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第四部 35-1
省吾は中等部の体育館で、クラスメートと練習に勤 しむ葵を眺めていた。マキノの店の二階で過ごした翌日からずっとこうしている。眺めるだけで、触れられない。その翌日に、葵から切り出され、個人的な縄張りに近付くことさえ認めないと、そういった趣旨のことを宣言されている。
〝俺もつれぇんだ……〟
省吾の哀れな日々は、葵のこの台詞で始まった。その日は、バスケットボールの参加クラスに割り当てられた練習時間が違っていたが、葵が学園にいることは、省吾には感覚でわかっていた。
葵の人としての意志が強過ぎるせいなのか、さながら肉体と精神が溶け合うような、妖しくも淫らな一時 を過ごしたあとでも、葵とは共鳴も交信も出来ないままだ。諦めて、人らしくスマホで連絡を取り合うべきかと悩んでいると、次のクラスと入れ替わる間際に、葵の方から声を掛けてくれていた。省吾はついに思いが通じたと、その瞬間は本当にそう信じたのだった。
惨めな話だと、省吾は思う。甘い余韻は既になかったが、記憶はまだ鮮明に刺激を体に思い出させた。人並み外れた意志の強さを、あの時程、ありがたいと思ったことはない。葵にしても同じだったのだろう。葵は意志の強さを見せるように、ひややかな口調でこう続けていた。
〝……だけど、仕方ねぇだろ?球技大会が終わるまでは、あんたは敵だ、馴れ合っちゃなんねぇ〟
省吾を見上げる眼差しは厳しかった。クラスメートへと向けた視線には優しさが溢れていた。省吾から見ると、クソな奴らでしかない。それを葵は愛情深く眺めていた。
〝俺はあいつらに無理を言ったしな、あんたといちゃついてちゃ、示しが付かねぇ。悪いが、我慢してくれ〟
隣には、いつものように誠司がいた。立ち去ろうという気遣いも見せず、嫌がらせのように、その場を動かなかった。葵も気にしない。それどころか、今もって省吾を許そうとしない誠司を、意固地にさせるような言葉を残して行った。
〝よう、かわい子ちゃん、アホたれな省吾の世話、よろしく頼むぜ〟
食堂で騒ぎがあった日の帰りに、カフェの店先で、省吾がサキに同じことを言った。それへの仕返しをされた。誠司にもわかっている。誠司が厳つい顔を、省吾の鬼の形相さえ笑顔に思わせるくらいに歪めたことで、省吾の惨めさはさらに哀れで悲惨なものになった。
葵は誠司の怒りにも頓着しない。言うだけ言って、クラスメートのもとに戻って行った。あの時、省吾は体育館に姿を見せた葵に気付いた時から、甘い気分で微笑んでいた。まさにアホ面 だ。そのせいで、葵に何を言われたのか、すぐには理解出来なかった。その状態で捨て置かれたことになる。小憎らしい上に小賢しい恋人に、溜め息しかなかった。
省吾はマキノの店の二階で過ごした葵との時間に満足していた。葵も満たされていた。葵の熱い手のひらが、同じように熱く火照る省吾の肌を這い回っていた。自分のものと確かめるようにまとわり付くその手が首へと上がり、後ろに腕を回され、引き寄せられた。肌に唇を押し付けるようにして、何事かを囁かれた。
省吾は聞き返さなかった。言葉にはそそられなかった。その行為に興奮した。水飛沫の中、葵の濡れた髪を指に絡ませ、顔を上げさせ、唇を重ねた。
思い出すだけで、臍の下辺りが熱を持つ。痛いくらいに疼く。人並み外れた意志の強さに救われる。初めて知った年相応の反応は、悲しいくらいにひ弱 だと、省吾には思えた。
「さっさとやってしまえば良かった……」
省吾は後悔するかのように、口の中で小さく呟いた。その気になれば、簡単なことだった。欠片は欠片に過ぎない。千年のあいだに力を付けようが、主人の一部であることを忘れてはいない。陰陽を担うものとして、それを望んでいる。しかし、人としての葵の意志にも従う。葵は省吾の身長を超えてみせると、気炎を吐いている。
〝愛してんぞ〟
千年の年月を振り返って、香月と蜂谷の歪 な縁 の中で、省吾だけが手にしたその響きが耳の奥深くに蘇る。これから先の久遠 を共に生きる相手に、ただ一度のことだと、葵が聞かせてくれた言葉だった。
省吾は葵に言われたように、球技大会が終わるまでは我慢するしかないと思った。欲しいと口にする前に、全てを差し出されて来た男が、愛する者の願いを受けて、一途に時間が過ぎるのを待つことにしたのだった。
「……クソっ」
省吾をそこまでにしたというのに、葵の振る舞いは、マキノの店で過ごした二人の時間が、まるでなかったかのようだった。球技大会を明日に控えた今日は、特にひどい。クラスメートと最後の練習に精を出す葵に、省吾は完璧に無視されていた。
葵は司令塔らしくコートを走り回り、勝利に向けてクラスメートに発破 を掛け、華麗なフォームで、ロングシュートを打う。葵を中心に、クラスが一丸 となって練習に励んでいる。省吾はその様子を眺めているうちに、誰彼の容赦なく、殴り付けたい気分になっていた。
「おい、省吾、落ち着けって。みんな、見てるぞ」
誠司の声に顔を向けた。優美さが損なわれ、隙間に鬼が現れ出ていると、誠司は言いたいようだ。
「だから、なに?」
省吾は物柔らかな口調を保ちながらも、憤然と答えた。葵ではないが、誰に知られようが構わない。好きにさせてもらう。誠司の次の一言で、それがどういったものであっても、誠司を皮切 りに、体育館にいる生徒を次々と殴り倒してやろうと思うのだった。
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