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第四部 36-2
「まだ早い」
葵の耳に、省吾の声が小さく響いた。省吾は騒ぎに顔を向けているが、その目に映す姿は、かわい子ちゃんだけのようだった。
「誠司が……」
最後まで言わなかったのは、葵にも見えているのを思い出したからだろう。かわい子ちゃんの動きに合わせて、軽く瞬 きをすることで、言いたいことの全てを葵に悟らせた。かわい子ちゃんは優希に押し退けられたあと、聡に言われた通り、少し離れたところにいたが、この瞬間には、聡と優希のあいだに立っている。
―――パンッ!
聡の拳が当たるその音がなければ、騒ぎを囲む生徒達には気付けなかった。人の目には映せないくらいの素早さが、生徒達に理解出来るはずがない。はっと息を呑み、かわい子ちゃんがまたも優希を、その逞しさで庇っていることに驚きを隠せないでいる。ざわめきが起きても、疑問をはっきりと口にしている生徒は一人としていない。
かわい子ちゃんは力強い手のひらに聡の拳を受けていた。その手で拳を握り締めるようにして掴み、腕を背中へと捻り上げて行く。そして仄かな甘さを思わせる声音でやり返す。
「今までとは違う、そう言っただろ?」
聡には衝撃だった。痛みに呻くことも忘れている。反撃する間もなく、動きを封じられたのが信じられないようだ。それよりも、背後から顔を寄せられ、甘さの増した声音で悠然と教えられたことの方に、驚愕していたのかもしれない。
「おまえ、俺の葵なんて言っていたが、すぐそこに、クソ生意気なそいつがいるってこと、わかってないよな?」
騒ぎを眺める生徒達にも驚きだった。ざわめきが大きくなったが、葵が省吾と一緒に騒ぎの輪から離れた場所にいるのを目にし、静まって行く。興奮の真っただ中にあって、周囲の様子を探ろうとは、誰も思わない。わからなくて当然ということだ。
葵と省吾が人の視線の及ばない隙間に立っていたことは、生徒達には知りようがない。見せようという二人の意志があって、初めて目にすることが出来たとは思いもしない。眷属が寄生する仲間にはわかっていたが、二人が遅れて来た理由を思い、敢えて無視をしていた。コウにリク、田中に井上、翔汰で頭を一杯にするメイでさえも、容赦ない聡の言動に潜 む仲間の〝それ〟へと意識を向けていた。
聡に寄生する〝それ〟にも、仲間の意識がどこにあるのかを知るのは簡単だった。実際、かわい子ちゃん以外の仲間が、一切 何も手出ししないことには気付いていた。しかし、葵と省吾の存在には気付けなかった。
葵を半身として扱い続けたことが、聡に寄生する〝それ〟の感覚を鈍らせた。血に棲むものの欠片であることを、強く否定する人らしい感情に迷わされたのだ。主人への妬みと憎しみが〝それ〟を狂わせたのだと、葵にはそう思えた。
省吾が同じようなことをしようとしている。聡に寄生する〝それ〟に同調し、人らしい感情に刺激されたかのように葵の肩に腕を回して来る。違いを言えば、わかっていながらしているところだ。
「やめろ」
「俺のものだと見せ付けないとね」
「クソがっ」
葵がむっとした顔で肩に回された腕を払い落としても、省吾の態度は変わらない。物柔らかな口調で楽しげに続けている。
「うーん、それなら、キスでもいいけど……」
省吾には悪戯を面白がる子供のようなあどけなさがあった。余裕で聡をからかっている。そういった省吾を可愛いと思う自分が、葵には悔しくてならなかった。腹立たしさに、薄茶色の瞳にも金色の光が瞬 く。その瞳で省吾をひややかに睨み付けた。
「……無理みたいだね」
「ったりめぇだ、ふざけてんじゃねぇぞっ」
葵が口調を荒らげても、二人の仲は疑いようがない。わざとらしい省吾の冗談が、かえって二人の関係を見せ付けていた。
「だな」
かわい子ちゃんが口元を歪めて、二人の話に割り込んで来る。
「クソ生意気な美人と意見が合うなんてな、最悪だぞ……」
葵とは馬が合わないままにしておきたかったのだろうが、諦めたように男らしい響きで言葉を繋げた。
「……ったく、ふざけてんじゃねぇぞ、省吾」
〝それ〟の思いが悲痛な叫びとなって、聡の口から漏れ出ている。意味のない慰めでも、かわい子ちゃんなりに〝それ〟の気持ちを思い遣った。
「嘘だ……嘘だ!」
互いに存在を求め合う半身との繋がりは絶対に切れない。主人の欠片と溶け合おうが、引き裂けはしない。固く信じた思いが、妖艶な響きで人を魅了する掠れ声に溢れていた。
「だって、まだ……!」
何がまだなのか、葵にはわかる。平易で葵らしい言い方をすれば―――アホたれな省吾のバカでかい身長を超すまではお預けだ―――となるが、葵には口が避けても言えないことだった。それで答える代わりに首を横に振った。
聡との距離が縮まることはない。二学期に先送りしたのも、その為だった。幾ら話し合おうが、聡は理解しないだろう。理解させようとも思わなかった。
〝離れたらそれで終わり、元には戻らない〟
葵は胸に響く声に頷いた。
「ってことで……」
かわい子ちゃんが男臭く声を低めて言った。〝それ〟が抱 えた千年にわたる蟠 りを、強制的に終了させようというのだろう。聡にも伝わったのは、天使の顔を悪鬼の形相へと変えたのでわかる。かわい子ちゃんは笑っていた。愉快でたまらないとばかりに続けて行く。
「……こいつの始末は、俺が付ける」
かわい子ちゃんは言うが早いか、聡の体をくるりと回して、みぞおちにパンチを食らわした。
「ぐふっ……!」
聡は瞬間、パンチの威力を和らげようと息を吐いたようだが、かわい子ちゃんのパンチは相当なもので、思わず呻いて体を前のめりにする。その動きを待って、かわい子ちゃんが動いた。すっと腰を屈めたかと思うと、次には土嚢 を運ぶかのように聡を肩に担いで立っていた。
「てめっ!」
聡がどれ程暴れようが、かわい子ちゃんからは逃れられない。
「フニャチン野郎がっ!腐れインポのくせしやがって!偉そうにすんじゃねぇ!」
凄まじい罵倒にも、かわい子ちゃんは平気の平左 だ。バシッと聡の尻を叩き、黙らせる。それも一瞬のことで、罵倒は続く。体育館を出たあとも、遠く離れるまで、周囲には聡の罵声とかわい子ちゃんの尻を叩く音が響き渡っていた。
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