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第四部 30-3

「こっちは中等部の体育館で、バスケットボールの参加クラスが使ってるんだよ」  翔汰の世話好きを、聡がどう思っているかは明らかだった。聡の目には葵しか映っていない。天使のような純真さを振り撒きながらも、愛らしさの裏で翔汰を完全に無視している。それを非難する気はないが、気付いていることは教えようと思った。葵は聡をひややかに見下ろし、悠然と睨み付けた。口にしない思いが、薄茶色の瞳にも金色の輝きを漂わせる。 「高等部の体育館へも行きたいよね?」  翔汰の善意は本物だ。道すがら、学園の歴史を披露しようというのかもしれないが、学園に早く慣れて欲しい気持ちは心からのものだった。 「良かったら、案内しようか?」  思った通りの無邪気さに、葵の瞳にも優しさが浮かぶ。葵の友達は、翔汰にも友達だ。自分の頭上で、葵が目付きだけで聡を怯えさせたとは、思いもしない。 「葵……」  聡にすれば、葵に抱き付いてからのこと全てが期待外れだったのだろう。調子が合わず、むくれ始めた。それも田舎では可愛いと思えたが、今の葵には我がままな甘ったれにしか見えない。答えるのも疎ましく思える。葵は感覚が新たに伝えたものに向かうことで、聡への返事をうやむやにした。 「爺ちゃんが来てんだな」  ほっとするように呟き、体育館の出入り口を見遣る。感覚が捉えた空気の振動と匂いの先にあるものを―――聡の祖父の又吉の姿を、この目で実際に確かめた。人好きのする顔に気持ちがほぐれ、瞳に漂う金色の輝きにも穏やかな色合いが混じり合う。  葵は薄茶色に戻る瞳を意識しながら、又吉へと歩いて行った。二、三歩進んだところでふと足を止め、聡が現れてからずっと、その愛らしさにうっとりと見入るクラスメートを目覚めさせるのに必要なことを言い置く。 「おまえら、聡にちょっかい出すんじゃねぇぞ、そんな暇があるなら、きっちり、練習してろ」 「えっ?えぇぇ―――っ」  聡にぼうっとしていた彼らが、突如、息を吹き返した。葵がいなくなったあと、聡を誘う気満々でいたようだ。声を揃えて文句を言い出す彼らに、葵はニタっと意地の悪い笑いを見せてから、又吉へと向かった。  又吉は汗まみれで、ふうふう喘ぎながら体育館の出入り口に立っている。聡を追い掛けて来たのだろうが、部外者だからと遠慮しているようだ。外より涼しい体育館の中にまで入ろうとはしない。 「よお、爺ちゃん、相変わらず聡に振り回されてんな」  又吉は葵が自分へと歩いて来るのに気付くと、大きな体を楽しげに揺らし、福々しい顔を笑いに崩していた。 「おお!葵!元気そうだな!」  言いながら、側に立った葵の背中をバシバシと叩き始める。葵も肉付きのいい又吉の背中を叩き返して、二人で再会の挨拶をし合った。そうしながら、葵の感覚はこちらへと近付く省吾の匂いと動きを捉えていた。 「食堂にお連れしたらどう?」  背後に響いた物柔らかな声に、葵はニヤリとしたが、奇妙さも感じる。 「この時間はティーラウンジだからね」  省吾の口調はどこまでも柔らかで、又吉への配慮を思わせる上品さに溢れている。逆にそれが葵に不審を抱かせた。背後に捉える感覚が省吾だけというのも気に掛かる。聡が葵から離れるはずがない。クラスメートにちょっかい出すなと言ったのも、無駄と思ったからだが、どうも様子が違う。葵は振り向き、省吾の優美な容姿の向こうに聡を見る。聡は葵に抱き付いたその場所で騒ぎ始めていた。 「なんだ?」  中等部の体育館は、叫んでいてさえ(なま)めかしく響く聡の掠れ声に、練習どころではなくなっていた。聡に魅了された生徒が次々と、騒ぎを目指して寄り集まって行く。すぐに人だかりが出来て、その最前列には、翔汰が面白がるような顔付きでクラスメートと一緒に立っていた。 「あいつ……ら、何してんだ?」  聡が葵の後ろを付いて行くつもりだったのは、間違いない。それが従兄弟のかわい子ちゃんに腕を掴まれ、身動きが取れずにいる。まさに激怒していた。 「気になる?」  省吾の口調はふわりとして優しげだったが、葵の態度によっては豹変しそうな危うさを秘めていた。 「ふざけてんのか?」  葵が口調と同じややきつい眼差しで見上げると、省吾は葵の懸念を振り払うように、ほんの少し取り澄ました調子で言葉を返した。 「あの二人、古い付き合いだから、気にする必要はない」 「はあぁ?」  訳がわからなかった。生まれも育ちも全く違う二人のはずだ。聡と従兄弟のかわい子ちゃんが、どこでどう知り合ったというのだろう。それも古い付き合いだと言われては、首を傾げたくもなる。  葵は暫くのあいだその騒ぎを眺めていた。省吾が言ったように、古い付き合いだからこその遠慮のなさが見て取れる。益々、訳がわからなくなったが、まさかそのあいだに、省吾が行動を起こすとは思わなかった。  答えを求めて省吾に視線を向けたが、既にそこに省吾の姿はない。葵が騒ぎに気を取られていた隙に、省吾は又吉と共に歩き去っていた。憎らしいまでに洗練された物腰で、又吉をたぶらかしたのだ。行き先はわかっている。ここは暑い。食堂は涼しい。汗だくの又吉には楽園のようなものだろう。  葵は悔しくなった。省吾がいると、葵の感覚はおかしくなる。愛のせいで腑抜けにさせられるようだ。省吾の方にも焦りが見えたのなら、気持ちも収まるが、省吾は悠々としている。さらに悔しいのは、又吉が省吾の隣で照れ臭そうにしていることだ。又吉は楽園どころか、天国にいそうな雰囲気だった。 「おい!爺ちゃん!」  呼び止めてみたが無駄だった。省吾の優美さにすっかり当てられ、顔を赤くして、よたよたと恐縮しながら付いて行く。村長の威厳も何もあったものではなかった。

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