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第35話

 僕は思わず立ち上がって、呆然と彼を見つめていた。何故? どうして? どうやって、ここに僕がいるって分かったんだろう? 頭の中は疑問符で一杯になった。  ジュリアンは僕の姿を認めると、にっこりと優しい笑顔を浮かべて「開けて」と口を動かした。僕はまるで魔法に掛かったみたいに、ドアを開けていた。開けちゃ駄目だ、って分かってたのに。  彼は入って来るなり、ギャラリーの中をぐるりと値踏みするように見回して、デスクの前まで歩み寄ると、冷たい目付きで僕をじっと見た。 「レイモンド・ハーグリーブス。驚いたよ、きみが新進気鋭のギャラリーオーナーだったなんてね。僕の仕事のやり方を盗んで、どうするつもりだったんだい? 僕を馬鹿にしていたのか?」 「ち、違う……違うんだ……僕はあなたのディーラーとしての理想像に惹かれて……仕事についてあなたから色々教えて欲しかったんだ」 「ふうん。殊勝なことを言うんだね。僕は騙された挙げ句、ビジネスのイロハまできみに伝授してあげて……それで見返りは何もなしだったのに?」  彼は悔しそうな顔をして言う。 「そうだレイモンド、僕が今日ここへ来たのは、ちゃんと理由があるんだよ。何も愚痴を言いに来た訳じゃない。きみがしでかしてくれた大失敗についての報告だよ」  ジュリアンはそう言うと、冷酷な笑みを口の端に浮かべる。 「きみが購入してきた『トリノの聖母子』、あれね、贋作だったんだ」 「え?」  僕は固まった。全身の血がまるで凍り付いたような感覚を味わっていた。 「贋作?」  僕は馬鹿みたいに、呆然とジュリアンを見つめていた。 「そう。あんな一目見て分かるような贋作、どうしてきみが分からなかったのか、僕も不思議で仕方がないよ。依頼されていた顧客にはもう購入してしまった、と伝えてあるのに、どうしてくれるんだ? 今更『贋作でした』って言えないんだよ。僕の評判ががた落ちだ。この業界で二度と商売出来ないようにするのが、きみの目的だったのか?」 「ち、違う。そんなつもりじゃ……」 「そんなつもりは全然なかった? 実際きみはしでかしてくれたんだよ。一体どう落とし前を付けてくれるつもりなんだ?」 「ご、ごめんなさい……」  僕は俯いた。まともに彼の顔を見られなかった。  やっぱりあの初見時に感じた違和感は間違っていなかったんだ、と後悔の念で一杯だった。  だけどあの時は、ジュリアンに良いところを見せたくて、褒めて欲しくて、ただそれだけを考えていたから、まさか絵が贋作だったなんて、思いもしなかった。ただ早く商談を上手くまとめて彼に報告しなくちゃ、という思いだけで動いていた。  今更ながら、僕は自分の浅はかさに腹を立てていた。

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