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第四部 32-3

〝えへっ、篠原君に褒められちゃった〟  翔汰は嬉しそうに答えていた。葵はそれにも笑わされたが、メモした言葉の意味を検索して、使い方を表にするつもりだと言われた時には返す言葉がなかった。奮起するのがそこかと思うと、唖然とするばかりだが、その真面目さには何も言えない。  それより葵には気になることがあった。翔汰の話を聞くに付け、聡を従兄弟のかわい子ちゃんに任せたことが、ことさら胸に迫って仕方なかった。省吾に古い付き合いだと教えられていたが、そこまで歯に衣着せずに言い合える仲とは思っていなかった。 〝あいつ、肝心なことは言わねぇからな……〟  シャワー室でクラスメートとふざけ合ったのも、省吾との待ち合わせに過敏になっていたせいもあるのだろう。待たせているとわかっていたが、自分から誘ったことに焦っていたようだ。それも翔汰の話で、こちらが優位に立つには、待たせるくらいで良かったのだと思えた。その方が省吾の為にもなる。  省吾はまさに、天上界をうろついているような男だ。それを下界へと下ろしてやりたくなった。〝愛している〟というのなら、世間並みのいじらしさを見せて欲しい。見目麗しい容姿も、一皮剥けば、汗臭くて小汚いクソガキということだ。へろへろな姿には、ほくそ笑むだろうが、優しく慰めてやろうとは思っていた。 〝あいつはどっか浮世離れしていやがるし……〟  そうは言っても、聡が現れなければ、省吾を誘うことはなかった。バスケットボールの練習を終えたあとの予定も決めてあった。クラス全員で食堂に行き、アイスクリームを食べる。練習を始めた日から球技大会の前日まで、予定を変えるつもりはなかった。  シャワーのあとのアイスクリームは、本当に最高だった。小さめのコーンに多めに盛ってもらったアイスクリームを、まずは軽く一舐(ひとな)めして、至福の溜め息を漏らす。クラスメートからオヤジ臭いとからかわれても、葵は気にしない。彼らにしても、似たり寄ったりの顔付きをしているからだ。  そういった男同士の気楽な付き合いも、今日は諦めるしかない。省吾がエントランスホールで待っているとは、この時の葵には思いも寄らないことだ。正直なところ、シャワー室で時間を食い過ぎたと悔やんでいたのだった。これ以上、この暑さの中、校門に立たせたままにはしておけない。葵は気持ちを切り替えるようにロッカーをバタンと閉め、翔汰に野暮用が出来たと言い、気落ちした調子で続けた。 〝みんなと一緒に、食堂には行けねぇよ〟 〝うん、わかってる、先輩によろしくね〟 〝なん……だって?〟  葵の思いとは真逆に、翔汰には明るく返された。葵は思わず聞き返したが、きつく問い詰めるような口調になっていた。 〝あっ、あっ、あっ……〟  翔汰の困惑に恐怖はない。どう言い繕おうかに悩んでいるだけだ。脳味噌をフル回転させている音が、葵には聞こえた気がした。 〝……ぼ、僕、何も言ってないよ〟  しらばくれることにしたのだろう。翔汰はしれっと答え、手の中にあったスマホを背中に隠した。それで何があったかも見えて来る。葵は翔汰がメモすると言ってスマホを取り出した時に、こそっとメールを返していたのを思い出した。そこで誰かに入れ知恵されたようだ。  ろくでもないことを吹き込んだのが誰か、翔汰に聞こうとは思わなかった。赤褐色の肌をした端正な顔が、無理なく思い浮かぶ。何かと理由を付けて、葵から翔汰を引き離したがる男は、とある王国の王子という高貴な身分だ。そのやんごとなき顔が、葵の頭の中で、子供じみた意地悪い笑いに緩んでいた。  王子が何を吹き込んだかに興味はない。〝好きに言ってろ〟という思いだったが、それを翔汰がどう理解したのかに思い至ると、葵の心は浮き足立った。葵は首筋から頬へと熱が差すのを感じて、顔が赤く染まる前に、逃げるようにして更衣室を出ていた。 〝クソがっ〟  下駄箱でスニーカーに履き替えながら、気恥ずかしさに悪態を吐いた。隣に翔汰がいないのを意識すると、余計に照れ臭くなる。省吾と二人きりで出掛けるのが、出会いのあの日以来初めてだと、今更ながら気付かされるのだった。  葵はスクールバッグを肩に掛け、ズボンのポケットからスマホを取り出した。出会いのあの日を思うと、省吾と二人、どこへ行くべきなのかがわかって来る。葵は軽く指を滑らせ、マキノの番号を選んでいた。 〝ああっと、このあと、店に寄ってもいいかな?〟  マキノは営業時間を外れると、誰も店に入れようとしない。省吾だろうと葵だろうと、態度に違いはない。それでも事前に連絡を入れたのなら、気分次第で招き入れてくれる。葵はスマホを耳に当て、マキノの気分を探るよう慎重に言葉を継いだ。 〝腹、減ってんだ、なんか食わしてくれねぇか?〟  それに答えるマキノのおっとりした掠れ声には、妖しさが漂っていた。時間外のことにむっとしているようでもあり、楽しんでいるようでもあった。葵はマキノの妖しさに惑わされないよう、気持ちを会話に集中させて言葉を返した。 〝今日のランチ、クリームシチューだったのか?えっ、それ、残ってんの?最高じゃん〟  そこで人数を聞かれた。葵が二人と答えると、生温かさを感じさせるマキノの息がふうっと耳に響いた。瞬間、葵は耳からスマホを離したが、相手が誰かというマキノの問い掛けは聞き逃さなかった。マキノは気に入らない相手なら、入店拒否も辞さない勢いだった。そのあとで、省吾なら考えないこともないと、笑うように続けていた。 〝わかってんなら、聞くなよ〟  省吾の名前を口にしなかったことで、しつこく確認するマキノに、葵は素っ気なく答えた。 〝あいつと二人になりたいんだよ〟  言い方がまずかったと気付いたが、その時には遅かった。マキノは必要なものを全て揃えておくと言い、省吾にも心配ないと伝えるようにと、またしても妖しさを漂わせて付け足していた。葵はそれには何も言わずに、挨拶だけして電話を切った。 〝心配ない……だと?クソがっ、男だぞ、放っておけっての〟  スマホをポケットに戻しながら、変に気を回すマキノに苛立った。省吾への扱いが、葵には妹扱いされて育った翔汰と大して違わないように思えてならない。 〝あの野郎、お嬢さん育ちもいいとこじゃねぇかっ〟  見た目と言動の大きな差異が邪魔をして、真実を見落としていたように葵は思う。男らしさに目覚めたことで箱入り息子から脱却しようとする翔汰に、深窓の令嬢さながらの過保護に甘んじる省吾が重なる。そして合点が行った。 〝委員長を目の敵にするってのは、同属嫌悪ってことだな。あいつ、委員長みたく素直じゃねぇし……〟  葵は省吾を思い、ニヤリとした。翔汰の可愛さに、オヤジ臭く鼻の下を伸ばす時のような気分になる。 〝俺、マジで調子いいんじゃね?〟  葵は弾むように呟き、中等部の出入り口を通って、エントランスホールに出た。そこに省吾の姿を見て、はっとする。鑑賞するのに相応しい気品に満ちた彫像のような立ち姿だったが、その清爽とした様子が裏切りに思えて、葵には面白くなかった。

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