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第四部 35-4 (終)
「翔汰!大変!」
メイが叫びながら中等部の体育館に走り込んで来た。代わりに誠司が体育館を出て行く。ひっそりした動きに、誰も気付いていないが、葵は違う。葵の笑うような思いが、省吾には感じ取れていた。
メイの大袈裟で子供っぽい喋りはいつものことだ。球技大会の練習が始まってからは、度を越した我がままで、何かに付けて小猿に絡もうとする。小猿の顔を見る為だけに、くだらないことで騒ぎ立てる。今もそうだろうと、葵は思っているようだった。
それに誠司がいる。誠司は球技大会での賭けを仕切るような男だ。学園の〝鼻持ちならないクソ野郎の弱みを握る〟男でもある。脅したことはないが、似た意味で怖がられている。生徒会はお飾りで、本当の意味で学園での揉め事を捌 くのが誠司だということも、葵は理解していた。
その誠司が動いたのだから、葵が感覚を広げてまでして、何事かを探る必要はない。小猿一直線というメイの態度も、葵を緩慢にさせた。そうでなければ、葵にも誰が何を起こしたかに気付けただろう。小猿の気を引こうと、声を裏返して繰り返すメイを、その類稀な美貌に興ざめした笑いを浮かべて、見るからにオヤジ臭い様子で眺めていたりしていない。
「翔汰!大変!」
突然呼ばれたというより、普段にも増して大袈裟なメイに気圧 され、小猿が目を丸くする。中々どうして、小猿はメイの扱いに長 けている。省吾も認めるところだが、メイも馬鹿ではない。いつも抱き付く直前でかわされているのを、計算に入れたようだ。まずは小猿を驚かせ、動きを封じた。その隙に、大きな体をこれ以上ないくらいに小さくして抱き付いた。そして震える声で続けている。
「俺、怖くて怖くて、逃げて来ちゃった」
体育館にいる生徒は、メイの言葉を誰も信じていない。可愛いもの好きの我がまま王子だが、メイには王族の一員としての行動規範がある。国から派遣された世話役から、狩猟民族の誇りを叩き込まれている。恐怖に逃げ出すような軟弱さは許されないのだ。そこら辺りのことを、小猿はわかろうとしないようだった。
メイに拘束されたかのように身動きが取れないというのに、小猿だけは本気でメイを気遣っていた。子供をあやすと言った方がいいような気もする。あれで結構男だと言った葵は正しいのかもしれないが、省吾には男らしさの方向性が逸脱しているように思えてならない。小猿のあれは母性に近い。葵のあのオヤジ臭い笑いにも、同じような思いがありそうだった。
「メイ先輩、大丈夫だよ、僕が付いているからね」
「くうぅん……」
メイは子犬のような鳴き声を出し、小猿の頬に自分の頬を擦り寄せ、甘えまくっている。この見世物に寄り集まった生徒達は早く話せとイラついていたが、メイには小猿しか見えていない。小猿は慣れたものだ。急かさずに、やんわりとメイに催促していた。
「だから、何があったの?」
「あのね、優希が久し振りに登校して来たの。それで自分の席とかロッカーとか、知らない奴に取られてるってわかって、腹を立てたんだ。そいつと鉢合わせしちゃたからね。そいつ、明日から始まる球技大会を見学するんだって。参加はダメだけど、練習には参加していいって言われてるみたい、それで一日早く来たって言ってたよ。優希にも、てめぇの居場所はねぇぞ、とっとと失 せろって、凄んだんだ。だから、優希、キレちゃった。あんなの初めて見たよ、そいつに殴り掛かって……」
「殴り掛かった?」
男臭い拳を嫌う繊細集団の長 としては、放っておけないようだ。小猿が叱るような口調で声を張り上げた。
「メイ先輩!それ、先に言ってよ!」
全身全霊でメイの拘束を解こうとする小猿を、メイがひょいっと腕に抱き上げた。これが別の時なら、どさくさ紛れに何をしていると、笑っていただろう。小猿にしても、お姫様抱っこと言われるものであっても、メイに運ばれる方が早いと思ったようで、抵抗しない。メイは中等部の体育館に走り込んで来た時と同じ勢いで、小猿を抱いて出て行った。他の生徒も、騒ぎを見逃してなるものかと、走り出した。その最後尾に、葵もいた。
葵が出遅れたのは、感覚を鈍らせた自分に腹を立てていたからだ。葵は聡が田舎に戻ったと知り、問題を二学期へと先送りした。爺さま達の策略と気付くまでの僅かな時間、葵は遅れを取った。
省吾には都合が良かった。生徒達を追い抜こうとする葵の腕を掴んで引き留めた。葵は外そうとするが、省吾が相手では思うようにならない。凄まじい形相で睨まれたが、省吾にはどうということはない。葵の怒りに触発され、うちなる光が輝かせる金色の瞳を愛 でるだけだった。
「クソがっ、やろうってのか?構わねぇぞ」
「少し落ち着け」
「あんたは聡の強さを知らねぇだろ、学園の奴らには止められねぇ」
省吾は笑うように答えた。
「それ、本気で言ってる?」
この町の秘密を知ったあとでは、葵も的外れなことを口にしたと気付く。顔を顰めたのでわかるが、聡の強さを理解するのなら、尚更止めるなと、省吾には噛み付いていた。
「あんたの弟はどうなんだ?聡にボロボロにされっぞ」
「だろうね……」
葵には省吾が他人事のように答えたのが気に入らない。咄嗟に殴り掛かられたが、すっと後ろに体を引いて、葵の拳を遣り過ごした。
「優希のことで、おまえと喧嘩なんてしたくない」
省吾は葵の腕を掴んだままで歩き出した。子供のように引きずり回すなと、出会いの時から言われている。わざとそうすることで、葵の気持ちを聡から引き離そうとした。葵は苛立ちを見せながらも、引きずられまいと省吾と一緒に歩いた。
「クソがっ、離しやがれっ」
「離すのはいいけど、俺を置いて行かない?」
「はあぁ?」
葵には思いも寄らない返しだったのだろう。ようやく気持ちを省吾へと向け、頷き、省吾の手が腕から離れるのを待って言った。
「あんた、なんかしたのか?」
「これと言って……何も」
「ってことは……」
葵は瞬間考え、苛立たしさを残しても、落ち着いた口調で続けて行く。
「……クソがっ、あんたの思惑通りに、周りが勝手に動きやがった」
どういった選択をするのかは周り次第だが、結果は常に省吾の手にある。誠司が小猿を〝省吾の思惑の斜め上を行く逸材〟と言った時に、葵にもわかったことだ。省吾はそれをここで指摘しようとは思わなかった。小猿の話をしたい気分でもない。
「優希をどうするか、おまえも気にしていただろう?」
「わかるけどさ、加減ってのがあんだろ?いきなり聡の相手なんて、きつ過ぎっぞ」
「優希は自分から動いたことがない。それが喧嘩なんて、面白い」
「面白いって、あんた……」
「優希にも……」
葵が何を言うつもりなのかはわかっていたが、今ではなく、もう少しあとで言われたい。省吾は葵に最後まで言わせないように言葉を被せた。
「……チャンスをやったらどう?」
「はあぁ?」
「ほら、食堂であばらにひびを入れた奴、あのにやけ面のクラスメートのようにね、それと……」
少しだけ不本意さを匂わせつつ、省吾は続ける。
「……男になろうとしている小猿を見守るようにさ」
「あんた……」
葵から苛立ちが消えた。思いを伝えるように、省吾のゆったりした歩調にも合わせて行く。それでも不満はあるとばかりに、苦々しげに答えていた。
「やっぱ、最低だわ、弟だってのに、俺に丸投げしやがった」
「俺は嬉しいよ、おまえは間違いなく、俺のことをわかってくれている」
「クソがっ」
聞き慣れた葵の悪態は本当に心地いい。そう思うイカれた自分を、省吾は笑った。笑い声は爽やかな風のように校舎を吹き抜けた。その響きが静まった頃、省吾と葵も高等部の体育館に着いていた。
食堂の時のような騒ぎの輪が出来ていた。輪の中心に聡と優希がいる。聡は天使を思わせる可憐な愛らしさで立っていた。その足元に、鼻血を流す優希が這いつくばうようにして座り込んでいた。
聡のあどけない微笑みが、生徒達の息遣いに熱をもたらし、優希一人が悪者となりそうな険悪な空気を漂わせる。それは優希にも気付けることだった。
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