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第四部 36-1
高等部の体育館に集まった誰もが、優希は逃げ出すだろうと思っている。食堂で既に一度、葵に臆病者と罵られても、何一つせずに逃げている。強い者には立ち向かわない。また同じことをするだけと、葵は体育館に漂う空気にそれを感じた。
聡が隠し持つ強靭で残忍とも言える強さが、優希にわかるはずはない。気付ける方が稀だろう。途轍もなく可愛い聡の微笑みは、簡単に手折れそうなくらいに可憐だ。これなら勝てると、つい手を出してもおかしくない。優希を動かしたのは、いつもの思い上がりと、誰もが思っていそうだった。
翔汰だけは他とは違う。立ち上がろうとする優希に手を差し伸べていた。その手を優希は払い除けた。勢い余って、翔汰が床に倒れ込んだことで、優希はメイの怒りまで背負い込むことになった。
メイは叫声を上げながら走り寄り、嫌がる翔汰を問答無用で抱き上げ、その時には、狩猟民族の血統らしい険しい眼差しで優希を睨み付けていた。メイの目付きに及ばないにしても、騒ぎを取り巻く生徒全員の目にも、その険しさは映し出されている。
優希が何者であるのかは、聡には重要ではない。自分にとって邪魔であれば、排除する。嫌われ者であることも、即座に気付いただろう。利用しない手はない。
〝てめぇの居場所はねぇぞ、とっとと失せろ〟
その台詞で挑発したのは、学園内での加減を探る為だ。それで自分の立場を優位にする。田舎でも何度か目にしたと、葵は思う。女のようだと言われるたびに、相手を殴り倒していたが、拳の勢いには加減というものがあった。
葵にはわかっていたが、何も言わなかった。聡が自分で自分を制御出来ていると思っていたからだが、それが間違っていたことに、葵は気付く。聡は葵の目を気にしていたに過ぎない。葵がいなければ、本性のままに欲求を満たす。
今、まさに聡は優希を相手に、獲物をいたぶる猫さながらだった。それによって優希は、出来ることが二つしかないところへと、確実に追い込まれた。周囲の期待通りに逃げ出すのか、一人の味方もない中で立ち向かうのか、どちらを選ぶのかは優希次第だ。葵はただ静かに優希の選択を眺めた。
優希は自分一人の力で立ち上がった。その強い意志を思わせる横顔には、省吾に似たものがあると、葵は思う。食堂で騒ぎがあったあの日の帰り、車の後部座席に隠れるようにして座っていた優希には感じなかったことだ。見た目は省吾に似ていないが、中身はそっくりなのかもしれない。そう思ったが、直後に、やはり少しも似ていないと思い直した。省吾は最初から聡の相手をしない。優希は向かって行く。
葵はにやりとした。こうも根性を見せられては、捨て置けない。聡を止めようと足を踏み出し掛けたが、従兄弟のかわい子ちゃんに先を越された。
「もう十分だろ」
従兄弟のかわい子ちゃんは、優希を庇うようにしてあいだに立ち、男らしい低さで穏やかに言った。今なら優希の怪我も大したことはない。鼻血を流してふらついているが、転んだだけと済ませられる。かわい子ちゃんが言おうとしているのも、ここら辺りで引けということだ。
聡にも加減が必要なことくらい、わかっている。それを可愛らしく小首を傾 げ、素知らぬ顔をして見せた。人の心を狂わせる可愛さは年相応だが、かわい子ちゃんを眺めるその瞳には、暗く老猾 な光を宿らせている。そこに気付けるのは、血に棲むものと、その眷属だけだった。
聡の目に映されたものには、葵が知る幼馴染みの思いを超えた何かがあった。葵の中にある欠片を求め、その時々に寄生した人と同調した〝それ〟の狂おしさを、葵は感じた。
「あんたは、いっつもそうだよな、俺を止めてばっかり」
聡は魅力的な掠れ声に、妖艶な響きを伴わせて続ける。
「だけど、いっつも失敗する」
かわい子ちゃんの背後にちらりと視線を投げ、楽しげな目付きで、男臭い逞しさに守られる優希を馬鹿にした。聡はかわい子ちゃんを相手にしながらも、優希を誘い出している。優希にもそれが伝わる。前に出ようと、かわい子ちゃんを押し退 けていた。
「ほらな、あんたなんて、用なしさ、見てるしか出来ねぇのなら、向こうへ行ってろ」
聡は微笑んだ。後ろに下がったかわい子ちゃんにではなく、ふらふらしながら向かって来る優希に笑い掛けている。清らかで愛らしい笑顔は、まさに天使だった。聡にはわかっていた。優希をかっとさせるには、微笑むだけでいい。
聡に操られるままに、怒りに顔を赤く染めた優希が拳を突き出した。聡は軽く跳びすさり、目標をなくしてつんのめった優希を蹴り飛ばそうと、足を振り上げる。その足に、優希がむしゃぶり付いた。
「馬鹿にするな!」
叫びながら聡の足を引き、床に倒した。馬乗りになろうとしたが、聡にひっくり返され
る。聡は素早く立ち上がり、優希を放るようにして投げた。
「ったく、ウゼぇったらねぇな」
言いながら、床に倒された時に付いた埃を払った。下 ろし立ての体操着は少しも汚れていないが、優希を苛立たせるのには効き目がある。
「てめぇが俺の葵に何しようとしたか、知ってんだぞ、クラスメートが教えてくれたぜ、てめぇのクソぶりをさ、弱い者いじめしか出来ねぇ根性なしってな」
聡の罵倒は桁外れな可愛さと相まって、絶対的な迫力を感じさせる。学年に関係なく、皆が息を殺して聡を見詰め、食堂での騒ぎ以上の静けさを、高等部の体育館にもたらした。
聡の足元で怒りに震える優希に、誰も手を貸そうとはしない。翔汰は助けようとしていたが、メイにがっちりと抱きかかえられて、身動き出来ないでいる。コウとリクは苦笑していたが、田中と井上は恍惚とも言える顔付きで、呆然と眺めている。
聡が強気なのは、かわい子ちゃん以外、眷属が寄生する仲間が邪魔立てしないとわかったからだ。生徒達の緊迫した息遣いには気付いてさえいない。聡は口調をさらに辛辣にして続けていた。
「てめぇなんて、家で縮こまってるしか能がねぇ腰抜けのくせしやがって、イキってんじゃねぇぞ、さっさと帰れっての、それがお似合いってもんだろ」
優希が唸るように叫んだ。渾身の力で立ち上がり、聡に向かって行く。聡はそれを待っていた。鼻血は殴ったのが原因ではないようだ。喧嘩慣れしていない優希の拳を払った時に、その気もなく指先が当たった程度のことなのだろう。本気の一発を浴びせていないからこそ、聡は最初で最後となる一撃を、優希自らに求めさせた。葵にはそれがわかった。
その一発を優希に当てさせる訳には行かない。葵は動こうとした。省吾に腕を掴まれ、引き止められなければ、そうしていた。
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