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第11話
レイがアポイントメントを取っておいてくれたお陰で、リチャードはコートールド・インスティテュートのラボの責任者に、すぐに面会出来た。責任者の白衣を纏った若い女性は、リチャードが手渡した額を手に取ると、裏と表を交互にひっくり返して簡単に検分し「これは『トリノの聖母子』と呼ばれる、初期イタリアルネサンスの絵画ですね」と言った。
――初期イタリアルネサンスと言えば、レイの専門じゃないか……
リチャードは、絵を見ていた時のレイの様子を思い出した。彼の専門分野の絵であれば、一目見て贋作だと見破っても不思議ではない。
「15世紀の作品で、トリノの裕福な商人が依頼して描かせた為に、その名が付いています。残念ながら作者名は不明ですが、ピエロ・デッラ・フランチェスカの弟子の一人ではないかと言われている人物が描いた作品として知られています。……確か、この絵は個人の収集家のコレクションだったかと思いましたけど……」
流石本職なだけあって、絵を見ただけで情報がすらすらと出てくる。個人の収集家の名前までは出さなかったが、彼女がローゼンタール家を指しているのは間違いなかった。
「オークションに出されたんですが、どうやら贋作らしいので調査して欲しいんです」
「ああ、先日のクラレンスのオークションに、こちらも出品されてたんですね。丁度ホリディに出かけてたので、見逃してました」
彼女は苦笑した。そう言われてみると、この時期にしては、こんがりと肌がいい具合に焼けている。スペインか南仏にでも、旅行へ出かけていたのだろう。
一通り説明を受けた後、彼女に絵を託すと、リチャードはMET庁舎へ戻る前にレイのギャラリーへ寄ろうと決めた。今までに見たことがない彼の様子が、どうしても気になる。
――絵を見てからだ……レイの様子がおかしくなったのは。
リチャードは、あの絵に何かしらの秘密があるに違いない、と思った。だが、その秘密がまったく分からない。絵の専門家であれば、何かしらのヒントを得られるのであろうが、アートに関してはまったくのド素人だ。どうにも出来ない無力感がもどかしい。
ギャラリーまでバスで行っても良かったが、気が急くのでまたブラックキャブを拾った。
「ホワイトキャッスルストリートまで」
そう言って、キャブに乗り込む。
ぼんやりとレイのことを考えながら、流れゆく車窓の風景を眺める。キャブの運転手は、ロンドン市内の全ての道を知り尽くしている。そうでなければ、運転手の資格を得られないのだ。だが、幸いなことにコートールド・ギャラリーから、ホワイトキャッスルストリートまでは、一本道の簡単なルートである。運転手は何も難しいルート考える必要がないので、楽な道のりだった。道が混んでいなければ、10分ほどで到着する程度の距離だ。
リチャードは、外をじっと無心のまま見つめていた……その時だった。彼は想像もしていなかったものを見て驚く。
――レイ?
キャブは赤信号で、都合良く止まってくれる。
反対車線の向こう側、レイはグリーンのファサードが印象的な、真新しいギャラリーの前で、誰かと立ち話をしていた。
立ち話の相手は、背が高いブルネットの男性だった。年の頃はリチャードと同じくらいだろうか。高級そうなスーツを、スマートに着こなしている。
スーツの男性は、馴れ馴れしくレイの肩を抱くと、連れだってギャラリーの中へ消えていった。
――な、何だ……あの男。
信号が青に変わり、車が動き出す。数秒間リチャードは思考を止めていたが、すぐに我に返り、運転手に声をかける。
「悪い、MET庁舎に行き先を変更してくれ」
「分かりました」
リチャードは、口元を右手で覆う。手が緊張で震えていた。
――レイ、あの男は誰なんだ……
何も言わずに走り去ったかと思ったら、自分の知らない男と親しげに話をしていただなんて、一体どういう事なのか……ブルネットの魅力的な顔立ちの男性が、笑顔でレイの肩を抱く姿が目の前をちらつく。
――きっと、何か理由があるに違いないんだ……
リチャードはそう思って、レイを信じようとした。
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