152 / 154

エピローグ 1

 春四月―――。  翔汰は学園本部のエントランスホールへと続く石畳の途中で立ち止まった。顔を上げ、一年余りを掛けた改修工事の末に、創立当時の威厳を取り戻した壮麗な建物に目を向ける。 「明日は入学式だ……」  翔汰にはそちらの方が大切なのだが、学園長という立場上、関係者を招いた改修披露パーティーも(ないがし)ろには出来ない。あと少しすれば、準備を担当する職員や教師、生徒が登校して来る。すぐに騒がしくなるだろう。その前に、一人で静かに眺めたいと、誰にも告げずに早めに来ていたのだった。 「変えてはいけないものもある、これはその象徴なんだ……」  周囲の様子は随分と変わった。時代の変遷にならって、街並みも機械化された煌びやかな雰囲気に溢れている。便利ではあるが、翔汰が通っていた当時の思い出は消されて行った。  『鳳盟学園』もその例に漏れず、老朽化した建物を取り壊し、より充実した設備の未来的なデザインに建て替えるという計画が、数年前から持ち上がっていた。それを一昨年、学園長に就任した翔汰が改修へと変更させたのだった。 「……何もかも、理事長である蜂谷君の功績だけれどね」  翔汰は妙な縁で、義理の兄弟となった優希を思った。あの誇り高い優希が、まさか、我が道を邁進する一風変(いっぷうか)わった姉と結婚するとは思わなかった。  世間では、翔汰が優希に姉を紹介したのが縁で、付き合いが始まったことになっているが、葵と省吾が二人を引き合わせたのだと、翔汰は思っている。あの日、あの時、葵と省吾が蜂谷家所有の山で行方不明になっていなければ、優希が姉と出会うこともなかった。翔汰の記憶には、それが真実と、深く刻み込まれている。  忘れもしないことだ。あの年に限って、省吾は自分の誕生日を、葵と二人だけで祝いたがった。蜂谷家所有の山へキャンプに行くと言い出したのも、そのせいだ。個人所有である為に、手付かずの自然が多く残り、奥深くには小さいながらも絶景の滝がある。神々しいまでの眺めという滝に、本気で興味があったのかどうかはわからないが、それを見せたいと言って、葵を誘った。  省吾は大学院生だった。葵も同じ系列大学に通っていた。学園の卒業生の殆どが進学している大学で、学部は違ったが、翔汰も同じ大学の学生だった。  二十歳になっていた葵は、美しさにも磨きが掛かり、それはもう、うっとりする程の艶やかさだった。肩に掛かる髪を頭の天辺(てっぺん)で団子型に結び、スウェットの上下にビーチサンダルと、三つ巴の気色悪いゾンビ映画の頃から葵の装いに変化はなかったが、類い稀な美貌は輝きを増し、誰もがその顔だけを見詰めて、溜め息ばかりを吐いていた。それも喋らなければだ。オヤジ臭さにも磨きが掛かり、葵に(いだ)かされた幻想も瞬時に霧散したものだった。 「先輩もそんな感じだったかな……」  翔汰は大好きな先輩を思い、昔のように気持ちを弾ませた。大学院生になっても、省吾の優美さはそのままだった。そうとしか言いようがないくらいに、清爽として気品に満ちた省吾の容姿は素晴らしかった。装いや物腰に大人の落ち着きと色気も加わり、誰しもが憧れと尊敬をこじらせて、悶え苦しんでいたものだ。その様子に、葵だけが顔を顰めていた。 〝省吾のアホたれ……〟  葵はいつも省吾のことをそう呼んだ。大好きな先輩をアホたれ呼ばわりしないで欲しいと言った翔汰には、同級の蜂谷と区別する為だと、もっともらしい顔付きで答えていた。 〝おいおい、委員長さ、わかってねぇなぁ。蜂谷が二人いんだぞ、言い方を変えねぇと、困んだろ?あいつら、アホたれ兄弟なんだしさ、省吾のアホたれに蜂谷のアホたれ、わかりやすくていいんじゃね?〟 〝だから、どっちにも、アホたれを付けなきゃいいんだよ。アホたれ兄弟なんて、お笑いコンビみたいじゃないか〟  あの時、翔汰は自分で言っておきながら、舞台に立つ蜂谷兄弟を想像してしまった。瞬間、ぷっと笑いが込み上げた。大好きな先輩を思って、笑わないよう必死でこらえたが、葵は気にしない。 〝お笑いコンビだぁ?〟  葵は最高だと言って膝を打ち、大口を開けて笑った。 〝さすが委員長、言うことが違うねぇ。ボケとツッコミ、どっちがどっちだか、わかんねぇくらいに、二人してむすっと、ただ突っ立ってそうだが、そこはアレだ、いい具合んとこで、アホたれ兄弟でぇーす、っとでも言わせりぁさ、それだけで客は大笑いだぞ〟  翔汰は大好きな先輩への忠誠から必死に耐えたが、最後には葵と一緒に笑ってしまった。その〝省吾のアホたれ〟の願いを、葵は大切にしたのだ。 〝誕生日のプレゼントなんて、そこら辺にあるもんで十分だろ。なのに、あいつ、キャンプなんて面倒なこと、言い出しやがってよぉ〟  昼休みに、食堂で待ち合わせた時に、その話を聞かされた。翔汰はそれなら一緒に連れて行ってもらおうとした。仲間も誘って、大勢で祝おうと言ったが、葵に軽く笑うようにして断られた。それで少しむくれたのだ。 〝僕も行きたいよ、滝、見てみたい〟 〝今度な。ちゃんと見せてやるって、約束するぜ〟  葵は楽しげだったが、ほんの少し口調を固くして話を繋げた。 〝省吾のアホたれが、今年はどうしても二人だけになりたがってさ、あいつの誕生日だし、あいつの顔を立ててやらねぇとな〟  二人が付き合っているのは、公然の秘密だった。だからという訳ではなかったが、いつも仲間が側にいて、二人きりで過ごすことは余りなかった。  葵も楽しみにしていそうなのを見て、翔汰は諦めた。今度という約束を固くしてから、葵と別れた。休み明けには帰って来る。その時には田中と井上も誘って、キャンプの話を聞こうと思っていた。そして世話好きらしく、約束の予定を立てようと考えていた。普段通りの慣れ親しんだ日常が続くはずだった。しかし、二人は戻らなかった。  予報では晴天だったが、急な天候変化で、台風のような大雨が局地的に降った。滝の周辺に集中して降り、そこは二人がキャンプをすると言っていた場所だった。  捜索を続けているあいだ、二人の祖父は疲れた様子だったが、寄り添い、慰め合っていた。省吾に代わって事業を仕切っていた母親が、捜索の指揮も取っていたが、次第に規模を小さくし、一月(ひとつき)程で打ち切った。誰も抗議をしなかった。それが翔汰には許せなかった。翔汰は泣き腫らした顔で思っていた。 〝僕は諦めない。篠原君は、先輩は、生きている〟  翔汰は示威するように部屋に閉じこもった。田中と井上が来ても会わず、メイにはドア越しに怒りをぶつけて追い返した。 〝メイ先輩は平気なの!何もしないなんて、大っ嫌いだ!〟  メイは翔汰に嫌われたと、泣き叫びながら帰って行った。打つ手がなくなった彼らが最後に頼ったのが、優希だった。  それが優希と姉の出会いになった。妙な縁と思うのもわかるだろう。部屋から出るよう翔汰を説得しに来たはずの優希が、そのことを忘れたように、出迎えた姉と玄関先で言い争いを始めたのだ。二人の怒鳴り合う声は、翔汰の部屋にまで届いた。翔汰はびっくりして、思わず部屋を飛び出していた。 〝どうしたの?〟  翔汰の声に、二人は同時に翔汰へと顔を向けていた。 〝僕の言った通りだろう?〟  優希はにやりとし、姉を悔しがらせていた。翔汰を部屋から出すのには、世話焼きな性格を刺激すればいい。そう姉を(そそのか)したのだと、あとで教えられたことだ。  唆すまでもなく、姉は激怒した。傷付いた心を馬鹿にするのかと、怒りに任せて声を張り上げたのだ。弟をいじめていたのも知っていると、翔汰本人も忘れていたことを持ち出して、優希を非難した。  優希も黙ってはいなかった。弟を妹扱いするような女に言われたくないと、心持ち声を大きくして、ひややかに返したのだが、〝女〟と切り捨てるように言ったその一言が命取りになった。姉の怒りが爆発し、あとは売り言葉に買い言葉で、二人して何を怒っているのかもわからなくなっていたと、これもあとで教えられたことだった。  翔汰の紹介と言われるせいで、二人の馴れ初めをよく聞かれる。正直に、その時のことを話すが、誰も信じてくれない。それ程に、付き合いを公にしてから今日まで、本当に二人は仲がいい。  そうした奇妙な騒ぎがあって、部屋から出るしかなかった翔汰に、優希はこう言った。 〝悲しみ方は人それぞれだ、おまえだけが悲しんでいると思うな〟  それだけ言って帰って行った。翔汰は翌日にはまた大学へと通い出した。その日から、四十年近くが過ぎている。

ともだちにシェアしよう!