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第四部 33-3

 マキノは葵に笑顔を見せていた。省吾には子供を叱るような顔付きだった。省吾はそれが気に入らなかった。男の欲情の何たるかを教えたのは誰だと責めたくなる。我慢したのは、葵に〝お嬢さん育ち〟と言われていたからだ。自ら認めて、恥をかきたくはない。  省吾に許されるのは、見なかったふりをして遣り過ごす程度のことだ。子供じみた癇癪を絶対にしてはならない。わかっているが、葵が床に投げ捨てたスクールバッグの横に自分のを置きながら、気付けばマキノをむすっと睨み返していた。  省吾が子供から大人へと成長するのに手を貸したマキノには、省吾の苛立ちが軽く見通せる。欲しいと口に出す前に、差し出されるような男に育った省吾に、未だ純真な焦りがあったことを喜んでいる。マキノは小さく微笑み、口元に笑みを残したまま、食事の用意に戻っていた。  そのマキノを相手に、省吾を無視して一人でさっさと席に着いた葵が、腹が減ったと、ことさら強調している。食い意地の張った話で、気分的に省吾を追い払おうというのだろう。それでも葵は春のあの日と同じ席を選んでいた。省吾は苦笑するしかなかったが、葵の思いには逆らわなかった。おとなしく隣に腰掛けた。それをマキノに、ふふっと鼻で笑われた。 「そうそう、この前、吉乃に言われたのよ」  カウンターテーブルに、クリームシチューとサラダを置き、小さめのパンを添えながら、マキノが葵におかしそうに話を振る。 「育ち盛りだし、何を食べさせても構わないけれど、夕食に支障のない量にしてくれとね、だからいつもより、少なくしてあるの」 「あいつ、家にいるようになってから、ホント、煩いのなんの、たまんねぇぞ」  葵は顔を顰めても、明るい口調で話を継ぐ。 「母さんだって、あそこまでグチグチ言わなかったのによ」  省吾は静かに二人の話に耳を傾けていたが、頭の中では別のことを思っていた。同じ葵の声が、その時へと、省吾の気持ちを引き寄せる。 〝あんたも吉乃のこと、知ってたのか?〟  省吾の父親が逮捕されて暫くした頃、学園の食堂で昼食を取りながら、探りを入れられたというには余りに真っ直ぐに問い掛けられた。ごまかしを聞く気はないと言われたようなものだった。  マキノと吉乃が知り合いだというのは、吉乃から直接聞いたと、葵は話していた。省吾に声を掛けられたあの日が最初だとは教えていないが、三つ巴の気色悪いゾンビ映画を観たあと、ダンスパーティーに行く前に、全員でマキノの店へ寄ったことは聞かせたそうだ。 〝で、どうなんだ?〟 〝俺は蜂谷ではあるけれど、藤野の家で育った。香月の家令と親しくしようがないだろう?〟  その時の省吾には、葵を挟んでその隣に座る小猿が、メイを相手にキャッキャキャッキャしている僅かな隙間に出来た二人の時間を、長引かせたいという思いしかなかった。語れることが少ないせいで、その時間もすぐに終わりそうなのが、残念で仕方なかった。 〝クロキの方が幾つか年下ってことくらいしかわからないな。マキノが親しくするのは、クロキに紹介されたからだろう。どこでどう知り合ったかなんて、俺が聞くようなことでもないしね〟 〝クソがっ、あんたに聞いた俺がアホだったよ。吉乃にも、古い話で記憶も曖昧だと言われてっからな〟  葵が聞き出せたのは、香月家の従者見習いとして雇われた吉乃に、妙な噂が立たないよう、クロキの家が気遣ってくれたというところまでだった。あとは何を聞いても、吉乃に軽くいなされたと不満げに話していた。 〝知りたい?〟  省吾は本気だった。吉乃に興味はないが、葵の望みは叶えてやりたい。 〝うーん……〟  クロキと聞いて、葵も気にしたのだろう。父親がクロキの店で働いていたのだから、わからなくもないが、吉乃の過去には関係しないことだ。しつこく聞く訳にも行かなかったと、そう続けていたが、いざ省吾に頼るとなると考え込んでいた。 〝やっぱ、いいや〟  その後はすっかり、葵も気にしていたのを忘れている。吉乃の過去は吉乃のものだ。そっとしておくことにしたようだが、葵の話で省吾にはわかったことがある。当時、クロキはまだ小学生だ。吉乃の為に口止めをさせたのは、クロキの父親ということになる。葵の父親もかかわったあの店を作った男との関係がどういったものであったのかは、薄々見えて来る。  吉乃に眷属は寄生していない。尚嗣への純粋な思いが強過ぎて、仲間には出来なかった。クロキが父親同様に、日の当たる場所で暮らせる機会に恵まれた吉乃を大切にしたのは、人としての繋がりからということだ。  マキノにすれば、クロキの知り合いというだけで十分だった。産地直送の野菜が手に入ると喜んでいる。香月が資金提供する又吉の村から送られて来たものを、もらい受けていたのだ。彼ら大人は用意周到に準備し、事故さえなければ、その村に葵がいることを、葵が大人になるまで省吾にも隠し通すつもりだった。  省吾は誠司に人としての人生を楽しめと言った。それはクロキ達大人にも当てはまる。聡のことにしても、主人面して問い質したりしない。彼らの好きにさせている。逆に言えば、省吾も好きなように行動する。体育館の出入り口に立つ又吉を目にした時もそうだ。葵の鼻先で又吉を誘い出し、葵が食堂に現れるまでのあいだに、知りたいことを聞き出した。 〝お孫さんが学園に編入されるのですか?〟  又吉は省吾の様子から学園を代表する生徒と思ったのだろう。省吾の品の良さに恐縮し、信頼して話してくれていた。 〝ええ、ええ、転校する生徒がいるということで、二学期からお世話になります。今日はその手続きに来たのですよ。何もかも、香月さんに頼りっぱなしで、本当に申し訳なく思っております〟 〝では、香月のところに同居されると?〟  さすがにそれは認められない。省吾はかっとしたが、意志の強さで抑えた。物柔らかな口調でさり気なく問い掛け、又吉にも疑わせなかった。 〝いいえ、そこまでお願いする訳には行きません、下宿先を紹介してもらいました。香月さんのところの吉乃さん、この方の知り合いのクロキさんという方です〟 〝クロキ?〟  省吾はほんの一瞬、口調をきつくした。クロキの名前にまつわる思惑を理解するのに掛かった瞬くような時間でも、又吉が聞き逃すようなことはなかった。

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