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第四部 35-3

 聡が現れたその日、省吾は葵と二人でマキノの店に行った。そして宵闇が迫る頃に、身を寄せるようにしてマキノの店を出た。離れ難い思いで、まだ早いと言った省吾に、葵は顔をにやつかせ、照れ臭そうに答えていた。 〝あんたとその……アレはさ、急だっただろ?俺、出掛けに帰りの時間を聞かれてんだよ。マジな話、吉乃のしつこさはスゲぇんだぜ、夕飯(ゆうめし)前にはぜってーぇ帰るからって、俺が言ってんのに、あいつ、亡きご両親に誓われますねって、そこまで言うかって調子で、しっかり念押ししやがるしさ〟  だから、遅いくらいだと続けた口調には、思い悩むような響きも浮かばせていた。 〝あんた、言ったよな?乙女心に気を使えってさ〟 〝けたクソ悪いんじゃないのか?〟 〝俺にはな。だけど、向こうはそうじゃない。理解出来ねぇからって、気を使わないってことにはならねぇだろ?〟  省吾は葵をからかって言ったことで、負かされるとは思わなかった。元々が省吾にはどうでもいい話だった。吉乃に恩義はない。マキノとは違う。マキノへの気遣いが時と場合によることも、マキノにはわかっている。些細なことでも、葵の願いは叶えてやりたい。省吾が思うのは、その一点だけだった。  省吾は葵に促されるようにして二人だけの空間を作り、人ごみの中、密やかな歩みで裏と呼ばれる街を通り抜けた。駅に着いた頃には、二人のあいだには適度な隔たりがあった。余りの賑わいに、人の視線が及ばない隙間を二人で歩くのが難しくなったからだ。一人なら、難なく出来る。  省吾は寂しさを感じながらも葵と別れ、屋敷町へと向かう列車に乗り、洋館へと戻った。オオノの出迎えはなかった。マキノの店で葵と二人で過ごしたのを知らないはずがない。それ以上に、誠司のことで頭が一杯のようだと理解した。  靴を脱ぎ、二階の自室へと階段を上るあいだにスマホが鳴った。省吾は画面に表示された名前に軽く溜め息を吐いたが、迷いもなく通話ボタンに触れていた。 〝坊ちゃん!〟  瞬間、元気一杯なナギの声にイラっとした。そう呼ばないよう、事あるごとに言い聞かせているが、ナギが相手では、イタチごっこにしかならない。そうした意味でなら、仲間の誰よりも、ナギは省吾の関心を一身に集めているとも言えるだろう。  苛立たしさはあっても、葵と過ごした時間の名残で気分が良かったこともあり、あの時だけはナギの言うがままにさせていた。その方が勢い込んだ話も早く終わる。ナギはいつも通りの自分中心の明るさで、クロキの家で起きたことを事細かく喋ってくれていた。 〝誠司と、又吉爺ちゃん、仲良しだぁ〟  いつ終わるとも知れないナギの脈絡のない話は、その言葉から始まった。  まとめてしまえば、大した内容ではない。葵と入れ代わるように、誠司は聡を連れて食堂に姿を見せた。又吉とすぐに打ち解け、下宿先のクロキの家に挨拶に行くとわかると、案内を買って出た。クロキとの話し合いにも同席し、白々しくも一緒に茶菓(さか)のもてなしを受けた。世間話もそこそこに、又吉が予約した列車の時間に合わせて帰って行った。玄関へと向かう途中、見送らせて欲しいと控え目に頼み、又吉を喜ばせた。それだけのことだった。  今頃は十七番線のホームで別れを惜しんでいるのだろうと、省吾は皮肉な思いで聞いていたが、ナギの話で唯一笑ったことがある。又吉がクロキに向かって、誠司が如何(いか)にいい青年であるかを、あの大きな体から発する声で、朗々と聞かせているあいだ、聡は終始、苦虫を噛み潰したような顔をしていたそうだ。  ナギは父親の目を通して、盗み聞きしていたと話していた。喜び一杯で省吾にそう報告していたが、ナギの散漫とした話には、大切な部分が抜け落ちている。聡を体育館から連れ出したあと、又吉が待つ食堂に行くまでのあいだに何があったのかは、全く語られていなかった。  誠司自身が秘密にし続けている。子供の頃からの仲間とさえ、共鳴も交信もしないのだから、好きに隠せた。省吾に聞かれたのなら、誠司も何があったのかを答えなくてはならないが、省吾は自分の意志で聞かないでいた。だからだ。クソと思う奴らの下にされたことに文句を付けるなとは、誠司に言われたくはない。 「おまえのに比べたら……」  省吾は鬼が消え去ったあとに現れた優美さで、隣に立つ誠司をまじまじと見詰めた。そのあとで、強い口調にならないよう、さり気なく続けた。 「……俺のは可愛いものだろう?」  誠司は遊びで付き合えるような男ではない。マザコンでクソ真面目だと言われているが、だからこそ、その堅物さが熱くなった時、誰にも誠司を止められない。聡が苦々しい顔でいたのも、わかるというものだ。誠司は自身の生真面目さでもって、聡の逃げ場を潰しに行っている。  本当のところ、省吾は誠司が聡をどう追い詰めるのかに興味がなくもない。知りたいことを知るのは容易(たやす)いが、そうしたくないことは、互いにわかっている。話したければ聞く。省吾の口調には、そうした意味合いも含んでいた。 「可愛い……か」  誠司は〝可愛い〟に顔を歪め、省吾の思いをわざと取り違えて答えていた。 「ったく、クソ腹の立つ響きだぞ、男を小馬鹿にしてるってのに、気付かせねぇんだからな」 「そう?」  誠司のこういった真正面から嫌みを言うところは、見習いたいものだと、省吾は思う。口元を綻ばせ、口調にも楽しさを浮かべて話を継ぐ。 「恋人からなら、可愛いと言われるのも悪くないよ」  誠司の顔は歪んだままだが、それも笑いを噛み殺しているからのようだった。その悔しげな笑いには、〝可愛い〟を巡っての(わだかま)りが解けたのを感じさせた。 「おまえにもわかる……」  省吾はふと感覚が冴えたことに微笑み、笑みを残したままで言葉を繋げた。 「……多分、すぐにね」  誠司は省吾の僅かな変化にも敏感に反応する。他愛ない話でふざけ合っていても、次に起きることへと身構えたのが、省吾にはわかった。

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