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第四部 30-4 (終)

「爺ちゃん、何やってんだ?五十も年下の……クソ野郎だぞ」  又吉は生まれた時からの付き合いの葵を置いて、ついさっき知り合ったばかりの省吾を選んだ。省吾の優美さに惑わされ、骨抜きにされたのだ。情けないと嘆いてみたところで、省吾に心酔した又吉が戻って来ることはない。 「クソがっ」  葵は諦めて二人を追い掛けた。聡のことは心配ない。従兄弟のかわい子ちゃんと何があったにしても、古い付き合いだという遠慮のなさに、嘘はないと確信出来る。葵も入り込めない強い繋がりを感じさせるのも確かだった。 「それに……」  騒ぎを囲む最前列に翔汰がいる。クラスメートもだ。彼らがすぐ近くにいることで、この場を離れても大丈夫だと、葵には思えた。 「あいつら、面白がっていたよな」  翔汰は猛獣を見る思いだったのか、初めて動物園に行った幼子(おさなご)のように目を丸くしていたが、口元は緩んでいた。正義感が強く、男らしさに憧れる翔汰が如何(いか)にも楽しそうだった。小柄で非力だが、中身は誰よりもでっかい男だ。その翔汰が興味津々で眺めていたのだから、聡のことを心配する必要はないとわかる。翔汰の後ろに立っていたクラスメートも、大なり小なり同じような気分でいたのだろう。  葵は彼らに向かって、一致団結して球技大会に挑む大切さを、こんこんと諭していた時のことを思い出した。葵が目の前を行きつ戻りつするのを、神妙な目付きで追っていたが、その目に浮かぶクスクス笑いはごまかし切れていなかった。翔汰だけが揺れ動く思いに葛藤し、涙目で、悩み苦しむように下唇をきゅっと噛んでいたのだった。 〝ぼ……僕、先輩を応援するの、やめる〟  その言葉をクラスメートは待っていた。翔汰の異様な程の省吾好きを知らない者はいない。それには呆れても、翔汰が自分の意志で気持ちを変えるまで、責付(せつ)くことをしないでいた。葵のくどくどしい小言にも、辛抱強く付き合ったということだ。  手間を掛けさせられたが、それだけの価値があったと、葵は思っている。優勝を目指してクラス一丸となって試合に臨む。結果は違ったものになったとしても、最後まで全力で戦い抜くことを全員で決意したのだ。あの場でかわい子ちゃんに話しに行ったのは、クラスメートがそうしようと言ってくれたからだった。 「だから、あっちは心配ない」  翔汰が男気を出そうというようなことにはならない。万が一、そうした展開になったとしても、クラスメートが守る。 「けど、こっちは……」  又吉は体育館の出入り口で、ほんの束の間、葵の姿を目にした時、ほうっと安堵の息を吐いていた。葵にはそれが見えていた。聡を学園に編入させようとしたのには理由がある。又吉は確かに聡に甘い。だからといって、聡の我がままを聞き入れただけという話ではないようだった。    葵はエントランスホールを抜けて、渡り廊下に出た。そこから食堂の様子を窺った。全面ガラス張りである為に、省吾が指定席である最上のテーブルに又吉を案内しているのが見える。  夏の眩しい日差しに照り映える木々の緑も、冷房が効いた食堂から望むと、爽やかに映る。汗だくだった又吉も、椅子にどっかりと座ったあと、清涼とした眺めに顔を綻ばせていた。  昼食時には開いたままの自動ドアも、この時期には閉まっている。葵は正面の自動ドアの前に立ち、開き掛けたと当時に、苛立つように僅かな隙間から体を滑り込ませた。中に入ると、奥まったテーブルに教師や職員の姿がちらほらと目に付く。そのせいか食堂はコーヒーの(かぐわ)しい香りに満たされていた。  練習を抜け出して、アイスクリームを食べに来ている生徒もいたが、葵の勢いにも知らん顔でいる。葵にというより、省吾の圧倒的な存在感に遠慮しているようだった。 「試作品だそうです、お口に合うといいのですが……」  省吾が厨房に指示したのだろう。厨房から運ばれた菓子とコーヒーに、又吉が嬉しそうに目を細めている。 「いやぁ、これはありがたい。田舎では診療所の医者から痩せろと言われてましてね、大したことはないのに、家のもんが変に気を回して、何かというと甘いものを取り上げるんですわ」 「なら、食べんな、俺がもらう」  葵は八つ当たり気味に言った。省吾に笑われたのは確かだろうが、気にしない。テーブルへと憤然と近付いた。捻くれ者の省吾には、葵の苛立ちが嬉しいようだ。省吾は優美な顔を、にこやかに崩していた。そのままゆったりと椅子から立ち上がり、葵の側へと行くように正面の自動ドアへと歩き出す。 「お爺さんをこちらに誘うと、誠司には言ってある。あとで聡を連れて来るだろう、そのことはお爺さんにも伝えたよ。聡の世話は、おまえに代わって誠司にさせるとね」  省吾は物柔らかな口調で笑うように言い、擦れ違いざまに、葵の団子型に結われた髪の塊をぽんと叩いた。又吉が葵に話があることに、気付いていたのだ。それを憎らしいくらいにスマートに片付けた。これでは文句が言えない。 「ああ……」  葵はむすっと答え、拗ねたように続けた。 「そうだ、先に帰んじゃねぇぞ、話がある」 「うーん、もう少し甘い調子で言ってくれても……」  葵は咄嗟に省吾の(すね)を蹴飛ばした。素直に蹴飛ばされるような省吾ではない。さっと足を引いて、葵に空振りさせる。葵にとっては、相手が省吾だから起こり得ることだった。 「てめぇっ!」  悔し紛れに、噛み付かんばかりに叫んだ。 「着替えたら校門で待ってろ!逃げんじゃねぇぞ!いいな!」  省吾はそれが返事だというように、おかしそうに頷いた。葵を刺激するような甘い笑顔を見せてから、食堂を出て行った。葵は省吾の逞しくありながらも雅やかな背中を見詰め、溜め息が出そうな気分を悪態で紛らした。 「クソがっ!」  又吉へと向き直った時、福々しいその顔が複雑な思いに翳っているのに気付く。葵が田舎で暮らしていた頃のように伸び伸びしているのを喜びながらも、どんどん遠く離れて行くようで、寂しいのかもしれない。 「あいつはふざけた奴なんだよ」  葵は省吾が座っていた椅子を引いて、どすんと勢いを付けて腰掛けた。 「俺をおちょくって楽しんでやがる」 「そうか?」  又吉は葵が落ち着くのを待つようにしてから続けた。 「それだけ、おまえがこの町に馴染んだということだな?」  又吉の思いは理解しても、過去へは戻れない。未来はこの町に、省吾のもとにあるのをわかってもらうしかない。葵は又吉の問い掛けに、迷わず答えた。 「ああ、だから爺ちゃんの村にはもう帰らない」  そのままの口調で問い返す。 「聡を学園に編入させたのは、そのせいか?」

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