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第四部 32-1
省吾が一人で、人待ち顔に立っている。それがどれ程に特別なことなのかは、葵にはわかっていた。
夏休み前で、生徒の出入りが少ないこの時期でも、たまたま通り掛かった誰もが、見るとはなしに見て行く。本当のところはじっくりと眺めていたそうだったが、気のない素振りで足早に、省吾の横をそそくさと通り過ぎて行く。
エントランスホールに立つ省吾は、学園という世俗に身を置きながらも、この世に唯一と思わせる独特な存在感を漂わせている。スクールバッグを肩に掛け、開襟シャツをさり気なく着崩して、ただ立っているだけというのに、秀麗な容姿は衝撃的で、輝きに満ちた年頃の艶めきと逞しさも、他 に類を見ない麗しさだった。
生徒達はその特別に隠された妖しさに、怖気 付いているのかもしれない。未知なものには恐怖がまとわり付く。生徒達の怯えも、そこに起因しているようだった。
誰をも魅了する優美な男に、待ち合わせた経験があるとは思えない。三つ巴の気色悪いゾンビ映画の時にも、全員が集まったところへ悠々と現れた。一事が万事そうなのだろうと、葵は思う。学園の生徒達が省吾の人待ち顔に、訳もなく怯えたとしても、笑ったり出来ないということだ。
葵がわざと遅れて行ったのは、そういった異様な扱いをされる省吾を思ってのことだった。まともとは言えない特別視を、どうにかしてやろうという親切心からで、決して悪戯心からではなかった。〝だろ?〟と、葵は胸のうちに問い掛け、それに答えるように呟いた。
「ああ、悪戯なんて、そんなケツの穴の小さいことはしねぇよ」
そう言ったものの、〝ケツの穴の小さいこと〟を、期待したのは確かだった。少しくらいのお楽しみが起きたとして、不都合だとは思わない。むしろ、そうあって欲しかったと、葵は思っていた。
「それだって、愛ってもんさ」
省吾が校門で汗だくになって立っている姿を見せられたのなら、学園の生徒達の省吾を見る目も変わったはずだ。超絶的な優美さも粋がっているだけで、実際はそこいらにいる汗臭くて小汚い奴らと何も変わらないと思われただろう。
「ったくよぉ、俺のこと、愛してんじゃねぇのか?」
勝手に待ち合わせ場所を変えられたのが、葵には面白くなかった。冷房を効かせた涼しいエントランスホールで、それこそ涼しげな顔で待たれるのは、愛を告白した相手への裏切り行為に匹敵する。
「愛してんなら、汗くらいかけよ」
自分でも理不尽な言い分だとは思ったが、へろへろになっても待とうとするいじらしさを見せて欲しかった。それが肩透かしを食らわされたような格好だ。秀逸とした省吾の爽やかな立ち姿が、葵には悔しくてならなかった。
葵は癇癪玉を破裂させる代わりに、スクールバッグを肩に掛け直した。それが甘えだとも気付かずに、つまらなさそうな顔付きで省吾に近付いて行った。
省吾を誘ったのは、聡が理由だった。省吾が又吉を食堂に連れ去ったことで、葵らしくすんなりと誘えていたのだ。省吾は〝もう少し甘い調子で〟と、ふざけたことを言っていたが、葵が又吉と心置きなく話し合えるよう、憎らしいくらいにスマートに、食堂からも立ち去っていた。
この町に来て、省吾と出会い、葵の気持ちは未来へと向かった。過去へは戻れない。その率直な思いを、葵は又吉に伝えたのだった。
〝……爺ちゃんの村にはもう帰らない〟
又吉にはわかっていたようだ。聡を学園に編入させたのも、家族として出来ることが、それしかないからだと、又吉は話していた。
〝聡に甘過ぎると、おまえも呆れてるだろうな。だがな、聡がおかしくなり掛けていると、近隣の村の者達にまで言われ始めているんだよ〟
中には、淫婦 のように森に男を誘い入れているという、聞くに堪えない噂まであるそうだ。葵がいた頃にはなかったことだと、又吉は嘆いていた。
〝多少やんちゃをしても、笑い飛ばせていたからな〟
又吉はその頃を懐かしむように寂しげに笑ったが、長年のあいだ村長をしているだけあって、引き際は心得ていた。元に戻らないことに執着しない。自分に出来ることを考える。
〝葵にも無理とわかったら、すぐに連絡してくれ。その時には、わしが責任を持って引き取りに来る〟
〝爺ちゃん、だけど、もっとひどくなるかもよ〟
〝それでもいいさ、やれるだけのことをしたと、わしがあの子を納得させる〟
又吉は口にはしなかったが、葵と聡がどういった付き合いをしていたのかに気付いていたのだろう。福々しい顔を暗くしつつも優しく微笑んでいた。葵は事故の少し前、父親から向けられたあの視線を、面映 ゆいものに感じたあの眼差しを、又吉の瞳にも感じてならなかった。
話はそれだけだった。他に話すことがないくらいに、葵の心は山間の村から離れてしまったようだ。おかしくなり掛けている聡を引き受けられないと、どうしても言い出せなかったからかもしれない。愛と好奇心は別物と気付いた葵には、どうすることも出来ない。
聡に煽られ、好奇心と勢いで付き合ったが、縋り付かれるのには疎ましさを感じた。幼馴染みへの友情が残っているからこそ、聡を傷付けない為にも、そっとしておくしかないように思うのだった。
〝あの二人、古い付き合いだから、気にする必要はない〟
省吾にそう言われていなければ、葵は自分を許せなかっただろう。人任せにして逃げたのだから、許せるはずがない。しかし、任せたのが省吾ではなく、従兄弟のかわい子ちゃんというのが、何故か葵の気持ちを穏やかにしたのだった。
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