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第25話

9.  ロンドンでホワイトキャッスル・ギャラリーのビジネスを始めた時、僕はまだ大学に在学中だった。当時オックスフォード大学で、美術史を勉強していたんだ。専門は初期イタリアルネサンス絵画。昔から宗教画を見るのが好きだったから、この選択は当然だった。  ギャラリーはその頃、従兄弟のローリーに全て任せていた。彼は大学院を卒業後、コートールド・インスティテュートで一年勉強して、その後は何もせずにぶらぶらしていたから、僕の誘いは丁度良かったんだ。そもそも、彼は何もしなくても暮していけるぐらいの財産家だから、全然働く必要なんてなかったんだけど、僕がギャラリーの仕事をお願いしたいって頼んだら、店番ぐらいならいつでもやるよ、ってすぐに引き受けてくれた。彼にとってギャラリーの仕事は、暇つぶしに持ってこいだったんだ。  僕は警視総監である叔父さんに頼まれて、すでにAACUのコンサルタントにも就任していたけれど、当時はまだ準備室の段階で、正式発足まで至っていなかったから、呼び出される用事もほとんどなかったし、当然事件に関わるような機会も、この頃はまだなかった。  大学を卒業した後、ロンドンに戻ってきて、いよいよギャラリーの仕事を……となった時、僕には一つ気に入らない事があった。  それはすでにこのギャラリーの運営は、全てローリーの差配に置かれていて、僕が入り込む余地がなかったんだ。  このギャラリーは僕の物なのに、それなのに、自分の好きに出来ないのは何故? ってローリーと何度も衝突した。  彼は「きみが僕に経営を任せてたんだろう? 僕が一からギャラリー経営について、レイに教えるって言ってるのに、どうしてそんなに反抗するんだ」と偉そうに言った。  確かにローリーの言う通りだっただろう。  でも当時の僕は若くて、何も知らなくて、傲慢な人間だったんだ。  ある日いつものようにローリーと口論になって、悔しくて堪らなくてギャラリーを飛び出した。  飛び出して街をぶらぶらしているうちに、ふいに一軒のギャラリーが目に入ったんだ。どうしてそのギャラリーが気になったのか理由は分からない。フィーリング、みたいなものだったのかな。何故だったんだろう……? 改めて考えてみるとどうしてなのか、全然分からない。店構えとか、雰囲気とか、そんな感じのあやふやなものに惹かれたんだ。僕は迷わずにドアを押して、店の中に入った。  中に入ると、今時こんな絵誰が買うんだろう、って思うような三流の印象派の絵が、壁にたくさん掛けられていた。  だけどその中に一点だけ、何故か初期イタリアルネサンスの宗教画が展示されてたんだ。  無名の画家の絵だった。  僕は全然知らない絵で、初めて見る作品だったけど、どこか強烈に引き寄せられる魅力があって、随分長い間その絵の前に立っていたと思う。  それは聖母マリアが、天使から受胎告知を受けている絵だった。  天使の羽の白さと、跪く聖母マリアの纏う布の青い色のコントラストがとても美しくて、僕はその絵に引き込まれた。 「この絵が好きなのかい?」  突然後ろから声をかけられて、僕はゆっくりと振り返る。  背の高いブルネットの男性が立っていた。 「初期イタリアルネサンスの絵だ。マサッチオの影響が見られるが、これは本人でも弟子でもない。歴史に名を残せなかった無名の画家の絵だ。歴史に名前を残せるか、残せないか、本人の技量にもよるが、運の良し悪しも関係していると思わないかい? この画家は運がなかった。だが、そんな画家の絵でも見る人間によっては、素晴らしい価値がある一枚なんだ。そんな絵を扱える仕事が出来るなんて、僕は幸せだと思うよ」  僕は彼の言葉に共感した。  それこそまさに、僕が目指していたディーラーとしてのあり方だったから。 「ジュリアン・テイラー。ここのギャラリーのオーナーだ」  そう言って彼は右手を差し出す。僕は軽く握り返して「レイモンドです」と言った。苗字を言わなかったのは、言ったら自分の素性が明らかになると思ったから。同業者が何も用事がないのに、よその店で絵を見てたなんて、一歩間違えたらスパイか嫌がらせに来てると思われないか、とその時急に不安になったんだ。

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