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第56話

「あの日、あの男はトリノの聖母子を持ってギャラリーを訪れました。彼は自分のところの見習い店員に卒業試験をするにあたって、一役買って欲しい、とアルフィーに仕事を持ちかけたんです」 ――やはり、例の卒業試験の件だったのか。  リチャードには、何となく話の先行きが分かりかけていた。  アキはまるで独り言のように話を続ける。 「アルフィーはずっと、画家になりたがっていました。子供の頃から絵を描くのが好きだったそうです。僕とはロンドンのアートコレッジで出会いました。クラスメイトだったんですよ。僕は英語が下手でクラスでは、いつも浮いた存在でした。そんな僕に唯一話しかけてくれたのが、アルフィーだったんです。彼は本当に絵が上手くて……僕は彼の絵を見て、自分には絵を描く才能がない、と諦めがつきました。卒業してしばらくの間は、彼は絵を描いて、細々と生計を立ててました。アルフィーは自分の意思で画家をしているので、実家からの援助は頑として受けようとしなかったんです。当然、絵画の仕事だけでは食べていけなくて、雑誌のイラストの仕事なんかもしてました。僕はそんな彼と、フラットをシェアして一緒に住んでいたんです。僕はパブのバーマンをしたり清掃員をしたり、絵とは関係のない仕事をしてました。自分に絵の才能がないのを自覚して後は、絵筆を握る勇気が出なかったんです……」  アキは一呼吸置くと、更に話を続ける。 「日々の生活は、決して楽ではありませんでしたが、僕たちは、それでも満足した生活を送っていました。その生活が一変したのは、アルフィーのお父さんが亡くなった、という連絡が入ってからでした。常々彼のお父さんは、アルフィーがギャラリーを継ぐ必要はない、好きなことをしろ、と言っていたのですが、アルフィーはギャラリーを継ぐ決心をしました。ひいおじいさんの代から続く店を、父親の代で終わらせるのが忍びなかったようです。それと画家として、なかなか芽が出ない焦りもありました。僕は正直反対でした。でも彼の意思は固くて……僕は彼がギャラリーを引き継ぐんだったら、僕を雇ってくれ、と言いました。何が出来るかは分かりませんでしたが、彼のサポート役くらいは務まるだろう、と思ったんです。アルフィーはどちらかというと大人しい性格で、アート業界のように癖のある人物が集まる世界では不利でした。案の定、やり手だったお父さんが亡くなった後、次々と顧客が他のディーラーに奪われていきました。店の経営は悪化する一方で、アルフィーは頭を抱えていましたが、どうにも出来ません。お父さんの代から勤めていた頼みの綱のジョンさんも、この頃癌が見つかって、入退院を繰り返すようになってしまい、とても店の一切を頼めるような状態ではなくなってしまいました。もう一人の従業員は、自分のギャラリーのための勉強に南アフリカから来ていただけで、とても頼りになるような存在ではなく、店の経営はアルフィー一人の肩に掛かっていました。そんな時にあの男が店に現れたんです」

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