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第四部 29-4 (終)

「葵はつらくないのか?」  自分一人で悶々としているのなら、この上なく哀れだと、省吾は思う。葵にも同じように苦しんでいて欲しい。 「……つらい、よな?」  独り言のように小さく呟いた時、省吾は葵の本心に触れられたように感じた。あのガミガミぶりに隠されているものが見えて来る。葵もイラついていた。葵をガミガミ婆さんにしているものは、欲求不満ということだ。そこに気付くと、省吾の顔も自然と綻んだ。 「省吾、おまえ……」  誠司には面白くない笑いなのだろう。誠司の声音は不機嫌そうに尖っていた。 「……あんなガミガミ婆さんで、やれんのか?」 「そういうこと、聞く?」  省吾は口調に笑いと驚きを同時に表したあとで、いつも通りの物柔らかさで答えていた。 「だけど、見方を変えれば、あれも結構可愛く見えない?」 「ふん、二度と、おまえの〝可愛い〟なんて言葉に騙されねぇからな」 「その恨みがましい言い方、そろそろやめないか?」 「クソ生意気な美人に、ガミガミ言われるおまえの惨めったらしい姿が見られたなら、考えてやらないこともないぞ」 「バカなこと……を?」  省吾はクスッと笑うように言い掛けた途中で、誠司が顎の先で示したものを見遣った。いつの間にか説教を終えた葵が、クラスメートを引き連れ、省吾へと歩いて来る。そう思ったが、葵の目は省吾を見ていなかった。ガミガミ婆さんも姿を消している。葵はその比類ない美貌をきりりと引き締め、誠司に向かって歩いていた。 「おい」  省吾には目も暮れず、並みの男なら震え上がるだろう美しさを前面に出し、葵は誠司に声を掛けた。誠司は並みの男ではない。恐ろしい程の険しさで、葵の美貌と張り合っていた。 「あんたが仕切ってんだろ?」  誠司が言葉を返す前に、葵は一人でさっさと話を続けて行く。 「大会の前日までは変更も出来るって聞いたぜ。俺らのクラスは、全員で俺らのクラスに賭けることにした、ってことで、よろしくな」  一方的に話を終わらせ、またクラスメートを引き連れて戻って行った。 「なんなんだ?あいつは?」  窓口と言われようが、組織で動いている。受付を専門としている生徒は別にいる。誠司はそちらに行けと言いたいのだろう。賭けの進捗には気を抜かないでいるが、誠司が直にかかわることはない。恐ろしくて、誰一人、誠司に直接頼みに来たりもしない。葵くらいなものだろう。省吾はそれをわざとらしく指摘した。 「上命下達(じょうめいかたつ)、香月の次期当主直々(じきじき)のお言葉だしね、ありがたく頂戴(ちょうだい)しないとな」 「くそったれがっ」  誠司の悔しさは、省吾を喜ばせた。気楽さに体が軽くなり、感覚も無意識に求めるものへと引き伸ばされる。葵の動きと匂いを感じ、愛おしさが胸に溢れた。視線を向けると、完全にリラックスしている葵を目にする。周囲への警戒心は全くない。葵は練習を始めたクラスメートを眺め、小猿を側に、他のクラスメート数人とふざけ合っていた。 「それ、マジかよ」 「マジだって、久保も知ってんだろ?」 「くふふ」  小猿が指先で唇を覆い、意味深に笑う。葵まで釣られて笑っていた。 「委員長、なんか、エロくないか?」  何を話しているのか、全員でニヤニヤし、(つつ)き合っていた。 「だけど、委員長が知ってるってことは、ガセじゃねぇな」  コートに出て練習を始めていたクラスメートが、笑いを抑えた葵の喋りを聞き付け、ボールを持って寄り集まって行く。 「なんだよ、俺らばっかに練習させて、なんの話で盛り上がってんだよ」 「アレだよ、アレ、先輩のさ」  葵と突き合っていた一人が答えると、知らない者が聞きたがり、知っている者が囁き教える。省吾には小猿が嫌らしい笑いを見せた時に、〝先輩〟が誰かはわかっていたが、〝アレ〟が何かはわからなかった。 「誠司……?」  呼び掛けながら顔を向けると、誠司までがニヤニヤしているのを目にする。誠司には理解出来る話のようだ。その証拠に、省吾がきつい眼差しで睨み付けると、誠司は顔を前にも増してだらしなく緩めていた。 「俺じゃないぜ、サキがしたことさ」 「サキが?何を……?」 「気付かれる前にと、噂を流したんだよ。世間でどう言われようが、おまえが興味を持つことはない。だから、おまえが知るはずもないってんで、あの野郎、ちょっとばかり大袈裟に噂を広めやがったのさ」  どういった噂かは、小猿が体育館にいる全員に聞こえるよう声を大きくして、丁寧に教えてくれた。 「本気で興奮するとね、お尻のほっぺに、片方ずつ別々に、赤くあざが出るんだけど、きゅとお尻を合わせてみると、そのあざ、大きなハートマークに見えるんだって。それが見えたら、先輩を本気にさせられたってことなんだ。仲間内では有名な話って聞いたよ。ちっちゃい頃からの付き合いで知ったんだって。先輩って、凄く優しいし、冷静沈着でしょ?本気で怒るってことがないし、無駄に興奮したりもしないよね。だけど、ちっちゃな頃は割とやんちゃで、興奮して、熱くなることが多かったって話なんだ。でね、そのあざ、仲間の人達以外では、まだ誰も見たことがないんだよ。先輩を本気にさせるのは難しいもんね」 「そんな愉快なあざ、俺も見たことねぇけどな」  誠司が省吾の耳に口を寄せ、小猿の話を補足するかのように小声で言った。意志の強さを誇る省吾とはいえ、中等部に入学した頃は、性に目覚めたばかりで、臍の下辺りの疼きを制御し切れない不安がない訳ではなかった。それこそ鬼の形相になりそうな時もあったが、最終的には意志の強さが勝り、血に棲むものの存在を気付かせたことはない。それを―――。 「サキに伝えておけ」  世上にもっと気持ちを向けるべきだったと、省吾は悔やんでいた。 「次に会ったら、覚悟しておけとな」  誠司の男臭い笑いが、それが答えだというように体育館に響き渡った。低く穏やかな声音に、小猿の話を疑うように聞き入っていた生徒達にも、その噂が真実味を帯びて広がって行く。戸惑うようなざわめきには、完璧さに見付けた疵瑕(しか)を笑い切れない複雑な思いが滲み出ている。  省吾は彼らに苛立った。今すぐここで暴れ回り、彼らが作り上げ、小猿がいいように解釈した偶像を叩き壊してやろうかと思った。怒りに興奮したあとで、尻をさらせば噂は消える。しかし、笑い者になるのは間違いない。遣り過ごすしかない腹立たしさに、省吾の感覚も荒々しくなる。それをあちらこちらへと、当たり散らすように飛ばすのだった。  その一つが、学園本部の壮麗な建物から中等部の体育館へと走り寄る異質な動きを捉えた。そこには刺激的な匂いも、まとわり付いている。 「来る」  省吾は思わず呟き、意識しないままに顔付きを優しくしていた。省吾の秀逸な美しさは、愉快な噂にさえ憧憬を抱かせる。そうした省吾の変化に、誠司がすっと笑いを消し去った。厳つい顔に感情らしきものは見せていないが、心のうちでは真逆な思いに揺れていそうだった。 「葵!」  柔らかく毛羽立った掠れ声が、喜びに弾むように響く。省吾に誠司、もちろん葵もだが、その三人を除いて、体育館にいた生徒全員がはっと息を呑んだのは当然だろう。

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