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第四部 29-2

「お爺さまには困りものだけど、そのお陰でもあるのかな?」  省吾の物柔らかな口調に、誠司がふんと鼻を鳴らした。葵が球技大会に熱くなるのは、省吾にもわかっていた。勇ましい姿を楽しみにしていたくらいだ。自分自身のことは、学園最後の年であっても今まで通り、補欠で十分と思っていた。変節したのは、祖父という立場を利用した剛造の絶対命令によるものだった。  学園伝統の球技大会の裏で行われている賭けも、同じ年月、受け継がれている。栄えある一回生と呼ばれる卒業生が、入学したその年に始めたと言われているが、蜂谷の嫡子の側にいた生徒に寄生したそれが(そそのか)したと知るのは、人と意識を共有している仲間だけだった。彼らの賭け好きが伝統にしたようなものと言えるだろう。剛造が学園の生徒であった時代に、生徒会をも黙らせる組織へと発展したが、誠司に寄生するそれが、過去世で成し遂げたことだとも言えるのだった。  誠司がふんと鼻先で馬鹿にしたのは、絶対命令という剛造の過干渉を思い出したからだろう。誠司には、繰り返される歴史の一つでしかない。賭けを始め、窓口を作り、組織立ったものにした記憶を、誠司は自らに寄生するそれと共有している。  単純に賭けを楽しんでいた彼らからすれば、剛造が今の形にしたようなものと、そう言いたいのかもしれない。だからこそ、賭けに関心のなかった弘人と優希のせいで、剛造はここ何十年、球技大会にも、その裏の賭けにも、興奮することがなかったようだ。今年は違った。病院の特別室から省吾に電話して来る程の熱の入れようだった。 〝弘人も優希も、運など必要ないと思っているからな〟  ここ何十年の()さを晴らそうというかのように、剛造の口調は辛辣だった。 〝より強い者の思惑で、勝ちは決まると思っている〟  遠回しに、球技大会に不正があったと言っているようなものだった。保釈が認められず、拘置所暮らしを余儀なくされている息子に、運に見放されるとはどういうことかを考えるよう、伝えたとも話していた。 〝二人に理解させる為にも必要なことだ。蜂谷であるからには、強運であると、おまえが身をもって知らしめなくてはならない〟  省吾は胸のうちで血に棲むものがせせら笑っているのを感じた。省吾に運は必要ない。当然、学園時代の剛造にもだ。それを知っていながら、剛造は祖父らしい口調で続けていた。その果てに言われたのが、これだった。 〝老い先短い祖父の些細な頼みも聞けないのか?〟  葵の口癖ではないが、あの時は本当に〝はあぁ?〟という気分だった。その気はないと、何度答えようが、受け入れてもらえなかった。尚嗣から聞かされたと言って、遣る気満々の葵の様子にまで話が及び、最後は怒鳴り付けんばかりに声を荒らげていた。 〝球技大会だぞ!蜂谷が香月に負けてはならない!〟  葵だの香月だのと出て来た時点で、この話に運も蜂谷も関係ないと、省吾にはわかった。剛造と尚嗣の仲は、どうなっているのだろう。誤解を解いたと聞いていたが、半世紀にもわたる確執は、そう簡単には解けなかったのだろうか―――。省吾には判断が付かなかった。  電話では(らち)が明かない。省吾は特別室まで出向くことにしたが、出掛けに誠司に呼び止められた。血に棲むものと融合し終えた省吾に、子守は必要ない。わかっていても、長年の習慣は変えられないものだ。付いて来たそうな気配を思い、仕方なく、事の経緯(いきさつ)を話した。 〝爺さん……〟  珍しいことに、誠司はクスクスと子供っぽい笑いを見せながら言った。 〝……おまえを乗せるのがうまいな〟  子供のような笑いに、嫌みはなかった。一緒に行きたそうな気配はそのままでも、しつこく食い下がろうとはせずに、玄関先で省吾を見送っていた。  病院に着いて、誠司の笑いの意味に気付いた。呼ばれてもいないのに、わざわざ話しに来ている。家族として、孫として、省吾の行動には剛造への甘えがあった。引き返してもよかったが、誠司に笑われたことを思い、祖父面をするなと、面と向かって言わなくては気が済まなくなった。  省吾はエレベーターに乗り、特別室のフロアを目指した。まさかエレベーターホールで、母親と鉢合わせるとは思わなかった。感情に流されると、ろくなことがない。母親が危険な存在であれば気付いていただろう。避けて通ることも出来たはずだ。省吾としては、そうあって欲しかった。気付けなかったことで、母親に悪意のないことに気付かされてしまった。それでも他人行儀に遣り過ごすことは出来る。省吾はそのつもりでいた。 〝元気そうね〟  擦れ違いざまに、母親から声を掛けられた。背の高い女だと思っていたが、それ程でもない。いつの間にか母親の背丈を、追い抜いていたことを知った。僅かとはいえ、視線を下げて話さなくてはならない女を相手に、子供じみた真似は出来ない。省吾は軽く頷き、答えた。 〝そちらも〟 〝知らないふりをして良かったのに、大人なのね〟  母親には年齢を感じさせない美しさがある。厳つい顔の藤野と兄妹とは思えない美貌だが、二人が兄妹であるのは、最近の母親の行動で証明されている。剛造の病室を頻繁に訪れるのも、藤野がそうだったように、剛造から学ぶことが多いからだろう。  剛造は息子の弘人が逮捕されたあと、蜂谷家が携わる事業を嫁の麻美に引き継がせた。陰で藤野が支えているようだが、矢面に立ち、事態を収拾させて行ったのは、その嫁である省吾の母親だ。蜂谷家を守護する者達の働きもあったが、剛造のお眼鏡に適った通り、母親にその素質があったということだ。剛造の個人資産を省吾に移そうが、高校生の省吾に事業まで任せられない。蜂谷家の次期当主の逮捕という不名誉を払拭し、早急に手を打つ必要がある中で、母親は見事に蜂谷の事業の立て直しを図った。  噂では、六年後の知事選に出馬すると言われている。本人は強く否定しているが、『淑芳女学園』の同窓生一同が全面的に支援するというのだから、当選も夢ではない。女達は省吾の母親と葵の母親との繋がりを知り、麻美派、恵理子派と分かれて、対立していたことを深く反省したと言われている。その上で、男の間違いは女が正すと息巻いているそうだ。この町の男達は、戦々恐々としているという話だった。  それも省吾にはかかわりのないことだった。省吾は軽く頭を下げて廊下を進もうとした。 〝あなたにお願いがあるの〟  丁重な物言いを無視するのは難しい。省吾はイラっとしたが、仕方なく問い返した。 〝なに?〟 〝優希のことよ〟  意表を突かれた。母親が省吾に優希の話題を振るとは驚きだった。

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