140 / 154

第四部 34-1

 うまいシチューを食べたあとなら、話もしやすい。葵はそう思っていた。腹が満たされていれば、それだけで気分がいい。身構えることもなく、さらりと言い出せると思っていたのだが、中々切り出せないでいる。省吾に問題はない。葵自身に踏ん切りが付かないだけだった。  腹が減っていたのは本当だ。クラスメートとアイスクリームを食べることになっていたが、元からそれで足りる訳がない。帰りにバーガーショップに立ち寄るのも、今日の予定に入っていた。駅前にあるファーストフード店のことを、翔汰がはりきって話していた。アイスクリームで一息つけてから、『鳳盟学園』専用とまで言われるくらいのその店に、クラスメートと繰り出すつもりだった。  葵が省吾との話し合いにマキノの店を選んだのも、そこに理由があった。駅前の店では目立ち過ぎる。人の視線の及ばない隙間を見付けても、あちらこちらに学園の生徒がいると思うだけで、落ち着けない気がした。マキノの店でなら、出会いのあの日と同じに、誰にも邪魔をされずに話し合える。からかわれはしたが、省吾と二人きりになりたいという思いを、マキノもわかってくれていた。それには感謝したが―――。 〝……その点、亜樹は天才的だったわね〟  あれには参ったと、葵は思う。父親がしていたことを恥じていないが、息子としては父親のその姿を想像したくはなかった。  マキノのクスクス笑いが耳に残って離れない。マキノはそこら辺りをわかっていながら、敢えて口にした。葵に肩の力を抜けと伝えたかったのだろう。父親はつらい時にも、遊び心を持って楽しんだ。それで父親は母親と出合うことになり、夢を叶えた。 〝クソったれなオヤジだぜ〟  マキノに向けたその言葉は、正直な思いだった。省吾は〝乙女心〟に気を使うよう話していたが、〝乙女心〟と言われても、葵からすれば、魑魅魍魎のおどろおどろしさとどっこいどっこいの代物(しろもの)だ。どうにも理解しようのないことだが、マキノのことは好きだった。両親が世話になったからというより、マキノを知って、その自由な明るさに気持ちが救われたからだった。それで省吾にわかったと頷いた。  葵はマキノが出掛けたあとも、省吾との他愛無い言い合いを楽しんだ。省吾の笑い声にイラついて見せても、それさえ楽しかった。省吾も楽しそうだった。マキノの店に着くまでは、先延ばしにされることに何やかやと文句を言っていたのに、クソ面白くもない冗談で葵と一緒に時間を無駄にしている。 〝妬いてんのか?〟  あの時、葵は聡を思って問い掛けた。 〝人並みにね〟  人並みの嫉妬がどういうものなのか、省吾は自分の嫉妬深さを認めても、具体的には教えようとはしなかった。 〝俺、聡の可愛さに、勝ててる?〟  一人でにやつく省吾に腹が立ち、突っ掛かった時に、省吾はそう葵に返していた。誰を意識して言ったのか、葵にはわかる。ふざけた言い方だが、省吾が本気で敵視しているのは、翔汰の方と言われたようなものだった。葵が聡に拘ることを気に掛かけても、聡自身には興味がないということなのかもしれない。  省吾は翔汰を自分とは真逆な存在と思っている。大間違いだと、葵は指摘した。深窓の令嬢と箱入り息子という二人は、葵の目には同属に映る。 〝……俺からしたら、妹扱いされて育った委員長に負けねぇくらい、あんたもお嬢さん育ちだろってことなんだよ〟  葵がふざけ気味に口調を硬くして言ったことを、省吾は〝葵流の褒め言葉〟と言い換えた。裏でこそこそと、とある国の王子を(そそのか)したとしても、その斜め上を行ける翔汰には通用しなかった。省吾が幾ら苛立ちを募らせようが、翔汰の省吾への深い愛と忠誠心に変わりはない。褒め言葉と言ったように、省吾は自分に心酔する翔汰を恋敵と位置付け、対等に扱うしかなくなった。さぞかし悔しいことだろう。胡散臭くて信用ならない男にも、可愛いところがあると、葵には思えた。  葵は省吾に聞かせないよう、胸のうちでくっと短く笑った。肩の力が抜けた。それでも重い声音に変えて言った。 「あのさ……」  食事を終えたのを機に話し出した。 「聡とはなんでもねぇよ……ってか、あるにはあったけど、とっくの昔に終わっちまってる」  葵にも訳のわからない話だと思った。どういった付き合いをしていたのかを、口にするのが照れ臭い。  省吾は〝愛している〟と言う前に、〝わかるだろ?出会ったら……さ〟と言っていたが、葵の話も、要はそういったことなのだ。葵は省吾になら理解出来ることだと、そう思って目を向けた。省吾は必死で笑いを(こら)えていた。その顔付きまでもが優美だった。 「クソがっ」  葵には許せなかった。こちらは真剣に話しているというのに、省吾は笑っている。 「ふざけやがって」  葵は椅子から立ち上がった。省吾を置き去りにして、先に一人で帰ろうと思ったからだが、立ち上がったと同時に、省吾にさっと腕を掴まれ、出来なくなった。体ごと引き寄せられ、省吾の膝のあいだに立たされていた。  葵は抵抗しなかった。瞬間、〝ガキみたいに引きずり回すなっつっただろっ〟と声を張り上げ、拳で殴り付けそうになったが、すぐに収めていた。  カウンター席は少し高めの位置にあるが、座ったままの省吾からすると、僅かとはいえ葵を見上げなくてはならない。葵は身長差から見下ろされるのには、うんざりだった。尊大に見えるよう顎を上げて、省吾を見下ろした。それで留飲を下げた。省吾もわかっている。微笑みに細めるだけで、誰をも虜にする美しい瞳に苦笑を浮かばせている。 「逃げるつもり?」 「逃げてんのは、あんただろうがっ」  省吾が言おうとしていることはわかる。一人で帰るというのを、逃げと言われても仕方がない。それが癪に障って、わざと気付かないふりをした。  このまま省吾を調子付かせてはならない。〝だろ?〟と、葵は胸のうちで呟いた。いつもなら感じる答えがなかった。答えは決まっている。 「クソがっ、逃げ……ね……ぇ」  最後の部分は省吾に唇を押し付けられて、くぐもった。省吾は葵の首の後ろに手を伸ばし、力任せにぐいっと手前に引き、その勢いのまま、葵の唇に唇を重ねていたのだった。

ともだちにシェアしよう!