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第四部 33-4 (終)

 又吉には、可愛い孫を預ける先のことだ。敏感にもなるだろう。見た目はおっとりしているが、頭の働きは鋭く、村長の肩書きも飾りではない。又吉は省吾の一瞬の声音に、何かを感じ取っていた。 〝ああっと、気になることでも?〟 〝いいえ……〟  省吾は優美な顔をゆったりと緩ませ、又吉を安心させた。 〝クロキの家とは家族ぐるみの付き合いなんです。ですが、お孫さんのことを聞かされていなかったもので、驚きました〟 〝おお、そうでしたか、きっと孫のせいでしょうな、葵をびっくりさせると言って、香月さんにも内緒にして欲しいと頼んでおりましたからね。下宿の件も、みなさん、孫の為にと、申し合わせてくれたのでしょう〟  又吉は豪快にからからと笑った。クロキ達大人が吉乃に相談されたのを利用したと知れば、笑ってはいられないだろうが、又吉が折角いい気分でいるのを、不快にさせることもないと、省吾は黙っていた。  省吾にはクロキ達大人の思いが見えていた。聡に寄生するそれを囲い込めるだけではない。彼らの悲願と知りながら、省吾が血に棲むものと融合したのをすぐには知らせず、少しのあいだ秘密にした誠司達子供に仕返しが出来る。彼らの企みに、剛造と尚嗣の関与はない。当然のことだが、それぞれの思惑から、大人達が結託して、子供達に気付かれないようにしたのはわかる。 〝クロキの家は……〟  省吾は又吉にゆるゆると頷き、物柔らかな口調をさらに柔らかくして言った。 〝……昔風に言うと、若い衆の出入りが多い、そんな感じです。自宅が昔ながらの(たたず)まいを見せる古い造りで、使われていない部屋もたくさんあります。それで空き部屋の幾つかに従業員を住まわせているんです。ですから、お孫さんのことも、気兼ねは要りませんよ。クロキについて言えるのは、この町の名士が名を連ねる老舗クラブの経営者だということですね。最近では誰もが楽しめる気安い店を主力にしているのですが、クロキ自身は昔気質(むかしかたぎ)の頑固さで、老舗と呼ばれる店が組織の(かなめ)と思っているようですよ〟 〝ほおぉ……〟  裏と呼ばれる街にある豪奢な小劇場のことは避けて話したが、サキに任される劇場こそが、クロキの名前を継ぐのに相応しい店だった。劇場をどう采配したのかで、サキの真価も問われるのだが、内々の話であり、又吉が知る必要のないことだ。それに物柔らかな口調で語ったことに嘘はない。真実は信頼を勝ち得る。又吉は肉付きのいい丸々した頬をほんのり赤くして、省吾に笑い返していた。  省吾には情報源でしかなかった又吉だが、話しているうちに気持ちが和まされた。珍しいことに初対面で親しみを感じ、その思いは、忘れたくても忘れられない記憶と重なる。省吾は藤野の家に引き取られた日の夜を、思わずにはいられなかった。慣れない部屋で寝付けないでいると、伯母の真理が様子を見に、そっと中に入って来たのだ。 〝僕の……?〟  真理の手にはぬいぐるみがあった。 〝ええ、今日からいつも一緒よ、名前を付けなきゃね〟 〝名前は……赤ちゃん〟  真理は驚きに目を見開いていたが、何も言わずに微笑んでくれていた。今思えば、馬鹿馬鹿しい感傷だとわかる。子供心にも気付いていたのだろう。幼いあいだは可愛がったが、その夜以来、名前で呼ぶことはなかった。真理だけが〝赤ちゃん〟と名付けたことを知っている。それで小学三年生の時、洋館に移る際に、捨てようとした。後にも先にも、その一度だけ、真理に叱られた。  結局、その〝赤ちゃん〟は、真理が自分用の宝箱に引き取った。誠司のおくるみから始まり、初めて履いた靴、幼稚園で描いた絵に、小学校での成績表と、真理の宝箱には息子を中心に、省吾を引き取ってからは甥の分も含めて、子供達の成長の記録に溢れている。  省吾はその箱で、のんびりと余生を過ごすぬいぐるみを思った。丸いおなかが優しげだったのを思い出し、又吉に似ている気がして、口元が綻んだ。 「なんだ?一人でにやついてさ」  葵は省吾を無視しても、省吾に無視されることには腹を立てる。省吾は声を上げて笑った。そのまま葵の肩に腕を回して、小猿らしい物言いで明るく答えた。 「俺、聡の可愛さに、勝ててる?」 「はあぁ?」  葵は顔を顰め、省吾の腕を邪魔臭げに押し遣った。 「ふざけてんじゃねぇぞ」 「俺はおまえに関しては本気だよ、いつも言っているだろう?」  省吾は笑い続けた。心地よく高らかに響く笑いに、葵の顰めっ面が激しくなる。葵は省吾から視線を外し、カウンターへと向き直った。腹立たしげにスプーンを掴み取り、がつがつとシチューをかき込んで行く。マキノの呆れたような溜め息が、省吾の笑い声と混じり合っていた。 「親の敵のように食べないの」  マキノに言われ、葵もペースを落としたが、省吾のことは、そこにいないかのような態度を貫いている。省吾は葵の機嫌が直るのを待つことにして、自分もスプーンを手に取り、シチューを食べ始めた。 「喧嘩も出来ないようじゃ困るけれど、程々にね」  マキノが困ったものだというように首を横に振りながら、厨房から裏口へと歩いて行く。本当は出掛ける予定があったのを、葵から連絡をもらい、時間を遅らせたのだと続けていた。律儀な葵がそのまま行かせたりはしない。感謝の言葉にしては乱暴だが、嬉しそうに声を掛けていた。 「ありがとな、シチュー、今日も最高だぜ」 「気にしなくていいのよ。それに用事と言っても、クロキに頼まれたことだもの、店の子達に指導してくれってね」  クロキと聞くと、葵は緊張する。マキノの指導となれば、ダンスパーティーが催されたクラブではない。葵の父親が働いていた劇場の方だ。マキノもわかって話を繋げていた。 「クロキに言わせると、今の子達は過激なことは平気で出来るけれど、遊び心がなくて、逆に刺激に欠けるそうなの。現実的過ぎて夢がないって感じかしら。その点、亜樹は天才的だったわね、私の指導なんて殆ど必要なかったもの。あの子が作り出した幻想の世界に、紳士のみなさん、どっぷりと浸かっていたわ、妄想しまくっていたんでしょうね。ふふっ、今、思っても、うっとりだもの」  葵はシチューを喉に詰まらせた。省吾は軽く背中を叩いてやった。落ち着いたところで、葵の為に出されたオレンジジュースを、葵の前に滑らせた。葵はストローを外し、グラスを掴んで、ゴクゴクと一気に飲んでいた。マキノはクスクス笑いながら裏口のドアを開けていた。 「戸締りはいいから、適当に帰ってね。私の店に入ろうという度胸のある空き巣なんて、この町にはいないもの」  最後に意味深な視線を省吾に投げ掛け、出て行った。マキノだからこそ気付ける恥じらいに、省吾の顔がほんの微か火照った。葵には気付かれていない。葵はグラスをカウンターに置き、ふうっと、オヤジ臭い調子で息を吐いていた。オヤジ臭さもそのままに、マキノが姿を消した裏口を恨めしげに見遣っている。 「クソったれなオヤジだぜ」  省吾は驚き、そして笑った。それが気に入らないと、葵が噛み付く。 「なんだよ、何がおかしい、こっちは喉が詰まって死ぬかと思ったんだぞ」 「忠告しとくよ、今の台詞、絶対にマキノの前で言わないように」 「クソったれ……か?」 「違う、オヤジの方。乙女心ってのかな、気を使ってやらないと、おまえの好物のこのシチューが二度と食べられなくなる」  葵は複雑怪奇な表情をしたが、わかったと頷いた。マキノに腹を立てても、マキノのことを好いている。その思いを大切にすることにしたようだ。 「ホント、面倒で、クソったれな野郎だ」  葵はこれならいいだろうと言わんばかりに言い直した。省吾はまたも笑った。 「それも微妙だな」 「はあぁ?なら、ババアとでも言えってのか?」 「それじゃ、シチューどころか、店への出入りが禁止される」 「クソがっ」 「それならいい」  葵が鼻の周りに皺を寄せ、類い稀な美貌を見るも哀れなくらいに情けないものにした。省吾は葵と二人きりの時間が、これ程までに愉快だとは思わなかった。その後も葵と軽口を叩き合い、その合間に、マキノ自慢の美味しいシチューを楽しんだ。 「あのさ……」  葵が口調を変えて話し出したのは、互いに食べ終えた時だった。

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