恵が回りやがる」  中等部の体育館には、バスケットボールに参加を決めたクラスの生徒が、各々の練習時間に合わせて寄り集まっている。その殆どが、葵の怒鳴り声に練習をやめて、何事かと様子を窺っていた。彼らには怯えがあるようにも見えたが、それ程に、かっかしている葵を目の前にしても、小猿は少しも動じていなかった。 「あれじゃ、幾らメイをけし掛けたって、無駄ってもんさ、残念だったな」  小猿のことを、〝省吾の思惑の斜め上を行く逸材〟と言ったのは誠司だ。それで葵と和解しようが、〝従兄弟のかわい子ちゃん〟と呼ばれているあいだは、省吾への嫌がらせをやめようとはしない。多少のからかいはあったが、誠司を可愛いと思う気持ちに嘘はない。可愛さの違いを理解しようとしない誠司が悪いと、省吾は思っている。謝るつもりは更々なかった。 〝おまえも誠司の人生を楽しめよ〟  省吾の言葉を、誠司は実践している。省吾への嫌がらせも、その一つというのだろう。胸に感じる笑いは、省吾自身の苦笑以外にも、思わず吹き出した血に棲むものの失笑が混じり合っているようだった。  省吾は誠司を睨み付け、溜め息を漏らした。その思いのまま、視線を葵に流した。また少し背が伸びたと思う。切らずにいる髪も、同じように伸びている。それをヘアゴムで器用にまとめて団子型にしてある。類い稀な美貌が露わになっているが、たった数か月の僅かな成長であっても、意志の強さが顔立ちにもはっきり表れ、凄みが増したように見える。  葵が本気で怒っているのなら、小猿といえどもニコニコしていられないだろう。葵は怒鳴り散らしているが、省吾の目にはどこか楽しげに映る。葵の心が田舎の中学に戻ることはない。この町のこの学園に、根を下ろしたということだ。省吾はそれが嬉しかった。  クラスメートの態度からしてわかることだ。体育館に寄り集まった他のクラスの生徒とは違って、葵を少しも怖がっていない。何をするにも行動を共にするようになったせいか、頭から湯気を立てている葵を放ったまま、内輪揉めを始めている。 「だから、篠原には内緒にするって決めたのに」  クラスメートの一人が言ったことに、そうだそうだと、揃って声を上げるクラスメートの目が、食堂でのあのにやけ面に向かった。葵のお人よしさがそうさせるのか、葵に絡んだ挙げ句、蹴り飛ばされたはずの高校生三人と同様に、にやけ面の生徒も、クラスで孤立することなく、普通な付き合いが出来るようになっている。 「篠原は賭けのこと、知ってたぞっ」  声高に言い返す口調にも、食堂の時のような嫌らしさがなかった。 「俺は篠原に聞かれたから答えただけだ。久保が教えたんじゃないのか?更衣室で、こそこそ話してただろ?」  次にクラスメートの目が小猿に集まると、小猿が焦った口調で喋り出した。 「賭けのことは話したよ、だって、これも学園の伝統じゃないか、隠したって仕方ないもん。だけど、僕やみんなが、先輩のクラスに賭けたことは言ってないよ。バレそうになったけど、僕、ちゃんとごまかしたから。真面目な生徒は参加しない、だから、篠原君は無理しないでって」  かんかんになって怒っている葵の様子からして、ごまかせていなかったようだ。小猿の隠し事に気付いて、様子見(ようすみ)していたのが省吾にはわかる。知らないうちに、正直に話していた小猿の姿が嫌でも浮かんだ。 「それにさ、先輩が選手で出るってこと、みんなに教えたの、僕じゃないよ。球技大会なんて適当にやろうって言ったのも、篠原君はきっと熱くなるから内緒にして、みんなで先輩のクラスに賭けようって言ったのも、僕じゃない。僕はちゃんと止めたよね。篠原君は絶対に、なんで自分達のクラスに賭けないって、怒るはずだって。だから、僕は先輩に賭けること、内緒にしたんだもん。みんなも賭けるのなら、そうした方がいいよって言ったけど、僕が言ったの、それだけだよ。篠原君がちょっとトイレって、クラス会議、抜けちゃった時、今のうちだって、みんなで決めたんじゃないかっ」  省吾は小猿の話に、ふっと小さく笑った。この調子で、自分の賭けのことも全て漏らしていたのだろう。 「てめぇら……っ!」  葵の更なる雷が落ちるのが、省吾にはわかった。体育館の空気が仄かに熱を持ち、振動する。省吾だけが嗅ぎ取れる匂い―――葵の体から放たれる甘く爽やかな匂いも、きつくなったような気がする。 「そこにっ!並べっ!」  葵の怒号が炸裂したと同時に、二十人足らずのクラスメートが、ぱぱっと瞬時に一列に並んだ。彼らの前を行きつ戻りつしながら、ガミガミガミガミ、葵の小言が始まる。葵は小猿のことを説教好きだと言っていたが、あのガミガミぶりからして、葵も同じようなものなのだろう。  省吾は葵を眺め、悠々とした気分で、緩やかに微笑んだ。誠司に視線を戻し、嫌がらせにも平然として見せる。誠司は葵を〝クソ生意気な美人〟と呼ぶが、葵のことは気に入っている。というより、省吾が聡を気にする程度に、葵のことを気にしているのかもしれない。 「あれが、面白い?」  物柔らかな口調で、嫌がらせへの返しを、皮肉っぽく言った。誠司は省吾に軽く遣り返されようが、気にもせず、葵のガミガミぶりを興味深げに見詰めていた。  省吾も誠司も、高等部に進んでから今日まで、中等部の体育館に来たことはなかった。コウもリクもメイもだ。球技大会に真面目に参加したことがない。学園に入学してからずっと、補欠だからと練習にも出向かず、彼らと一緒に食堂で時間を潰していた。誠司に賭けの窓口が任されたあとも、何も変わらなかった。誠司は滞りなく賭けが進行するよう、食堂に陣取り、組織の動きに目を光らせていた。  省吾だけが、最初で最後の参加というのではなかった。誠司達仲間も、学園最後の年に、球技大会という思い出を作ることになった。

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