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02
「……っと、ここだ。333号室」
とある扉の前、立ち止まる志摩。
その言葉に扉のプレートに目を向ければ確かに『333』の数字が記載されていた。
「ここが……」
「齋藤、鍵持ってるよね?」
「うん、ちょっと待って……」
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。すんなり鍵は開いた。
重い扉は防音機能が付いているようだ、解錠したのを確認し、ゆっくりと扉を開く。
瞬間、異様な匂い。
「ぅ……ッ!」
「な、なにこれ……」
生ゴミやらなんやらが混ざったような匂いに目眩を覚えた時。
大きく扉を開いた志摩は呆れたように言葉を失う。
見渡す限りのゴミ、雑誌の山、何かよく分からない機械に空のペットボトルや菓子袋。
溢れんばかり散らかった部屋の中、置き場がなかったようで玄関口に置きっぱなしになっていた俺のバッグを見つけた。
「阿佐美の奴……っ」
恨めしげに吐き捨てる志摩。正直、俺もこれは擁護出来ない。
部屋の明かりを点け、俺と志摩は改めて333号室内に踏み込んだ。
「相部屋になるって知ってるなら掃除ぐらいしろっての、あいつ……」
「ま、まあ……仕方ないよ。知らなかったのかもしれないし」
「知らないとかある? どーせちゃんと先生の話聞いてなかったとかそういうのだって、あいつ」
広い部屋の中、別れるように並べられたふたつのベッド。
来る途中、志摩の話によると阿佐美は元々一人部屋だったという。
ベッドが運び込まれているということは知っていたのか?
分からないが、本人がいないのは間違いないようで。
「阿佐美君……いないみたいだね」
「なら丁度よかったよ、掃除しよう」
「えっ? いいの?」
「今日から齋藤もここで暮らすんだからいいでしょ、ちゃんと掃除してなかったあいつが悪い」
言いながら、ポイポイポイとゴミを拾っていく志摩。
綺麗好きというか、面倒見がいいのだろうか。
仕方ないので俺も一緒に部屋の掃除をすることにしたのだけれど。
散乱する雑誌はどれもコンピューターや機械関係のものばかりで俺にはとても理解できない。
床を這う無数コードにテレビと同じぐらいの大きさはあるパソコンの画面。その左右には名前もわからないような機械が置かれていて。
……この辺は触らないほうが良いかもしれない。
パソコンから離れ、テーブル付近に置きっぱなしになっている空の弁当箱を拾っていく。
中に空の錠剤のようなものもあったが、迷った末捨てることにした。
それにしても、すごい部屋だ。
洋書から始まり娯楽雑誌に動物の写真集、一見ごった返しているように見えるが一つ一つを見てみると嗜好が偏っていることに気付く。
パソコン等の機械関係に強く、犬好き、ゲームも好きなのだろう。洋書の内容は全く分からないが表紙からしてこれもパソコン関係で。
引き籠りでパソコン好きと聞くと一日中パソコンに張り付いてネットゲームをしているようなタイプなのだろうかと偏見を持ってしまうが、正直、不安は拭えない。
仲良くなれるだろうか、こうして部屋を勝手に掃除にしてることで怒られないだろうか。
そんなことを思いながらもテキパキと片付けを進めていく志摩に続いてゴミを拾った時だった。
玄関の扉が開く音が聞こえた。
そして、
「えっと……あの、なにしてんの……?」
掠れた男の声。驚いて振り返れば、そこには一人の私服の生徒がいた。
目元が隠れるくらいの無造作な長い髪に、志摩よりも遥かに高い長身痩身。
「阿佐美、お前部屋汚過ぎだろ」
「志摩、なんで」
「新しい子が来るって知ってるだろ。俺はただ連れてきただけだよ」
「別にお前の部屋に興味ないから」と冷たく突き放す志摩。
どうやら、この人が阿佐美なのだろう。
心なしか顔色が悪いのは俺達が勝手に部屋に上がりこんでいたからか。
「あ、あの……ごめん、勝手に上がっちゃって。あの、俺、齋藤佑樹って言って……その、今日からよろしくお願いします……!」
挨拶しなきゃ、そう必死になったお陰で見事しどろもどろの拙い挨拶になってしまう。
咄嗟に握手しようと手を伸ばすが、阿佐美なる男子生徒は困惑したように俺から顔を逸らした。
「……ごめん」
ごめんってなんだ。
見事空振った手のやり場に困ったまま、俺は暫くその場を動けなくなる。
「え、ええと……」
握手を無視されたショックで暫くその場から動けずにいると、部屋の奥、パソコン周りが片付いているのを見た瞬間阿佐美の目の色が変わった。
「……そこも、触った?」
「雑誌纏めただけだよ。あとゴミを拾っただけ」
「……悪いけど、これ以上触らないでもらえるかな」
「ご、ごめんなさい……っ」
「違うよ」
「志摩、お前に言ってるんだよ」と、一言。長い前髪の下、色素の薄い瞳が志摩を睨む。
……なんだこの空気は、なんとなくピリピリしたものを覚え、やっぱり怒ってるのだろうかと不安になったとき。
不意に、どこからともなく着信音が響き渡る。
服から携帯端末を取りだした阿佐美はそれに出ること無く、そのまま部屋を出ていってしまった。
「ど、どうしよう……」
「気にしなくていいよ、多分、齋藤に怒ったわけじゃないだろうし」
自虐めいたその言葉に、俺は志摩を見た。
それって、どういう意味だろうか。そう、尋ねようとした時。
「これで、齋藤のスペースくらいは確保出来たかな」
俺のキャリーバッグを抱えた志摩はそれをベッドの側まで運んでくれる。
そうだ、今日からここで生活することになるんだ。
先程の阿佐美の様子を考えると居た堪れないが、ここでくよくよしていても仕方がない。
「ここ、使ってもいいのかな」
「いいでしょ、別に。あっちのグシャグシャなのが阿佐美の使ってる奴だろうし」
「こっちもグシャグシャしてるけど」
「……まあいいよ」
なんて、会話を交わしながら俺は荷物を出しベッドに付属してある棚やボードに並べていく。
生憎荷物もそれほど無いのですぐに終わったが。
「これくらいでいいかな」
「多分」
一通り片付けを終え、志摩はその場で伸びをしてみせた。
一応阿佐美の私物らしい机の上や、棚などには一切触っていないが……。
「阿佐美君、怒るかな……」
「片付けてない方が悪いんだよって言ってやればいいよ」
「そんなこと……」
「ふふ、冗談だってば。それに言っただろ、あいつは俺が触ることが気に入らないんだって」
まただ、あの笑い方。
たまに志摩は自嘲めいた笑い方をする。
その笑顔に俺はどう返せばいいのかわからなくなる。
しかしまあ、志摩の言うことも最もだ。気にしたところで仕方ない。
ゴミを纏め、ごみ捨て場なる場所へ捨てに行こうと廊下に出たときだった。
――三階、ラウンジ。
自販機の前で佇む阿佐美を見つけた。
「阿佐美……君?」
そっとその背中に声を掛ければ、微かに阿佐美の肩が揺れる。
「……君は、確か」
「ええと、あの、齋藤……佑樹です」
「……ゆうき君」
名前を呼ばれると、少し、擽ったい。
「志摩は? ……あいつと一緒じゃないの?」
「いや、志摩は部屋だと……俺はゴミを捨てにきただけで……」
「……」
この場合は元々阿佐美の私物なわけだからゴミだとか言わない方がよかったのだろうか。
不安になってちらりと阿佐美を伺えば、対する阿佐美は先程のような冷たさはなく、ただ緊張したような面持ちでこちらを見ていて。
「ええと、あの……」
「さっきはその、ごめん。……勝手に出て行っちゃって。……その、連絡が入ったみたいで折り返し連絡しないといけなかったんだ」
「えっ? いや、別にそんなの……俺の方こそ、勝手に掃除してごめん」
「いや、俺の方こそ掃除させてしまったんだし……ごめんね」
お互いにぺこぺこ謝って、その事に気付いた時、阿佐美と俺は顔を見合わせた。
そして、どちらともなく思わず笑ってしまう。
「ごめん、さっきから謝らせてばっかりで」
「え、いや、その……」
「ゴミ、俺、捨てておくよ」
「……いいの?」
「元はと言えば俺が出したゴミだから。……ありがとう、部屋の掃除は助かったよ」
「あの人たち、ちゃんと片付けないから」と笑う阿佐美。
怒ってなかった、というよりも思ったよりも優しい人だなというのが印象だった。
持っていたゴミをひょいと抱えた阿佐美は「それじゃ」とだけ言い残し、ごみ捨て場へ向かう。
よかった。阿佐美の笑顔に全身の緊張が緩むのを感じた。
迷いながらも部屋に戻った時。
既に部屋には阿佐美も戻っていた。
「お帰り」
そう爽やかな笑顔で俺を出迎えてくれる志摩。
ベッドに腰を掛けた阿佐美はさっきとは打って変わって不機嫌そうな色が濃く出ていた。
言わずもがな、志摩の存在がそうさせているのだろう。
「こっちが齋籐佑樹で、これが阿佐美詩織。今日から同室になるからね」
「さっきは挨拶しそびれてごめんね。……阿佐美詩織。好きに呼んでくれて構わないから」
「……よろしく、ゆうき君」差し出された、白く骨張った手。
それを、おずおずと握り締めた。
「なんかさあ、態度違うよね、阿佐美」
「……なんのこと?」
「別に」
離れる指先。
阿佐美の手は思っていたよりも冷たかったけど、気持ちよかった。
「そういやゆうき君、服の入れる場所分かった?」
「え、いや……」
「あんな汚い部屋で分かるわけないだろ」
「俺、あんま服無いからここ全部使っていいよ」
「本当?」
「うん、使ってもらったほうがクローゼットも喜ぶだろうし……」
途中志摩の野次を無視し、笑う阿佐美は壁際のクローゼットを軽く叩く。
俺も服はあまりないのだが、それでもそうして気遣ってくれる阿佐美が嬉しくて。
「ありがとう、阿佐美君」
「……うん」
笑う阿佐美。
志摩と話している時はなんとなく冷たく感じるが、本当は優しい人なのかもしれない。
柔らかく笑う阿佐美にホッとしたとき。
「……つまんね」
そう、いきなり志摩が立ち上がったかと思った時、そのまま志摩は部屋を出ていってしまう。
「し、志摩……」
咄嗟に呼び止めるが、その時にはもう志摩の姿はなくて。
どうしよう、何か気を悪くさせるようなことをしてしまったのだろうか。
追いかける事も躊躇われ、その場で往生していると一部始終を見ていた阿佐美は小さく息をつく。
「あれは……気にしなくていいよ」
「だけど」
「志摩は、ああいうやつだから」
「変わってないな」と、小さく呟く阿佐美。
でも、怒ってたよな。
せっかくここまで着いてきてくれたのに追いかけなくていいのだろうかと不安になったが、阿佐美の言葉を信じるしかなかった。
「ええと、その……阿佐美君と志摩って……仲悪いの?」
「え?」
「いや、その……ごめん! 気になって……」
志摩がいなくなってから暫く。
沈黙の末、俺は思い切って阿佐美に尋ねてみた。
……みたはいいが、明らかに阿佐美が困っているのが分かり、後悔した。
「……ごめんね、変な気、使わせたかな」
「え、いや、そういうわけじゃなくて……」
「あいつは前から俺のことをよく思ってないから」
「志摩が?」
「……合わないんだよね、色々と」
「ごめんね、志摩と仲が良いゆうき君に話すことじゃなかったよね」そう申し訳なさそうに項垂れる阿佐美。
どうしてだろう、志摩が阿佐美を苦手とする理由がわからなくて。
しかし、それは俺には関係のないことだろう。これ以上追及しても阿佐美を困らせてしまうだけだ。
「こっちこそごめん」と釣られて項垂れれば、慌てて阿佐美は「いや」と首を横に振った。
「俺も……ごめんね、って……ダメだよねさっきから、俺、君に謝らせてばかりだ」
「それは、阿佐美君のせいじゃ……」
「詩織」
「……え?」
「あ、いや……阿佐美君じゃなくて……詩織でいいから」
「そう、言おうと思ったんだ」そう、徐に目を逸らす阿佐美。
長い黒髪から覗く耳が微かに赤くなっていて、阿佐美が照れていることに気付いたこちらまで急に恥ずかしくなってくる。
「し、詩織……?」
「……ゆうき君」
「……」
「……」
「……」
なんだ、この沈黙は。
「ご、ごめん……あまり人と話すの、得意じゃなくて」
「あっ、ご、ごめんなさ……」
「違う、ゆうき君は悪くないよ。……俺が、悪いんだ」
「……詩織?」
歯切れが悪い阿佐美に段々こっちまで萎縮した時だった。
「あの」と阿佐美が口を開く。
「こんなこと言った後じゃなんだけど……よろしくね。あいつみたいに面白いことも言えないけど」
「いや、そんな……こっちこそ、よろしく」
そこで、ようやく阿佐美は笑ってくれた。その事が嬉しくて、俺も釣られて破顔する。
「部屋の片付け……大変だったよね、ごめんね」
「え、いや、そんなことないよ。志摩が手伝ってくれたから……」
「……そう」
しまった、また余計なことを言ってしまったかもしれない。
阿佐美の反応にドキドキしていると、
「そういや、ゆうき君はご飯食べた?」
「……ご飯?」
「うん、……昼飯まだじゃないかなって……思ったんだけど」
段々語尾が消えかかっていく阿佐美。
そう言えば、一度戻って志摩にモールを案内してもらって、それからと考えていたんだった。しかし、今は志摩がいない。
「そういや……まだだな」
「そう言えばゆうき君は食堂の場所分かる?」
「いや」
「俺で良かったら、その……案内するけど……どうかな」
志摩とは打って変わって控えめな誘い。
食堂、確かに腹が減ってきた頃だった。
教えてもらえるのなら有り難い。けれど、と志摩の顔が脳裏を掠める。
「……あの、ゆうき君?」
「え?」
「どうかな……って、思ったんだけど」
「無理そうだったら断ってくれていいから」と恐縮する阿佐美に、慌てて俺は首を横に振る。
「そ、そんなことないよ! 俺の方こそ……すごい、助かるし……」
そう一人うんうんと頷けば、阿佐美は安堵したように頬を綻ばせた。
「よかった……それじゃ、早速行こうか」
「その、食堂って学生寮にあるの?」
「うん、一階にね」
というと、やっぱりショッピングモールか。
「ゆうき君さえよければ、モールも案内するよ」
「……いいの?」
「うん。……俺も、本屋に行きたかったから」
気を使ってくれているのがわかって申し訳なくなるが、それでも、その気持ちは有り難い。
先程志摩にモールを案内してもらう約束を交わしたばかりだが、こうなったら仕方がない。
阿佐美の善意に甘えよう。
志摩は……恐らくあの様子じゃ案内してもらえないだろうし。
「ありがとう、詩織」
「……これくらいしか、俺には出来ないから」
謙虚というか、ここまで来ると卑屈なものを感じずにはいられなかった。
優しいからこそ、だからだろうか。そんなことないのにと思ったが、さっき会ったばかりの俺が何言ったところで信憑性もクソもないことには変わりない。
「ゆうき君」
不意に、名前を呼ばれる。
顔を上げれば、おずおずとこちらに向かって手を差し出してくる阿佐美がいて。
「ん?」と思いながらも何気なくその手を握り返した時。
阿佐美は歩き出す。俺の手を引いたまま。
「ちょっ、阿佐美、待って! 手! 手! 手!」
流石に手を繋いでの移動はあれだ、危ない。
必死に呼び止めるものの結果虚しく、手を繋ぐというよりも阿佐美に引っ張られるような形で俺は部屋を出ていくことになるのだが。
阿佐美詩織はたまにズレている。
優しくて柔らかくて控えめなだが、唐突に大胆な行動を取る阿佐美には何度か心臓を壊されそうになった。
エレベーターを降りれば、ようやく手を離してくれた阿佐美は俺を見た。
「それじゃ、ご飯だね」
「うん」
こうして並んでみると身長差十センチはあるんじゃないかってくらい凹凸がハッキリし、自然と阿佐美に見下げられるような形になってしまうわけで。
「そう言えば、さっき本屋に用があるって言ってたけど……先に行っていいよ」
「いいの?」
「うん。……すぐに食べないとってわけじゃないから」
「……ありがとう、ゆうき君」
そう言う俺に、阿佐美は嬉しそうに微笑む。
「こっちだよ」
歩き出す阿佐美に誘導されるようにショッピングモール内部を歩き進めていく。
ちらりと見た時も思ったが、本当、すごい完成度だ。
歩けば歩くほど、この寮の万能さに驚かされる。
服屋だけでも何種類もあり、誰が着るのだろうかと疑問を浮かべるくらい悪趣味な店もあるのだ。
このショッピングモールを設置した人はなにを考えていたのだろうか。不思議でたまらないが、恐らく金を手にしている人間にしか分からない何かがあるのだろう。
思いながら、阿佐美のなんとも辿々しいガイドを聞きながら歩いていたときだった。
不意に、阿佐美は立ち止まった。
「……?詩織……?」
ゲームセンター前。
タイミングよく開く扉、瞬間、漏れ出す爆音に耳を塞ぎそうになったときだった。
数人の生徒がゲームセンターから出てきたところだった。
「あれ、詩織ちゃんじゃん」
そして、聞こえてきた絡みつくような声に俺は顔を上げた。
そこには、絵の具をぶち撒けたような真っ赤な髪の男子生徒が立っていた。
「何してんの?こんなところで」
唇に眉尻、そして耳。至るところに銀のピアスをぶら下げた赤髪の男は馴れ馴れしく阿佐美の肩を抱く。
阿佐美は赤髪の男を見るなり、バツが悪そうに「あっちゃん」と呟いた。
どうやら、阿佐美の知り合いのようだ。
……けれど、正直、驚いた。
阿佐美があっちゃんと呼ばれたこの赤髪の男と知り合いだということと、おぼっちゃま高校と名高いこの学園にも校則違反スレスレの生徒がいるということに。
生徒役員たちを見たときもそれは思ったが、全身から滲み出る雰囲気に、俺は本能的に危険を察知する。
あっちゃんという赤髪の男はまさに俺が苦手なタイプだった。それはもう、俺が苦手なものを集めたのではないのだろうかと疑いたくなるほどに。
だから、なるべく関わらないよう阿佐美の後ろに隠れたのだけれど。
「……誰そいつ? 新しいお友だち?」
あっさりと見つかってしまう。
腕を掴まれ、無理矢理阿佐美の物陰から引っ張り出される。
「ぁ……っ」
「ちょっと、あっちゃん」
「あー、わかった。こいつあれだろ?二年にやってきた噂の転校生」
阿佐美の制止も無視して、俺の頬を掴んでくるあっちゃんなる赤髪。
頬に食い込む指が、痛い。
喋る度に口の中の舌ついた銀のなにかが覗き、舌にまでピアスを開けてるこの赤髪に驚かずにはいられなくて。
「じゃねぇと詩織ちゃんとつるむ物好きなんて居るわけねえもんなあ」
小馬鹿にするような笑み。
面と面向って、普通、そんなことを口にするだろうか。
呆れ、何か言い返してやりたかったが掴まれた口元は動くことすら儘ならなくて。
「……あっちゃん、ゆうき君から手離して」
「ふーん、お前、ユウキ君って言うんだ」
「お前が」と、小さく赤髪の口が動いたような気がした。
「あ、あの……」
なんだか、すごい……いやな感じだ。
品定めするかのような目に、ねっとりと絡みつくような声に、全身からじっとりと汗が滲みだす。
とにかく、逃げ出さなくては。思いながら、やんわりと赤髪の手を離そうと握り締めた時。
「へぇ……お前……結構可愛い顔してんのな」
「……は?」
「もっと野暮ったいのかと思った……」
後頭部に伸びる赤髪の掌、髪に指を絡められ、動けなくなったところでぐっと顔を寄せられれば「ひっ」と息を飲む。
「……まあ、アリだな」
アリ?
こんがらがる頭の中、ただ、蛇に睨まれた蛙の気持ちはまさにこんな感じだろうなと思いながら俺は動くことすら出来なくて。
「あっちゃん、いい加減にして」
そんな中、伸びてきた阿佐美の手に腕を引かれる。
赤髪から強引に引き離され、安堵する。
「……ゆうき君が嫌がってるの、見て分かんないの」
「嫌なのは詩織ちゃんだろ?よっぽど気に入ってるんだねえ、そいつのこと。良いんじゃない、青春みたいで」
「あっちゃん」
「怒るなよ、これくらいで。……そうか、そうだったなァ。お前の相部屋相手が出来るっつーことは……なるほどなぁ」
「楽しそうでいいじゃん」そう、舌なめずりをする赤髪に、向けられた視線に、全身に寒気が走る。
なんなんだ、さっきから。早く、どこかへ行ってくれないだろうか。
目を合わせるのが嫌で、俯いた時だった。
「おい、なにを騒いでいる」
底冷えするような、冷たく鋭い声が通路に響く。
ざわめき始める赤髪の周囲にいた生徒。どこか聞き覚えのあるその声に咄嗟に振り向いた俺は、そのまま目を見開いた。
そこには、数人の生徒を引き連れた芳川会長がいた。
その生徒たちは全員『風紀』と刺繍の入った腕章をぶら下げていて。
赤髪の姿を見つけた芳川会長は疎ましそうに目を細める。
「……またお前か、阿賀松 」
「あれれえ? 面倒な仕事はしたっぱに押し付けて会長様は一人優雅にお散歩ですかあ?」
「貴様らのような輩がいないか見回りをしているだけだ」
阿賀松と呼ばれた赤髪と芳川会長の対面に、周囲の空気が一斉にピリつくのが分かった。
先程まで笑っていた阿賀松の連れも顔色が悪くなり、どこか緊張した面持ちで2人の様子を眺めていて。
助かった。……はずなのに、何故だろうか、余計、空気が悪くなっているような気がしてならなかった。
「へえ生徒会役員の皆様は両脇に軍隊引き連れて見回りするんだなぁ、初耳」
言いながら芳川会長の両脇に立っていた風紀委員に目を向ける。皮肉、なのだろう。
「馬鹿馬鹿しい。……くだらないことを言っている暇があるなら部屋に戻るなり教室に戻れ。邪魔だ」
「……っ」
阿賀松相手に一歩も退けもとらない。
それどころか冷めた目で見下す芳川会長がなんとなく怖くて、その反面堂々と言い返す芳川会長が格好良く映ったのも事実で。
「そこの君も……」
そう、会長を眺めていると、ふとレンズ越しにその目がこちらに向けられる。
「変なのに絡まれたくなかったら戻った方がいい」
「なんだ? 俺のことを言ってんのか、テメェ」
先程まで余裕の笑みを浮かべていた阿賀松の顔が引き攣るのを見て、阿佐美が「あっちゃん」と阿賀松の肩を掴む。
「すみません、会長。……俺達も、すぐ戻るんで」
そう、阿賀松の代わりに阿佐美が口を開いた時だった。
「そんなに掃除が好きならさぁ……」
一歩下がった阿賀松。
何をしようとするつもりなのか、嫌な予感がして一歩下がったのと阿賀松が観葉植物の鉢を思いっきり蹴り倒したのはほぼ同時だった。
土を撒き散らしながら砕ける鉢植えに「あっ」とつい俺は声を上げてしまう。
「……床でも舐めてろよ、会長さん」
満面の笑みを浮かべる阿賀松はそれだけを言い残し、ゲームセンターの前から歩き出す。
「あっちゃん!」と阿佐美が呼び止めるが、小さく手を振り返してくるばかりで立ち止まることすらしない。
慌てて阿賀松の後を追う仲間たち。
阿賀松たちがいなくなりしんと静まり返るゲームセンター前、芳川会長の重い溜息が静かに響いた。
「……まったく」
阿賀松たちがいなくなった後、通路奥の用具入れから箒と塵取りを持ち出してきた芳川会長は観葉植物の残骸の片付けを始める。
手際の良さに呆気に取られていた時。
「どうした? 早く教室に戻れ」
いつまで経っても廊下に残っている俺たちが気になったのか、不思議そうな顔をした芳川会長は声をかけられる。
戻れと言われたのなら戻った方がいいのだろう。
だけど、何故だろうか。
このまま全部を芳川会長に任せっぱなしにするのも気が引けた。
「あ、あの……なんか手伝いましょうか」
思ったときには、すでに口が動いていた。
「……ゆうき君?」
驚く阿佐美。無理もない、俺自身自分の行動に驚いているのだ。
そんな俺に、少しだけ目を丸くした芳川会長は……笑った。
それはステージ上で見せていた冷たさの欠片もない優しい笑顔で。
「気持ちだけ受け取っておくよ……ありがとう」
笑った。
驚く俺を他所に、片付けを終えた会長は箒を握り直す。
なんとなく怖い人かと思っていただけに思っていた以上に柔らかい顔で笑う会長に驚いた。
「俺達も戻る。……齋藤君、君達も教室に戻れ」
芳川会長はそれだけを言い残し、風紀委員たちとともに阿賀松とは逆の方向へ歩き出した。
テキパキとしているというか、無駄がない人だと思った。
なんとなく会長が人気があるのが分かった気がする。
……というか、あれ、今、名前呼ばれた?
俺、いつ芳川会長に自己紹介したっけ。
ぼんやりと会長の背中を見送るが、応えは出てこない。
まあ、生徒会長だと転校生の情報も手に入るのだろう。……知らないけど。
そんなことを、思いながら。
「ゆうき君?」
「え?」
「どうかした?」
「あ……いや、なんでもないよ」
「……」
芳川会長たちと別れた後。
なんだか嵐の去ったあとのような疲労感を覚えていた。
「ゆうき君……ごめんね」
そんな中、先程から元気がない阿佐美が口を開く。突然の謝罪に「え?なにが?」と戸惑う俺。
相変わらず阿佐美は項垂れてて。
「あっちゃん……いつもはもう少しマトモなんだけど」
「ぁ……あぁー」
あの人か。確かに怖かったが、何故阿佐美が謝るのだろうか。
阿佐美は庇ってくれたのだから落ち込む必要も謝る必要もないはずなのに。
というか、マトモって。
「えっと……あの阿賀松って人と、詩織……仲いいの?」
「仲いいっていうか……なんだろうね、腐れ縁っていうのかな」
「……幼馴染?」
尋ねれば、「まあ、そんな感じ」と言葉を濁す阿佐美。
どうやらあまり触れられたくない話題のようだ。
「……それじゃあ、会長にも言われたし、教室に戻ろうか」
なんとか話題を変えようと阿佐美に提案した時。
阿佐美の表情が強張る。
「……悪いけど、それは、無理」
それははっきりとした拒絶だった。
そういえば、阿佐美は制服を着ていない。始業式にも出ていないし、志摩は阿佐美のことを引き籠りだと言っていた。
ならば、無理に誘うのは悪いか。仕方ない、一人で戻るか。
そう思った時。
「ゆうき君は、行くの?」
このまま阿佐美と別れるのは心細いが、無理矢理阿佐美を連れて行くわけには行かない。
けれど、これ以上ブラブラしてるところをまた阿賀松と鉢合わせても会長たちに見付かってもまずい。
どうせ掃除しかないというのなら、教室に行くべきか。
志摩との約束もなしになってしまった今、俺だけがサボっているのも気が引けてきて。
「俺は……教室に戻るよ」
「そっか。……場所は? 分かる?」
「うん、校舎は目立つから」
「それがいいよ」と阿佐美は笑った。
目元が隠れているので良くわからなかったが、阿佐美は寂しがっているように思えて、なんだか後ろ髪を引かれるようだった。
俺は、阿佐美と別れることにした。
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