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第四部 30-2

 葵は穏やかに状況を見据えていた。声に振り向き、微笑んだのはそうした思いからだった。それなのに、聡の顔を目にすると、解いたはずの警戒心が戻って来る。何故だろうと思った時、守らなくてはならないものが変わったからだと気付いた。  クラスメートもだが、体育館にいる生徒の息を呑む音が、振動として感覚に伝わっている。聡は可愛い。その可愛さは群を抜く。田舎育ちだろうと、可憐な愛らしさを弱めることはない。聡の可愛さは人を迷わす。毒になる可愛さだというのが、聡から離れるようにしてこの町に来たことで、葵にも理解出来るのだった。  田舎の仲間とのじゃれ合いは、そうした毒に免疫を付けさせていたようなものかもしれない。嫉妬を感じなかったのは、感じる必要がなかったからだ。葵の機嫌を損ねない程度のじゃれ合いで、甘美な毒に慣れさせていたと言えるが、この学園の生徒はそう単純なことで済みそうにない。あらゆる面で進んでいる彼らだが、聡には未経験の初々しさを見せている。聡を危険と認知した感覚が、それを葵に教えていた。  葵は目を細め、薄茶色の虹彩が金色を帯びたのを隠した。警戒心をうちに押し遣り、こちらへと走り寄る聡を優しく迎えた。聡の身長が記憶するより低く感じるのは、それだけ葵の方が伸びたということだ。走り寄る勢いのままに抱き付かれたことで、風に吹かれるように聡の髪が頬に触れる。葵は自分一人が成長したことを強く意識するのだった。  省吾といると、そういった気分にならない。出会った頃よりは目の位置も近付いているが、まだまだ省吾に見下ろされている。超える日が近いのなら嬉しいことだが、その日が今日でないのはわかっていると、葵は思う。  翔汰といても、同じようなものだ。自分の身長を気にしたことがない。小柄であっても翔汰は元気一杯で明るい。そちらに目が行き、自分の背丈を意識したことはなかった。田中と井上も、クラスメートも同じことだ。彼らとふざけ合うのに、身長差は意味をなさない。聡は違った。葵に男を意識させようとする。二人の(みつ)な時間を思い出させようとする。葵は初めて、聡を疎ましいと感じた。 「やめろ、聡」  聡を見ずに、背中に回された腕を外した。抱擁を解かれ、聡が不満げな顔を見せようが捨て置いた。 「篠原君、この子は?」  翔汰のニコニコ顔が、葵には慰めだった。クラスメートは未だに毒気に当てられたように放心の(てい)だが、委員長という役目に忠実な翔汰は、すぐに自分を取り戻していた。〝省吾の思惑の斜め上を行く逸材〟には、聡の毒も余り効かないようだ。葵は翔汰に笑い掛けてから、聡を紹介した。 「田舎の馴染み……」  そこで思い出したように尋ねた。 「……なんでいる?」  聡は葵を気にしながらも、翔汰を邪魔臭そうに眺めていた。葵の側で平然としていることに苛立っているようだが、敵にならない存在と思っているのはわかる。聡は翔汰をやや見下すようにして、葵の問いに答えていた。 「俺も二学期からここに通うんだ、その手続きに来た。夏休み前で授業はないけど、球技大会があるって聞いて、参加は無理でも見るのはいいって言われたから」 「へぇ……」  葵の頭にあったのは、尚嗣のことだった。霊廟のようだったマンションも、最近は何かと騒がしい。吉乃がちょっとしたことにも、ああだこうだと文句を言うようになったからで、そこに言い返したり謝罪したりと、三人のうちの誰かが何かを喋っている。それがここ数日、確実に静かだった。尚嗣は葵を避けるようにして、そそくさと剛造の病室へと出掛け、吉乃は忙しいを口癖にして、怪訝な目付きの葵から逃げていた。霊廟の頃とは違う怪しげな静寂さが気になっていたが、その理由がこれで知れた。  秘密にするよう言い出したのが聡だというのを、葵は理解している。尚嗣と吉乃はサプライズになると喜んでいたのだろう。そのことに腹は立たないが、鬱陶しさはどうにもならない。 「それって、田中君と井上君のクラスだよね?」  翔汰が葵に代わって話を続けてくれたことに、葵は救われた。聡を冷たくあしらおうとしていた自分に気付き、最悪な気分になっていたのだ。 「篠原君の編入は特別だったんだ。普通、しないんだけど、学園も方針を変えたみたい。だとしたら、クラスに空きがあるのは、そこだけだもん」  〝空き〟が誰を指すかは聞くまでもない。省吾の弟―――優希のことだ。県外の寄宿学校に転校する優希の席に、聡が座る。それが二学期からというのなら、優希はぎりぎりまだ学園の生徒と言える。このまま放っておいていいものなのか、聡が現れたのを切っ掛けに、葵は考えさせられてしまうのだった。  元にやけ面のクラスメートが食堂で馬鹿なことをした時、葵は表に出ようとしない優希を、根性なしの臆病者と罵った。その翌週から、優希はずっと学園を休んでいる。食堂でのことが原因ではない。父親の逮捕にあった。 〝優希とは他人みたいなもん……〟  葵は翔汰の声を聞きながら、翔汰を意識するかのように、かわい子ぶって話していた省吾を思う。優希の休学は家族の問題だとしても、葵には無関係と言えないのも事実だった。 〝……さっきのが初めての会話だよって言ったら、信じる?〟  そのあとで聞かされた胸糞悪い話は、省吾に言わせると、〝仕掛けた奴らが悪乗(わるの)りし過ぎた〟ことによる結果なのだそうだ。同じことを繰り返そうとした優希は、間抜けとしか言いようがないが、根性なしの臆病者と罵ったままなのを、葵は気にした。優希と何もかかわらずに離れるのが、葵には心残りに思えるのだった。 「だけど」  翔汰の快活な声の響きに、葵の意識がそこへと引き戻される。 「A組はバレーボールだから、みんな、高等部の体育館にいるよ」  葵は省吾を思って黙り込んでいたが、世話好きな翔汰は、聡の為にと、瞳を煌めかせて相手をし続けている。学園の生き字引を目指す翔汰らしさが、そうさせているようでもあった。〝学園のことなら、僕に聞いて、表も裏も知り尽くしているよ〟という声が、翔汰のニコニコ顔から聞こえて来そうだった。

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