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第四部 31-2
〝俺のこと、愛してんだよな〟
言葉にしない葵の声が聞こえて来る。葵は何かにつけてニヤニヤと、折角の美貌を見るも無残なものにして省吾をからかう。惚れた弱みで耐えているが、そのたびに、省吾は惨めな自分と向き合わされた。
オオノに見るような禁欲的な愛は、省吾には似合わない。欲しいものは必ず手に入れる。口に出す前に差し出されていたせいか、省吾自身、葵と出会うまで考えもしないことだった。葵に合わせて耐え忍ぶ今の状態には、つくづく嫌気が差している。
それなら思うがまま鬼になれと、血に棲むものに囁かれる。意志の崩壊を装えと唆 しているようだが、魅力的な提案だとしても、血に棲むものと融合し終えたあとでは、人並み外れた意志の強さが邪魔をする。省吾は心のうちで密やかに溜め息を返し、血に棲むものの嘲笑を胸に感じて情けなくなった。
葵には人として求めてもらいたい。そう願う余りに、省吾は葵に手が出せなくなってしまった。炎天下で待てというような小憎らしい悪戯を仕掛けられても、葵の好きにさせるしかない。哀れなことに、その悪戯に愛想よく付き合う自分を認めてさえいる。
省吾は葵に腹が立ってならないが、どうすることも出来なかった。今も不機嫌にむすっとし、葵の肩を強く引き寄せることしか出来ない。またも暑いと文句を言われたが、肩に回した腕を振り払われなかったことで満足し、少しだけ体を離して風通しを良くしてやった。それで機嫌を直したと思われるのは癪だった。
「俺に話があるんだろう?」
省吾は苛立たしさを物柔らかな口調に乗せて問い掛けた。
「急 かせんなって」
葵はニヤリとオヤジ臭く笑ったが、思い悩んでいるようでもあった。葵の話が聡のことだというのは、省吾には見当が付いていた。又吉を思うと、それだけではなさそうなのもわかる。葵は憎まれ口を叩いていたが、山間の村の村長との再会が懐かしさだけでないのは、省吾にも見えていた。
聡の登場が唐突 だったのは、葵の様子からして気付いていた。爺さま達の余計なお節介が招いたことだろう。省吾にも衝撃を与えようという浅はかな考えがあったような気もしている。
聡が葵に抱き付いた時、その思惑も瞬間的には成功した。金色に煌めく冷然とした瞳の輝きを捉えなければ、激怒していたかもしれないが、実際は真逆な思いに微笑んでいた。葵が聡に目を向けず、穏やかな手付きで抱擁を解いたことが、省吾を嬉しがらせていたのだった。
そうしたことをつらつら考えていた省吾の耳に、気だるげな響きの葵の声が届く。
「腹ぁ、すかねぇか?」
思いもしない問い掛けだった。省吾は視線を下げて葵を眺めた。本気で言ったようで、おなかをさすっている。
「菓子はどうした?お爺さんから取り上げたんだろう?」
「そんなこと、するかよ、ちゃんと爺ちゃんにやったさ」
「あの人……医者に痩せろと言われているんじゃないのか?」
「診療所の医者のことか?」
葵は思い出し笑いに顔を綻ばせてから、楽しそうに続けた。
「あいつはヤブだ、俺もただの風邪だって言われて、死にそうな目にあわされたしな。爺ちゃんとは幼馴染みだから、大袈裟に言ってんだよ、意地悪も兼ねて、少しばかり脅かしてやってんのさ」
省吾はそうとも言えない巨体だと思ったが、葵と言い争ってまでして、又吉の健康を気遣おうとは思わない。それよりも、のらりくらり、はぐらかされていることの方が面白くなかった。
「それで、話って……なに?」
葵にもある鋭敏な感覚は、周囲で起きていることをつぶさに伝えてくれるが、心の中は教えてくれない。誠司達仲間が省吾を思ってしないでいたことも、彼ら独自の繋がり合いが理由だった。省吾には入り込めないところで共鳴し、交信し合っている。彼らは仲間に隠し事をしない。子供の頃、それを羨ましがっていたと、省吾は素直に思い返していた。
「あんたはさ……」
葵は何も知らないままに、省吾の気持ちを理解するようなことを続けて行く。
「……たらたらしてっけど、ホントはスゲーせっかちで、知りたがりだよな、っていうか、興味の幅が狭過ぎんだよ」
こっちは出会いの時からせっつかれてたまらないと、葵は笑うように言った。心のうちが知れないにしても、その明るい響きには和まされる。二人しかいないこの時間のせいかもしれない。全てが初めてなのだから比較しようのないことだが、自分がこうまで甘い男になれるとは思っていなかった。
〝愛している〟
その言葉は省吾を変えたようだが、その後も二人きりになることはなく、気付けるような雰囲気になかった。葵の側には小猿がいた。双子もどきも、影のようにひっそりと必ず側に付いていた。省吾の方には誠司がいた。子供の頃からの遊び仲間も、省吾を一人にしても大丈夫だとわかっているのに、わざとらしく側を離れなかった。朝も帰りも、昼休みの食堂でも、休日でさえも、彼らの顔を眺めさせられていたのだった。
今日は違う。誠司は突然現れた聡で手一杯のはずだ。可愛さを鼻に掛けた癇癪持ちが相手では、一睨 みで震え上がらせると評判の堅物な誠司も、そう簡単には従わせられないだろう。生真面目さと癇癪の一騎打ちとなりそうだが、勝ちがどちらに転ぶかは既に決まっている。
葵が答えだ。葵が止めに入ったのなら、誠司の負けになっただろう。葵が何を思ってそうしたのかは重要ではない。葵も誠司に任せることにした。この時点で、聡に勝ち目はなくなった。
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