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第36話
ジュリアンは、黙って俯いている僕の両腕を掴むと「僕のお願いを聞いてくれるなら、全部許してあげてもいいよ?」と猫なで声で言った。
僕は顔を上げて彼を見る。ジュリアンは冷酷な表情で僕をじっと見ていた。
「お願い……って?」
「そんなの決まってるだろう? レイモンド、僕に何度同じことを言わせるんだ? きみが大人しく僕のものになる、って言ってくれれば、もうそれだけでいいんだよ。きみが僕にしたことは全部忘れてあげるし、僕はきみだけを可愛がってあげる。……こんなにきみに有利な交換条件は他にないだろう?」
僕はゆるゆると頭を左右に振った。
彼の言うなりに、彼のものになるつもりは更々なかった。例え僕の失敗が彼を破綻させたとしても、やはりそれとこれとは別問題だと思っていたから。
「この期に及んで、まだ拒否するつもりなのか?」
ジュリアンの声のトーンが変わる。今までのような優しさが消えて、冷たい口調になった。
「……嫌だ」
僕がそう一言口にした途端、ジュリアンは「この跳ねっ返りが。言う事を聞けよ」と言って、思い切り僕の頬を平手打ちした。
目の前に火花が散ったような感覚がしたと思うと、すぐに冷たい床の感触が背中に広がる。気付くと床に倒れていて、ジュリアンが僕の体の上にのし掛かっていた。
「あんまり言う事を聞かないのも、考え物だな、え?」
「や、止めてよ……」
僕は思うように動けなくて、形ばかり抵抗する。頬はじんじんと熱いし、倒れた時に床に打ち付けた肩がひどく痛んだ。
「いい加減、僕の言う事を聞くんだレイモンド。……きみの気持ちは無理でも、体は僕を簡単に受け入れてくれるんじゃないのか? 試してみようか?」
ジュリアンは僕の首筋を舌で一舐めした。全身にぞっと悪寒が走る。そして彼は僕の下半身に手を伸ばした。
「やだっ、やだってば」
「きみの体は嫌がってないよ?」
彼の手がジーンズのジッパーを開けて、中に入り込んでくる。僕はパニックに陥っていた。
「……レイモンド、いい表情だよ。もっと顔を良く見せて?」
「あっ……や、止めて……お願いだから」
僕は彼の顔を見たくなくて、ぎゅっと両目を瞑った。彼の手はすでにジーンズも下着も器用に引きずり下ろしていた。
「一度僕を知ったら、もう他の誰も欲しくなくなるから」
もう駄目だ、ってそう諦めた時に、突然呆れた声がギャラリーの中に響き渡った。
「僕の神聖な職場で、淫らな行為をしないで貰えます?」
ジュリアンが驚いて身を起こし、振り返る。そこにはローリーが立っていた。
「それと、あなたが今組み敷いているそこの人、僕の雇い主なんであんまり乱暴しないで下さい。看板娘を傷つけられたら困るんです」
「なんだ、お前……?」
「言ったでしょう? 僕はここで働いてるんです。従業員ですよ」
「従業員風情が、偉そうな口を利くなよ。僕たちはお楽しみの最中だったんだ。きみも雇い主を思うんだったら、遠慮して外でしばらく待っていてくれないかな?」
「僕が見たところ、お楽しみどころか、彼は相当嫌がってますけど」
ローリーは一歩も引くことなく、ジュリアンに言い返す。
ジュリアンは眉間に皺を寄せて、立ち上がった。僕は慌てて半身を起こすと、下着とジーンズを引き上げる。
「従業員くん、嫌よ、嫌よも好きのうち、って言葉知らないのか?」
「知りませんねえ。嫌なのは嫌なままだと思いますけど? あんまり僕の言葉をまともに聞いて頂けないようでしたら、警察に通報しますよ? 相手の同意がない性行為は犯罪、ですよね?」
やんわりとそう言ったローリーは、右手に持った携帯電話を見せつけるように、ジュリアンの目線に上げる。
「そう来たか……仕方ない、今日の所はこれで退散するけど、また来るからな」
ジュリアンは悔しそうに捨て台詞を残すと、ギャラリーを出て行った。
その様子を見届けたローリーは、僕に視線を戻すと「大丈夫か?」と声を掛ける。
「……うん」
「レイ」
「何?」
「口の端、切れて血が出てる」
僕は手の甲で口の端を拭った。甲にべったりと血が付いている。今まで気付いてなかったけど、口の中も血の味で一杯だった。
「……Fuck(くそったれ)」
僕は口汚く罵って俯いた。
血の味はすごく苦くて、それは自分が犯した不名誉な失敗の味でもあった。
僕は黙ったまま床に座り込んでいた。肩はずきずきと痛むし、落ち着いてくると背中も腰も倒れた時にぶつけたらしくて、鈍い痛みを感じていた。
「レイ、紅茶かコーヒー淹れようか?」
「……コーヒーにして。ミルク抜きで濃いの」
「了解」
彼はバックオフィスに入っていった。
僕はやり切れない思いで、もう一度口の中で小さく「Fuck……」と呟いた。
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