150 / 154

第四部 36-3

 葵は従兄弟のかわい子ちゃんと聡が巻き起こす騒動をよそに、体育館の奥へと歩き出していた。生徒達の視線が及ばない隙間を歩く必要はなかった。足音を忍ばせればそれでいい。生徒達の代表格とも言える翔汰の声を聞きながら、葵の足は彼らの意識とは反対の方角へと向かうのだった。 「メイ先輩」  我がままな子供の扱いに長けているだけあって、翔汰の奮闘は穏やかだ。 「僕にいつまでも抱き付いてちゃダメだよ」  見るからに小柄で非力な翔汰が、男らしさを強調するかのような口調で、無駄なく滑らかに発達した筋肉による(いまし)めを解かせようとする。 「藤野先輩がちゃんと収めたからね、だからもう怖くないでしょ」  メイはそれを理由に翔汰を抱きかかえ続けていたようだ。まだ甘え足りない子犬のような可愛らしさで、しゅんとして見せても、翔汰に早く早くと()き立てられては動くしかない。犬のふりをする狼にも、限界がある。引き際を間違えては、全てを失う。メイにもわかっていることだった。  翔汰の目的は他にあった。その邪魔をすれば、間違いなく嫌われる。情け深い翔汰の性格では、すぐに許されるだろうが、短期間だとしても、キャッキャキャッキャさせてもらえないことになる。我がまま王子のメイも引くしかなかった。  学園をこよなく愛する翔汰は、長い歴史を彩る裏の話にも興味津々だ。学園の歴史に公式的には記録されない事柄の、まさにその瞬間に立ち会えた喜びに興奮していないはずがない。聡を肩に担ぐかわい子ちゃんの後ろ姿を、最後まできっちりと、瞳に焼き付けて置かなくてはならない。それにはメイの大きな体が目障りだった。  葵がちらりと視線を流して確かめると、案の定、邪魔臭そうにメイを押し遣ったあと、キラキラした瞳で、かわいこ子ちゃんを見送っていた。またぞろ、聡の罵倒を(ひょう)にしそうな雰囲気だが、強烈な印象を残した聡に、他の生徒達も気持ちを高ぶらせている。元々の原因である優希のことは、誰も気にしていない。葵の足が優希へと向かおうが、同じことだった。  優希にすれば、対戦相手の聡を、かわい子ちゃんに()(さら)われたようなものだ。必死な思いも行き場を失くした。胸に残るのは苛立ちしかない。優希は拳にした手の先で、ぐいっと乱暴に鼻血を拭っていたが、やはり省吾の弟だけのことはある。侮れない。優希の視線はしっかりと葵を捉えていた。 「あんた、根性あるよな」  葵のその声に、生徒達の関心がざわめきと共に、再び体育館の中へと戻った。葵はそうなるようわざと声を大きくしたが、次なる騒ぎを期待する生徒達の眼差しには苦笑を漏らす。田舎の物知りな長老達なら、こう言うだろうと、葵は思った。 〝芝居(しばい)蒟蒻(こんにゃく)(いも)南瓜(かぼちゃ)ってな、女子供じゃあるまいに、そんなにうまいか?〟  そう皮肉めいた気分で笑っても、生徒達のことは大切だった。守らなくてはならない。優希もその一人と思い、さらに声を大きくして話した。 「聡はさ、あんな柔な顔してっけど、(つえ)ぇんだ、それも並の強さじゃねぇぞ、はっきり言って、あんたじゃ、どう頑張ったって勝てやしねぇよ……」  優希の少し手前で立ち止まり、翔汰と比べて気持ち大柄な優希に笑い掛ける。対等を思わせる絶妙な間合いが、優希にも見えたのだろう。顔付きをきつくしながらも、葵と向き合う。葵は優希に応えるように頷き、言葉を繋げた。 「……あんた、わかってて、向かって行ったよな?」  葵が何を言うつもりなのかは、省吾には伝わっていた。共鳴でも交信でもない。愛する者を理解するが故に気付けることだ。葵は省吾の嫌そうな顔を感覚で捉えながら、楽しげに優希へと話し掛けていた。 「俺が言いたいのはさ、あんたのこと、臆病者っつたけど、取り消すってこった。ホント、悪かったよ。てか、あんたの兄ちゃんも、おんなじこと、言ってたぜ」 「あいつ……兄さんが?」  優希にしても(にわ)かには信じ難いことだろう。兄弟の初めての会話が、食堂での騒ぎの帰りにした哀れな言い合いだと、省吾も話していた。葵は確かだと優希にも悟れるよう、口調を強めて答えることにした。 「ああ、あんたの兄ちゃんさ。まっ、あいつは俺と違って(ひね)くれてっからな、素直にゃあ言わねぇよ。あんたが喧嘩するなんて面白いっつたのさ。なんかさぁ、あんたら兄弟、捻くれ具合、そっくりじゃねぇか?だから、あいつが言おうとしたこと、あんたにもわかんだろ?」  周りのざわめきがすうっと消えた。生徒達にも信じられないのだろう。それでも恐ろしくて、省吾へと問い掛けるような視線を向ける勇気がない。翔汰にはそういった懸念は一切なかった。ぱっと笑って、大好きな先輩へと顔を向けている。晴れやかな笑顔には〝僕の先輩はやっぱり凄い!〟と書いてあった。メイにはそれが裏切りに思えたようだ。さっと動いて翔汰の前に立ち、その大きな体で視界を遮る。 「メイ先輩、どいてったら、先輩が見えないよ」 「翔汰の瞳は俺のものだ」 「ううん、僕の瞳は先輩のものだ!」  きりりと返され、メイが悔しいとばかりに喚き出した。キーキーと訳のわからないことを叫び出し、翔汰も生徒達も、耳を塞いで顔を顰める。彼らの意識はメイへと集まり、偶然だとしてもいいタイミングだと、葵は心の中で翔汰に感謝した。 「でさ、あんたに相談がある」  葵は優希の肩に腕を回して、有無を言わせず引き寄せた。内緒話をするように顔を寄せ、囁き声で話を継ぐ。 「明日からの球技大会なんだが、中等部で優勝しねぇか?」  優希には思いも寄らないことだった。一瞬、平凡な顔立ちが聡にも増して可愛く見える程、あどけなく(ほう)けた。すぐに自分を取り戻したのは、さすがだと、葵は思う。優希は表情を消し、静かに答えていた。 「おまえが決めたのなら、みんなは従う。兄さんがそれを許すならね」  優希の口調には朧気(おぼろげ)ながら悲しみを感じさせる。常に勝者であろうとした自分を哀れんだのかもしれない。どう足掻(あが)いても、省吾には勝てない。葵の耳にはそう聞こえていたのだった。

ともだちにシェアしよう!