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第四部 32-4 (終)

 炎天下の校門で、汗だくで待っているはずの省吾が、冷房の効いたエントランスホールで、涼しげな顔で立っている。省吾なら当然しそうなことだというのに、葵は考えもしなかった。 〝クソがっ、調子いいのもここまでか……〟  省吾にはやられてばかりだ。うまく行ったためしがない。今も、自分の尻を蹴り飛ばしたい気分にさせられる。それが省吾への甘えだとは思っていない。思う必要もなかった。葵はスクールバッグを肩に掛け直し、つまらなさそうな顔付きで省吾へと近付いて行くのだった。 〝悪戯なんて、そんなケツの穴の小さいことは……〟  する訳がないと、省吾に言ってみたところで無駄だとわかっている。煌びやかな天上人から小汚いクソガキに落ちた省吾の凡人ぶりを期待したのだが、省吾は未だ非凡な天上人のままでいる。要するに、見抜かれていたということだ。葵にとって、愛がもたらすお楽しみであり、大義だということが、省吾にはわからないのだろう。  葵は理解しようとしない省吾に減らず口を叩いたが、それさえ省吾に仕返しをされてしまった。肩に腕を回され、力任せに引き寄せられたのだ。  クソ暑かった。面白くなかった。省吾が葵の肩を抱き寄せたままの格好でドアを押し開け、外に出たことが、葵をさらにイラつかせた。かっとする思いの奥底には、別の熱が疼き始めている。それが何より腹立たしい。  力では省吾を押し遣れない。無理にも手を出せば、省吾の思う壺だ。疼きを意志で抑え込むのも癪だった。こうなったら、ふざけた物言いで省吾をからかい、熱を散らすしかない。省吾が不機嫌になれば、葵の気分は上向く。〝俺のこと、愛してんだよな〟と、嫌みな笑顔でつつき回せる。  省吾は葵の肩を抱く腕を外そうとはしなかったが、諦めたように少しだけ体を離してくれていた。しみったれた勝ちであっても、勝ちには違いない。それで省吾と二人、肩を寄せて歩くのも許せていた。  そうは言っても、こうして男二人で肩を寄せ合っていれば人目を引くものだ。この町の有名人である省吾ともなれば、瞬く間に注目の的になる。しかし、誰も目に留めようとしない。省吾もまた、その身を人の視線から外せていた。葵はまた一つ、省吾と話す理由が増えたと思うのだった。 〝この町の秘密に……〟  尚嗣が剛造との関係を苦しげに、それでいて覚悟を決めて話していた時のことを、葵は思った。 〝私と剛造は、この町の秘密に振り回された。二人して、間違いを犯した……〟  秘密は省吾という存在へと繋がっている。その繋がりは葵にもある。二人して間違いを犯さない為には、省吾と話さなくてはならない。皮肉なことに、聡がその切っ掛けになった。  省吾にもわかっているのだろう。何かと突っ掛かっては、誘われた理由を確かめたがっている。マキノの店で腹ごしらえをしてからと答えると、省吾は色気に走って、食い気を置き去りにした。お陰で日頃の鬱憤が晴らせた。その瞬間、省吾の気持ちは完全に緩んでいた。油断していたのだ。葵は隙を狙って、わき腹にパンチを食らわせてやった。  すっきりした。省吾に可愛くないと言われたのが嬉しかった。可愛いのは〝お嬢さん育ち〟の省吾の方だと、内心で笑っていたのだ。葵はまたも調子が戻って来たのを感じて、思わず知らず笑みを零した。晴れ晴れした瞳に映されたものは、裏と呼ばれる街へと抜ける通路だった。  駅のホームで声を掛けられたあと、省吾と二人で歩いたあの日が思い出されて来る。この町に来て一月(ひとつき)、肩肘張っていた頃のことだ。あの日を思うと、両親と暮らした山間の村での生活が夢のように思える。両親との思い出は色褪せていないが、半年にも満たないこの町での暮らしが、今の葵には現実だった。  葵は省吾と一緒に通路を抜けて、襲い来る現実のクソ暑さの中に出た。省吾は葵の肩から腕を外さない。嗅ぎ慣れた省吾のオーデコロンの匂いも、熱せられた体臭と混じり合い、心地よい香りを放っている。こちらは省吾と触れ合うところが汗ばんでいるというのに、省吾はあの春の日に嗅いだ芳しさと同じに爽やかだった。 「あんたさ……」  葵はクソしたあとにしか見えないモニュメントがある公園に差し掛かった時、顔を顰めて言った。 「汗、かかねぇの?人っぽくさ」  そこで省吾に笑われるとは思わなかった。葵はむかっとし、肩に回されていた腕を押し遣るようして払った。軽く払えたのを不思議に思ったが、それさえ省吾にはおかしくてならないようだ。省吾は一人で先に裏と呼ばれる街の通りへと足を向け、春のあの日と違って人通りの多い道を、笑いながら進んで行く。葵は少しだけ間隔を空けて、その隣を歩いた。 「いらっしゃい」  見知らぬ男に挨拶をされた。多くはないが、その後も次々と街の男達から声を掛けられた。人の多さを気にして、視線の及ばない隙間を歩いているというのに、彼らに笑顔を向けられる。 「なんでだ……?」  葵の姿が見えていない人がいるのは確かだった。何が違うのかを見極めようとしたが、省吾の腐り切った物言いに答えも知れて来る。 「からかわれたくないだろう?」 「俺らの……ことでか?」 「仲間だからね、ごまかせない」 「へぇ……」  葵は敢えて問い返さずに、心持ち残念そうに続けた。 「……仲間ってのなら、従兄弟のかわい子ちゃんもか?」  省吾は優美な顔を悔しげに歪ませることで、かわい子ちゃん達仲間に、散々からかわれているのを葵に伝える。葵はふんと鼻で笑ったが、言葉にしない省吾の思いには気付いていた。 「ああっと……シンクロ?」  まさにこの場所で、省吾から〝シンクロする奴ら〟と教えられたのを思い出した。あの時は変な言い方だと思ったが、〝共鳴しながら交信し、繋がり合っている〟と話していた省吾の言葉の意味がわかった気もする。 「筒抜け……なのか?」 「俺は……おまえもだけど、シンクロ出来ない。奴らの交信に繋がれないんだ。だから、腹が立つだろう?」  省吾は笑いながら話していたが、葵の目には強がっているようにも映る。不意に真剣な口調で問い掛けて来たのも、孤独さに気付いてもらいたかったからかもしれない。 「隠したい?」  葵の頭に、聡とのことが浮かんだ。隠して欲しいと言われた付き合いは楽しかったが、負担でもあった。葵は自分自身がどうしたいかを思い、首を横に振った。 「俺は平気さ」 「良かった」  省吾は嬉しそうに言い、葵の肩に手を伸ばして来る。それを払う間もなく、ぐいっと引き寄せられ、耳に囁かれた。 「誰を思っていたか、わかっている」 「妬いてんのか?」 「人並みにね」  省吾らしい持って回った言い方だった。腹は立たないが、省吾の逞しい体は邪険に押し遣る。冗談でごまかすつもりがないのを知らせるには、省吾との体格差が邪魔だった。 「妬くようなこたぁねぇよ」 「そう?」  省吾は物柔らかな口調で楽しそうに言う。 「だけど、自分でも驚いているんだ、こんなにも嫉妬深い奴だったなんてね」  葵は省吾のその台詞に赤くなった。省吾に気付かれないよう、ふんと横向くが、抜け目のない省吾が見落としたりしない。 「早く来いよ」  省吾の物柔らかな口調には、葵が好む明るさがあった。葵は省吾に視線を向け、その背後にマキノの店を見る。初めて二人で来た時は、店先の花壇には、繊細な春の花々が淑やかに咲いていた。季節が夏へと移ったように、花の姿も、健やかに伸び上がる向日葵に変わっている。  日に向かい、誇らしげに咲く向日葵の横で、省吾がドアを開けて待っていた。葵は照れ臭さをひた隠し、省吾へと歩いて行った。

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