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第四部 32-2

 葵は又吉に挨拶をして席を立った。ドアへと向かうあいだに、菓子のおかわりを頼む又吉の声がした。朗らかで力強いその響きに、食堂全体が揺るがされたような気がしてならない。 〝鬼の居ぬ間に洗濯、ってことですわ〟  又吉は浮かれ調子に続け、豪快な笑い声を厨房の奥にまで轟かせていた。腹の足しにもならない小さな菓子という些細な息抜きを、全力で楽しむ又吉の明るさが、葵には救いだった。 〝爺ちゃん、ありがとな……〟  葵は前を向いたままで呟き、自動ドアを抜けて、渡り廊下に出た。迷いもせずにその足で、体育館へと向かった。  葵のクラスに割り当てられた練習時間が、終わろうとしていたのには気付いていた。翔汰を含めたクラスメート全員で、先に更衣室に向かっていたとしてもおかしくなかったが、そうは思えなかった。ぎりぎりまで練習していることが、感覚で確かめるまでもなく、葵にはわかっていた。 〝あっ!篠原君が戻って来たよ!〟  体育館に入ってすぐに、クラスメートに得意げに話す翔汰の声に迎えられた。 〝ね?僕の言った通りだったでしょ?〟  翔汰の顔を立てたとしても、葵が戻るのを待って練習を終えたのが、葵には嬉しかった。だからと言って、その思いを口にはしない。体育の授業と同じに全員で片付けをして、わいわい騒ぎながら更衣室へと、ひとかたまりで歩いて行く。そこでも普段通り、クラスごとに予約した順番を待って、シャワーを浴びる。  始めのうちは葵の裸に顔を赤くしていたクラスメートも、最近ではふざけて水を掛けて来る。シャワー室ではいつも水の掛け合い合戦になっていた。  楽しむ時は思い切り弾ける。それを信条にしている葵だが、省吾との待ち合わせを思い、今日は髪を濡らさないよう気を遣った。愉快な一時(ひととき)に、その気遣いも忘れ去られてしまったが、気分は最高だった。  葵は自分のロッカーからスクールバッグを取り出し、下着に体操着、濡れたタオルを突っ込んだ。替えのボクサーパンツにはき替え、夏服のズボンに足を通した。Tシャツはお気に入りのキャラクター付きを持って来ていた。その上に、開襟シャツを着る。風通しを良くしようと、ボタンは全部外しておいた。  今朝、スクールバッグに着替えを詰めていた時は、省吾と待ち合わせるつもりはなかった。海外コミックのキャラクター付きのTシャツも、好きで選んだものだった。開襟シャツのボタンを外したことにも、下心があってしたのではなかった。 〝ってもだ、ヒーロー嫌いのあいつには、嫌みかもな?〟  葵はにやつき、独りごちた。朝は白無地のTシャツをインナーにしていた。またまた選んだ替えのTシャツが、省吾の嫌いなキャラクター付きという偶然の面白さには笑えてしまう。 〝マジで俺、調子いいんじゃねぇか?〟  そう思いながら、身繕いの最後に、濡れた髪を結び直していた。その時には、隣で同じように着替えに精を出していた翔汰の熱のこもった長話に、耳を傾けていた。学園の生き字引を目指す翔汰の頭に、沈黙という言葉はない。  聡と従兄弟のかわい子ちゃんとの遣り取りを、翔汰は学園の華やかな歴史に彩りを添える(こぼ)れ話と位置付けたようだ。わざわざ問い掛ける必要がなかったことで、葵にもわかった。 〝凄かったよ〟  華麗な演出で恐怖を楽しませる常識外れな猛獣ショーを観る思いだったのだろう。翔汰の口調は見逃した葵を哀れんでいるようでもあった。 〝藤野先輩に腕を掴まれて、身動き取れなくなったら、あの子、豹変したんだよ。目を三角にして、先輩のこと、クソ呼ばわりしたんだ、それだけでも凄いことだけれど……〟  一番の興奮どころを、鮮明に残る記憶と共に、余すところなく一気に話そうというのだろう。翔汰は深く息を吸ってから話を継いだ。 〝……あの子、続けてこんなことを言ったんだ。見てることしか出来ねぇ間抜け野郎のくせしやがって、邪魔すんじゃねぇ、ってね。みんな、目が点になってた。だって、誰も藤野先輩に、クソとか間抜けとか、言えやしないもん。藤野先輩が怒ってたのは、顔を見ればわかったよ。普段から怖い顔してるけど、そんなもんじゃなかったから。僕なら、きっと、おしっこ、ちびってるよ。なのに、あの子は全然気にしてなかったな、藤野先輩も言い返さなかったしね。そんな先輩、初めて見たよ。だからかな、藤野先輩、みんなの目を気にして、すぐに、あの子を連れて行っちゃった。力では敵わないから、あの子、先輩に引きずられてたけど、そのあいだも、ずっと喚いててさ、僕、あんな風にポンポン言えたら気持ちいいだろうなって、思っちゃった〟  猛獣ショーのクライマックスは、翔汰には未知な言葉の羅列だったようだ。聡の凄みを利かせた掠れ声を真似ようとして、逆に一本調子になっていたのが、葵にはおかしかった。 〝うぅんとね、あの子が言ってたのは……意気地なしの奥手野郎がでかい(つら)すんじゃねぇ、腐れインポに何が出来んだ、棺桶(かんおけ)に片足突っ込んでるジジイの方がまだやれっぞ、って、こんな感じだったよ。ああっと、そうだ、種無し男の能無し野郎、ってのもあった。僕、よく意味がわかんなかったけど、あの子の勢いには憧れちゃうな。だけど、藤野先輩には我慢ならなかったみたい。体育館を出た辺りで、あの子に怒鳴ってた……〟  翔汰は少しだけ勿体ぶってから言葉を繋げた。 〝この!あばずれが!……ってね。僕だけじゃなくて、みんなもニヤニヤしてたよ〟  憧れるというだけあって、翔汰はこのあとスマホを手に取り、忘れないよう全部もれなくメモしておくと、ニコニコ顔で続けていた。スマホは体育館への持ち込みを禁止されている。聡の罵詈雑言を必死で覚えたということだ。男らしさが妙な方向に行きそうで笑えたが、〝さすが委員長、抜かりねぇな〟と、葵は素直に答えていたのだった。

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