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第四部 30-1

「葵!」  一瞬、葵は聞き違いだと思った。本当に一瞬のことで、耳に届くほんの僅か前に、先に感覚が聡を捉えていたのだから、間違いではないとわかっている。というより、体が臨戦態勢に入ったことに驚き、幻聴と思わないことには受け入れられなかったようだ。  薄茶色の瞳がうちにある光によって金色に輝き、例えようもない美貌が恐怖を放つ。その変貌に、クラスメートが気付くことはない。すぐ側に立つ翔汰でさえも同じことだ。誰も彼もが、突然現れた聡に目を奪われていた。その隙に、葵は警戒心を解いていたが、聡の声に喜びを感じることはなかった。  この町に移り住んだ当初は、記憶の奥から、蠱惑的な響きを持つ聡の掠れ声を追い求めたが、春から夏へと季節が変わったように、周囲の状況も変わり、葵の気持ちも変わった。捨てたと言い聞かせるようにしていた頃のことも、遠い昔に思えている。それが理由なのかはわからないが、葵の感覚は聡を危険と察知した。省吾との付き合いが、葵の感覚をおかしくさせたのかもしれない。 〝愛している〟  省吾はあの日、いかにもレトロな映画館のロビーチェアで、思わず知らず、心に隠す本当の気持ちを口にしたようだ。雅やかで秀逸な容姿を少しも崩さず、ゆったりと構えていたが、恥ずかしさを見せていたのが葵にはわかっている。 〝何も言うな、多分、俺の方がおまえ以上に驚いている〟  そう続けた省吾の口調には、焦りがあった。省吾との駆け引きに、葵が勝利した瞬間でもあった。次にどう進むかは葵が決める。お預け状態の省吾には、どうすることも出来ないのだ。それが葵には痛快でならない。  葵は()らすだけ焦らしてやろうと思っている。向こうが我慢し切れずに、跪くまで待たせてやるつもりでいる。こちらもイラつくが、優美なあの顔が情けなさに萎れるのを思い浮かべての一人遊びは、狂おしいくらいの興奮をもたらした。溜まったものを発散するには、十分過ぎる喜びだった。  省吾を思うと、否応なしに聡との付き合いと比較してしまう自分がいる。泥んこになって遊び回り、悪戯をして楽しんでいた頃の話ではない。キスをしたあとのことだ。聡には省吾にあるような興奮が少しもなかった。聡が見せた大胆さに触れた時のことを思い返してみると、体の成長に好奇心が重なったものとわかって来る。  省吾のことは、声を掛けられた時から惹かれていたように思う。省吾の言動は今もって謎めいているが、省吾本人のことは気に入っている。胡散臭くて信用ならない男というのも変わらない。それでもマキノの店の二階でのことを思うと、省吾を相手に意志を強くするのは無理だとわかる。抑え込めない感情が、欲求を解放しようとする。睡魔も体が求めるものだ。省吾には体も正直になるということだろう。そこが聡とは大きく違った。欲望を満たしながらも、頭は冷静でいられた。  田舎には他に相手がいなかったのだから、聡が全てと感じても仕方がない。二人のことを隠したがる聡の為に、その最中であっても、意志を強くして、感覚を広げられた。葵自身の本音が、そこに表されていたのだろう。聡のことは、今も好きだ。幼馴染みとして、友情に感謝している。しかし、愛という言葉が出ないことに、葵は気付いてしまった。 〝愛している〟  何度、思い出しても、最高な気分にさせられる。これで一生、どういった時にでも、省吾をすんなりと遣り込められる。〝俺のこと、愛してんだよな〟という調子でだ。葵はこれ程までに自分がねちっこい性格だったとは思わなかったが、省吾限定とするのなら納得もする。ねちねちと省吾をイジメられる特別さの意味を、理解したのだ。愛とは面白い。負けじと張り合い、くだらないことで言い合う。喧嘩が余興だ。それには笑えるが、愛しいと思う気持ちは格別だった。  両親の事故の裏に何があったとしても、省吾の告白で全てがぶっ飛んだ。それらしい言葉で同情されていたのなら、かえって省吾に憎しみを抱いていただろう。省吾自身も驚き、羞恥した愛の告白に、葵は元気付けられた。心が慰められたのだ。胡散臭くて信用ならない男というのも、母親が鬼と恐れたことに理由がありそうだが、無理に聞き出そうとは思わない。その時が来れば自ずと知れる。明らかになったとしても、裏切られたと思わない自分を、葵は既に感じていた。  聡との関係には、そういったものはない。生まれた時からの付き合いで、いつも当然のように側にいただけだ。コンビニの店先に置かれたままのがたつくベンチでしたキスも、頭の隅では無意識に伸ばした手をきちんと意識していた。葵は聡の誘いに乗った。あの時の自分は、好きだからと、それで許されると思っていた。  葵は省吾の告白で知ってしまった。愛と好奇心は別物だ。聡には友情を超えた思いがなかった。葵はこの町に来て、省吾と知り合い、学園での生活に慣れた今、その違いをはっきりと区別出来るようになった。葵が聡に愛を語ることはない。そうした思いを感じたことがないと、わかってしまった。 「葵!」  聞き違いではないその声は、まさしく現実だ。空耳でも聞きたいと、切なく願った日々もあったが、最近は思い出すのも稀だった。警戒心を解いた葵の勇み肌でお人好しな雰囲気に届く声には、懐かしさの他に何もない。

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