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第四部 29-3
〝お義父さまに従うよう、あなたから話して欲しいの〟
母親の苦悩が声音に表れていた。優希が可愛がられて育ったのは知っている。父親であるあの男の偽善だとしても、それに付き合い、母親も優希には優しかった。優希が両親に大切にされていたのは確かだ。夫婦それぞれが好きに生きていようが、優希をあいだに、三人で作り上げた家族の結び付きに、省吾の入り込む隙間はない。省吾はさり気なく母親から視線を逸らした。省吾のその思いが、母親には見えていたようだった。
〝腹が立つのでしょうね、頼めた筋合いでないこともわかっている、でも、お手上げなの〟
優希を思う母親の心情に、省吾の苛立ちはさらに募った。母親を押し遣り、立ち去りたくなったが、出来なかった。その場で母親の話を聞くより他なかった。
〝お義父さまのご意見に賛成したのが許せないと、部屋に閉じこもって出て来ないの。学園のお友達にも馬鹿にされたと、泣き叫んでいるわ。弘人さんの件が落ち着くまでのあいだだけでも、この町を離れた方がいいと、そう話してみたのだけれど、聞いてくれないのよ、どこへも行かないと言うばかりで……〟
〝蜂谷の事業を立て直した手腕も役に立たない?〟
省吾の皮肉に母親が鼻を鳴らした。誠司がよくすることだが、淑女がすべきことではない。母親にしても、育った環境で習い覚えたようなものだろう。下品な仕草であっても、母親には品があった。省吾は何故かそのことに笑えた。母親は三歳で別れた息子とどう話せばいいのか、困ったように溜め息を吐いていた。
〝茶化しているの?〟
〝いいえ、驚いているんですよ、俺に頼んでも無駄だとわかっているでしょう?優希が聞く訳がない〟
〝あの子はあなたに憧れているのよ〟
〝それを言うなら、誠司にだと思うけど……〟
〝馬鹿を言わないで〟
外見は酷似していても、物腰の柔らかな藤野とは大違いだと言いたいようだ。母親は『淑芳女学園』の聖女の息子が嘆かわしいと、穏やかにだが、きっぱりと言った。
〝あの子の言葉遣いは、なってないもの〟
それを言ったら、葵はどうなるのだろう。誠司に劣らない乱暴ぶりだと、省吾は思う。
〝そう?香月の孫の噂、聞いてない?〟
省吾がニヤリとしたせいで、母親もそこに気付いたようだ。大切な女の活発さは、誰よりも知っている。母親は微かに頬を赤らめながらも、気付いていないように、つんと澄ましていた。母親との会話に葵を挟んだことで、思いとは反対に、母親の素顔を知ることになった。省吾は母親の頼みを断れなくなったのを感じていた。
〝わかったよ。だけど、優希とは話さない、お爺さまと話す〟
〝あなたは反対なの?お義父さまのご意見に?〟
〝うーん、どうかな?俺は優希とかかわらない方がいいと思う。友達に馬鹿にされたと言っているようだし、そっちで解決させた方がよくない?〟
省吾は物柔らかな口調でからかうように答えた。それが母親を驚かせたが、省吾が言う意味を理解したようだった。
〝お兄さまに預けて、正解だったわ〟
〝そこは真理伯母と言わないとね、伯母も聖女でしょう?〟
母親はまたも上品に鼻を鳴らし、からかわれたことを叱るかのように、軽く省吾を睨み付けた。その時、エレベーターの扉が開いた。母親は瞬時に、子を思う親の顔をうちに隠し、蜂谷の事業を取り仕切る自負と入れ替え、エレベーターに乗って降りて行った。
〝命に罪はないもの〟
その声は、母親の残像を追うかのようにエレベーターを見詰める省吾の胸に響いた。血に棲むものが呼び起こした記憶だった。額 に温かな唇がそっと触れた感触まで、感じ取れていた。時間は戻せない。仮の話も無意味だ。それでも省吾には、母親との暮らしが思い描けたような気がした。
省吾は馬鹿げた幻想だと、頭を振った。省吾にはわかっていた。優希のことは省吾に頼めと、剛造が母親を言いくるめたに決まっている。家長の重責から外れた途端、祖父面を始めた剛造のお楽しみということだ。球技大会の件も、その延長線上にありそうだった。尚嗣と孫自慢で張り合った末のことのように、省吾には思えた。
〝元気な爺さま達だ〟
省吾はそう呟きながら特別室のドアを開けて、中に入った。剛造は血色のいい顔を厳しくし、老眼鏡越しに、母親が届けに来たとわかる報告書に目を通していた。幼い頃に見た剛造らしい雰囲気に、ほっとする自分がおかしかった。剛造は省吾に気付くと、察するように口元を歪めていた。
何をしに来たとは言われなかった。省吾も回りくどい説明を省き、病室に赴いた本当の理由には触れずに、母親に頼まれたとだけ言った。こちらを片付ければ、必然的に球技大会の件も片付く。省吾はそう考えたのだった。
〝意固地になっている優希を、県外の寄宿学校に移しても逆効果ですよ〟
学園に戻し、葵に任せた方がいいと、省吾は言った。学園の上下関係は異様に強い。省吾がかかわれば、他の生徒が萎縮するだろう。その点、葵は同級なのだから対等だ。あの美貌で睨まれた時の凄みは相当なものだが、そのお人好しさも同程度と言える。葵とのあいだが修復出来れば、優希にも自信に繋がるはずだと続けた。
剛造は思わしげな表情で、緩やかに老眼鏡を外し、頷いていた。その姿は矍鑠とし、豪傑さと優美さを併せ持つ魅力にも衰えを感じさせない。そこに尚嗣の老いてもなお、品のある美しさが重なった。省吾は胸のうちでほくそ笑み、祖父の立場での孫自慢は、葵と優希でしてもらえばいいと思った。同い年なのだし、その方が公平だ。
〝おまえが言うことは、もっともだ〟
剛造に言われ、これで球技大会の件も片付いたと、そう思った。しかし、考えが甘かった。剛造の勢いは、電話以上に、益々激しくなって行った。
〝そうなれば球技大会は絶対だぞ!おまえは兄として、上級生として、香月に負けてはならない!〟
〝ですから、俺ではなく、葵に……〟
〝たわけがっ!おまえが二人の上であると知らしめてこそ、優希も目が覚めるというものだ!香月の孫に負けるような兄で、弟の尊敬など、得られようものか!今年は蜂谷が最強クラスを取る!香月など恐るるに足らず!ガハハハハっ!〟
省吾は呆気 に取られ、剛造の高笑いに返す言葉もないままに病室を辞 していた。
「はぁ……クソ」
球技大会に参加するしかなくなったことを思うと、省吾の口から溜め息と悪態が漏れる。賭けについても、苛立ちしか感じない。葵のクラスに賭けていたのを、自分のクラスに変更するよう剛造に言われているが、このことだけは譲らなかった。省吾には最後の砦のようなものだ。窓口である誠司にもそう言ってある。ニヤニヤしながら聞いていた誠司には、腹が立ってならなかった。
省吾はジャージ姿でバスケットボールの練習に出向いている自分を思うと、気恥ずかしさで一杯になる。葵の姿が眺められることで、どうにか気持ちが慰められていた。その葵はというと、体育館の片隅でクラスメートを前に、ガミガミと―――女をも凌ぐ美貌がそう見せるのか、口喧しい老女の如くに説教を続けていた。省吾が感じたそのおかしなイメージに、誠司が気付かないはずはない。
「クソ生意気な美人が、ガミガミ婆さんだったなんてな、あれを見たら、おまえもそう思うだろ?」
誠司は省吾をからかえるのが楽しくてならないのだ。どう言い返そうが、からかい返される。省吾は誠司の嫌みを受け流し、葵を眺め直した。
ガミガミ婆さんだろうが、構わない。葵が欲しい。体が疼く。意志の強さも当てにならない。人としての健全な欲求が、これ程に切ないとは、省吾にしても血に棲むものにしても、葵と出会って知ったことだった。
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