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04
一階、ショッピングモール。
空き店舗を出た俺は阿賀松たちがいないことを確認し、そのまま通路を歩き出す。
なんだか久し振りに外の空気を吸ったような気がする。
先程までアルコールの匂いを嗅いでいたせいか、なんだか余計新鮮に感じる。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
「見つけた」
低い声がした。
不意に、背後から肩を掴まれ、心臓が口から飛び出しそうになる。
まさか、と赤髪の男の顔が過り、恐る恐る振り返れば、そこには満面の笑みの志摩が立っていた。
「志摩、脅かすなよ」
「あはは、ごめんごめん。つい、ね。……っていうかあれ? 一人?阿佐美は?」
「ああ……多分部屋じゃないかな」
「……ふーん、なら良かった」
そう、志摩は笑う。
最後、怒って出て行った志摩が気になっていたがどうやら機嫌を直したようで。
安堵する反面、嬉しそうに笑う志摩になんだか阿佐美との蟠りを感じずにはいられなかった。
「それじゃあ、一緒に回ろっか」
「え?」
「ほら、約束したじゃん。ショッピングモール、一緒に見ようって。せっかくだし行こうよ」
そういえば、したような。
案内という単語に阿佐美の顔が過ったが、まあ、いいか。
「それじゃあ、お願いしようかな……」
「じゃあどこから行く?」
「どこでもいいよ、志摩に任せる」
「じゃあ、ここから全部見て回ろうか」
「全部?」
「楽しそうでしょ?」
「いいの? ……時間とか大丈夫?」
「時間? なんで? なんか用事あるの?」
一瞬、志摩の笑みが強張ったような気がした。
何か気を悪くするようなことを言ってしまったのだろうか。
慌てて俺は首を横に振る。
「いや、そういうわけじゃなくて……志摩だって自分の時間があるだろうし……」
「なに? そんなこと気にしてたの?」
「そ、そんなことって……」
「俺は齋藤を優先しろって言われてるからね、齋藤と一緒にいれるなら本望だよ」
相変わらずの軽薄な口振りだが志摩なりに気を使ってくれているのだろうか。
冗談めいたそのセリフに「なにそれ」とつられて笑えば、志摩は微笑む。
気が付けば、全身の緊張は綻んでいた。
本当にこの学園の一階には色々な店舗が揃っていた。
服屋からコンビニ、雑貨屋に文具店。
そのうちアミューズメントパークでも出来るんじゃないかと思ってしまうくらいの品揃えならぬ店揃えに内心呆れずにはいられない。その反面、その利便性に感動したのも事実だ。
「次どこいきたい?」
服屋を出た俺と志摩。
何気なく尋ねられ、俺は辺りを見渡した。そして、目についたその看板を口にする。
「……本屋」
「へえ、本? 好きなの?」
「そういうわけじゃないんだけど……ちょっと気になって……」
「いいよ、なら行こうか」
本屋へと足を踏み入れる俺たち。
立ち並ぶ本棚には参考書から雑誌まで様々なものが揃えられていて、やはり学業に関するものが多いのはここがあくまで学園だからなのだろう。
広い店内、生徒の姿は少なくはない。
けれど、阿佐美の姿はなかった。
それにしても、すごい量の本だな。なんて、キョロキョロしていたときだった。
「あれ? 佑樹じゃん! おーい、佑樹ー! 佑樹佑樹ー! こっちこっちー!」
遠くから名前を呼ばれ、まさか俺のことだろうかと思いながら振り返れば、そこには本屋とは場違いな程派手な生徒がいた。
別れたばかりのそいつには見覚えがあった。
生徒会書記、十勝だ。
十勝の登場に、隣に居た志摩の表情が露骨に引き攣る。
「十勝……君?」
「そうそう、覚えててくれたんだ! 嬉しいーな、これ!」
「ええと、まあ……」
「齋藤、なに? こいつと知り合いなわけ?」
俺の手を取り、はしゃぐ十勝に更に表情を険しくした志摩はこちらを睨む。
知り合い、というには知り合いなのだろうがまさか不正取引した仲だとは答えられるわけもなく。
「ええと」と口籠る俺に、「あ?」と十勝は志摩を睨む。
「って、うわ、なんでお前ここにいんの?」
「なんでって……俺の勝手だろ」
「本とか興味ね~くせに……気持ち悪っ」
「はあ?」
知り合いなのだろうかと思っ矢先、いきなり険悪になり始める2人。
「あ、あの、……志摩……十勝君と知り合いなの?」
このままではまずい、そう察した俺は慌てて話題を変えようと志摩に問い掛けるもやっぱり志摩の表情は険しいままで。
「知り合いだなんて気持ち悪い言い方やめてよ」
どうやら余計なことを言ってしまったようだ。
ますます気を悪くする志摩に俺は「ごめんなさい」と一歩後退る。
「えっなになに、佑樹って亮太と仲いいの?」
「ん、ええと、まあ……」
「すげー仲いいよ、お前よりはね」
割り込むように返事をする志摩に、今度は十勝の表情が凍る番だった。
「佑樹さあ、まじ、友達はとか選んだ方がいいって。よりによって亮太とか……」
「十勝」
わざとらしく声を潜める十勝に、とうとう痺れを切らしたのだろう。
先程以上にトーンの低くなる志摩。
その表情にさっきまでの笑顔はなくて。
「ねえ、生徒会の仕事はいいの? さっき、会長が十勝のこと探してたみたいだけど」
「っ、あー、そうだ、忘れてた」
「わり、また今度ゆっくり話そうぜ」怒ると怖いという芳川会長のことを思い出しているのだろうか。そう、俺の肩を叩き、そそくさと本屋を出ていく十勝。
その後ろ姿に「今度はないよ」と志摩が吐き捨てるのを俺は聞き逃さなかった。
阿佐美とはまた違う仲の悪さを見せつけられたようで、何とも言えない空気だけがその場に残る。あまりの居た堪れなさにその場から動けなくなっていると、不意に肩に手を回された。
「本屋、見て回る?」
そう、先程までとは打って変わって満面の笑みを浮かべた志摩。
その威圧感に、俺は慌てて首を横に振った。
なんとなく気まずい空気のまま本屋を後にした俺たち。すると、向かい側の服屋が異様に騒がしいことに気付く。
何かあったのだろうか、と視線を向けた俺はそこで凍り付いた。
「なあ江古田 ーこれ似合う? てかまじで俺似合う」
「……櫻田 くん、なにその格好……」
「会長がさぁ『元気のある活発な女の子が好き』っていうから買ってきちゃった! つーか冗談抜きで俺まじで可愛くね?」
櫻田と呼ばれたその生徒はそうはしゃぎながら江古田と呼ばれた生徒に話し掛ける。
それだけならまあ、まだ微笑ましい。
だが、問題は櫻田だ。百八十はある長身のそのどこか女性的な顔の造りをした美形の着ている制服の下はスカートになっていた。
因みにここは男子校で、櫻田の声体つき全てどっからどう見ても男のそれだ。
女装。俺の頭にその二文字が過った。
「……櫻田君の場合は気持ち悪いだけだから……」
江古田と呼ばれた生徒は長身の櫻田とは対照的に小柄だった。
熊のぬいぐるみを抱き締め、ぼそりと毒づく江古田に見てるこっちがヒヤヒヤするがそんな毒にも櫻田は慣れているようだ。
「うるせーよ、いいんだって! ほら、カツラも買ってきたし!」
「……」
そう、櫻田は抱えていた紙袋からクリーム色のボブヘアーのカツラを取り出す。
どうやらこのモールで購入したようだ。確かに睫毛が長くどちらかと言えば女顔だが、そういう問題ない気がしてならない。
「今年の一年は元気だね」
「元気どころじゃないような気がするけど……」
笑う志摩に、俺は小さく呟いた。
芳川会長も大変だな。思いながら、俺たちはその場を離れた。
「結構歩いたね」
「そうだね。……ちょっと休憩する? あそこに座れそうな場所あるけど」
「そうしてくれたら……嬉しい」
「構わないよ。時間はたくさんあるんだからね」
場所は変わって学生寮一階、ラウンジ。
隣合って座るのはいいが、どうも志摩の距離の近さに慣れない俺がいた。
「なんか……お腹減った」
「そう?」
「志摩は減らない?」
「ああ、俺齋藤と会う前にちょっと食べたからな」
「そっか……」
「なら、コンビニ行く?」
「うん、俺行ってくるよ。すぐ戻ってくるから」
「……一緒じゃなくていいの?」
「そんな……志摩だって疲れてるだろうし、いいよ、コンビニなら近いし」
なるべく迷惑は掛けたくない。
そう思って断ったのだが、志摩の表情は浮かないままで。
「……そう、ならいいけど迷子にならないようには気を付けなよ。俺、齋藤を放送で呼び出してもらうのやだからね」
「ははっ、そうだね、気を付けるよ」
俺の気にしすぎだろうか。
笑って志摩と別れ、ラウンジを後にする。
暫くぐるぐるして、無事コンビニへと辿り着くことができた。
そしてコンビニ店内。軽食で済ませようかとパン売り場を眺めているときだった。
「会長ー、どぉーっすかこれ。まじ可愛くないっすか」
裏側の棚から聞き覚えのある声が聞こえ、つい、ほんのちょっとの好奇心で顔を上げればそこにはさっきの女装男・櫻田と芳川会長がいるではないか。
お菓子コーナー前。
いいながらスカートの裾を持ち上げそう芳川会長に迫る櫻田に俺はさっと視線を逸らす。なかなかの美脚だった。
「貴様、制服の改造は校則で禁じられてるはずだが」
「大丈夫っすよ、これ制服じゃねーし」
「もっと問題だ!」
「えー、怒った会長もかーわーいー!」
さっき買ったといっていたカツラをしっかりとかぶり、芳川会長の言葉にぶりぶりと身を捩らせる櫻田は悪い意味でも良い意味でも女装をこなしていた。
愕然とする会長の心中お察ししつつ、なるべく関わらないようにしようとそそくさとレジへ向かおうとした時だった。
会長と目が合う。
「齋籐君」
なんということだろうか。振り向けばそこには助けろといわんばかりの鋭い眼差しで俺を見てくる芳川会長がいるではないか。
「あ、はは……どうも……」
無視するわけにも行かず、俺は会長に軽く会釈し、そのままその場を立ち去ろうと踵を返した。
瞬間、腕を強く掴まれる。
「頼む、こいつをどうにかしてくれ」
すがるような目で見据えてくる芳川会長。
そんなこと俺に頼まないでください。
強気なこと言えるわけでもなく、だからといって櫻田を追い払う術ももっていない。助けるにもどうすることも出来ないジレンマに、俺はうっすらと冷や汗を滲ませた。
「……あ? 誰だお前、会長の友達?」
「え? いや、ええと」
「そうだ、俺の友達だ」
言いながら肩に回される会長の手に、「えっ?!」と、つい俺は驚きの声を上げる。
その場凌ぎとはいえ友達と認定されたのは光栄だが、この流れでそれはどうなんだ。
「へえ、会長の友達ねえ……」
それにしてもなんだろうか、この櫻田という男は。
無遠慮にじろじろとひとの顔を見てくる櫻田に色々な意味でドキドキしてしまう。
「ほら、齋籐君もちゃんと下穿いてるだろ。だから貴様もそのスカートを……」
そう芳川会長が言いかけたときだ。
不意に伸びてきた櫻田の骨張った手が頬に触れる。
そして、
「俺の方が全然可愛いな!」
両頬を挟むよう押し潰された。いきなりの頬の痛みに一瞬彼がなにをいっているのかわからなかったが芳川会長のドン引きしたような表情に大体納得した。
「い、いひゃ……」
「おい! 何をしている!」
「お前、なんか気に入らねーな。おい、あんた学年は」
「に、にひぇんだけど……」
「うっわ、年上かよ! ははっ、見えねー。ウケんだけど」
ぐさぐさと突き刺さる言葉の矢に挫けそうになっていたとき、肩を掴まれ強制的に櫻田から引き離される。
「彼は俺の友人だと言っただろう。誰であろうと俺の友人を愚弄するやつは許さないぞ、櫻田君」
それは先程よりもハッキリとした口調だった。
自分と櫻田の間に割り込むように立つ芳川会長、その背中が一段と大きく見えたのは気のせいではないはずだ。
「会長、俺よりもそいつのことを庇うんすか!」
「庇うもなにも、俺には貴様みたいな女装癖を庇う必要性もなければ義理もない」
「俺のが、俺のが役に立ちますよ! そんなトロそうなやつよりも!」
「う……っ!」
否定できないだけに悲しい。
項垂れる俺が痛がっているように見えたようだ。
心配そうな顔をする芳川会長に頬を撫でられ、ぎょっとした。
「齋籐君、大丈夫か?」
「あ、ありがとうございまひゅ」
噛んだ。
くすぐったいのか気恥ずかしいのかよくわからない気分になり、やんわりと俺は会長の手を離した。
「ああ、すまない。……ベタベタ触ってしまったな」
「いや、大丈夫です」
そんなやり取りを妬ましそうな顔で眺めていた櫻田の顔が益々悪鬼と化してゆく。
ふと櫻田と目があってしまったときだった。
「……櫻田君……ここにいたの……?」
いつの間にか櫻田の背後に立っていた先ほどの陰気な生徒・江古田。
あまりにも気配がないというのもなかなか不気味で、いきなり現れた江古田に心臓が停まりそうになった。
「……櫻田君が、お世話になってます」
「え? ああ……どうも」
「なってねーよ。馬鹿じゃねーの、バカ江古田」
「……櫻田君にバカって言われたくない……」
「ああ? やんのかてめー」
今にも噛み付きそうな勢いすらある櫻田を無視し、俺たちの方を振り返る江古田。
「……ごめんなさい、櫻田君、バカなんで……」
「うるせえ、誰がバカだこのクマ男!」
そう、櫻田が江古田の抱えていたクマの縫いぐるみを掴もうとしたときだった。
「ぐえッ」
無言で櫻田の腹を殴る江古田は、蹲る櫻田に続けてその顔面に縫いぐるみを叩き込む。
それはもう凄まじい連携技だった。
ぐったりとした一瞬の隙を狙い、櫻田を捕獲した江古田は俺たちに向かってぺこりと会釈し、そのままコンビニを後にする。
どうなってるんだ、あの二人の力関係は。
櫻田の足をずりずり引き摺りながらも出ていく江古田を見送るしかできなかった。
やがて二人の姿が見えなくなったと思えば今度は外から櫻田の罵倒が聞こえて、なんだか気まずい空気だけが店内に残ったのは言わずもがな。
「わざわざ引き止めて悪かったな」
「いえ、こちらこそ、すみません……気が利かなくて」
「いや、助かったよ。……ありがとう」
「……いえ」
結果的には江古田のお陰のようなものだ。
自分が会長にお礼を言われるのは筋違いな気がしてならないが、少しでも会長の役に立てた。そう思うと、悪い気がしなかった。
「そうだ、君も昼食を買いに来たんだろう。これからどうだ、時間があったらだが」
「昼食……ですか?」
「ああ、どうだろうか」
「……あの、すみません。俺、友達外に待たせてるんで気持ちだけ有りがたくいただきます」
「そうなのか。なら仕方がないな」
まさか芳川会長から誘いがあるなんて思ってもおらず驚くと同時に嬉しくなったが、こればかりは仕方ない。
申し訳なくなって項垂れると、頭を撫でられる。
ビックリして顔を上げれば、にこりと笑う会長と目があって。
「じゃあ、俺はこれで。勉強頑張れよ、齋籐君」
それだけを言って、会長はコンビニを後にした。
ああ、俺も早く戻らなければ。
ラウンジに待たせた志摩のことを思いながら、俺は適当な軽食を買ってコンビニを出ていく。
本日の昼食の入った買い物袋をぶら下げ、早速俺は志摩の待つラウンジへと向かった。
学生寮一階、ラウンジ。
「遅い」
「ごめんて」
「まあ、いいけどさ、別に。なにかいいのあった?」
「色々あって迷っちゃったんだけど……適当にパンにしたよ」
志摩の隣のベンチに腰を下ろす。
「いただきます」と、早速袋を開けて一口食べてみればなかなか美味しいではないか。
もぐもぐと食事を続けていると、ふと、志摩と目が合う。
「……なに?」
「いや、別に」
何が面白いのか、ニコニコと笑いながら人の食べる姿を見詰めてくる志摩に居た堪れなくなってくる。
「あ、あの……志摩、食べにくいんだけど」
「食べさせてやろうか?」
「なんでだよ」
「あはは、冗談だって」
そう笑う志摩。
怒ったり笑ったりコロコロ変わる志摩の表情に戸惑わずにはいられないが、それでも、楽しげに笑う志摩に悪い気はしない。
……なんとなく、見過ぎだとは思うが。なんて思ってる間に食べ終える。「ごちそうさま」と口にすれば、「お粗末さまでした」と志摩はニコニコ笑っていま。
それを志摩が言うのだろうか。なんて思いながら、遅くなった昼食を済ませた俺はゴミを集め、立ち上がる。
「それじゃあどうする?」
「……そうだね」
「校舎の方も案内しようか? ……って思ったけど、わざわざあっちに戻るのも嫌だよね」
「別に面白くもなんともないからなー、向こうは」と1人考え込む志摩。
「それなら、校舎は学校に行った時、暇なときでいいから案内してよ」
「それくらいお安い御用だよ」
我ながら図々しいかなと思ったが、あっさりと引き受けてくれる志摩に安堵する。
やっぱり、一番最初に話し掛けてくれたのが志摩で良かった。
軽薄な態度が逆に取っ付きやすくて、たまに戸惑う時もあるけれど、面倒見のいい志摩に感謝せずにはいられなかった。
「……どうしたの? そんなに俺の顔見て」
「あ、ご、ごめん……つい」
「つい? なに? 見惚れちゃったの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「齋藤って結構バッサリ言うよね」
「いや、あの……委員長が志摩みたいな人で良かったって、思って」
友達、なんて口にするのはやはり怖かった。
何も知らないのに、知り合ったばかりなのに、何言ってるんだ。そう笑われてしまいそうで。
さっきは十勝の前もあって志摩はああ言ってくれたけれど、やっぱり俺の口から出すのには躊躇われた。それでも、感謝は伝えたかった。
けれど。
「……」
やはり、変なことを言ってしまったのだろうか。押し黙る志摩に不安になってきて、「あの、」と恐る恐る口を開いた時だった。
ぽんっと、頭の上に手を乗せられた。
そして、
「ちょっ、待っ、志摩……っ!」
わしゃわしゃと乱暴に頭を撫で回される。というよりも髪をぐちゃぐちゃにされていると言った方が適切かもしれない。
いきなりの志摩の行動にビックリして顔を上げれば、志摩と目があった。
「本当に、俺、結構そういうの慣れてないからさ……やめてよね、まじ、照れるから」
笑みを引き攣らせる志摩。その耳が微かに赤くなっていて、それに気付いた俺の顔まで熱くなっていくのを感じた。
正直、志摩は笑って流してくれると思っていた。
それだけに、恥ずかしがる志摩に、自分だけがドキドキしてるんじゃないんだって思えて……嬉しくなる。
これから、志摩たちと一緒に過ごす学園生活のことを考える。
友達も増やして、皆で遊んだりして、当たり前の、普通の楽しい毎日のことを考えるだけでわくわくして……忘れかけていた感情が、胸の奥で芽吹き始めるのが分かった。
今度こそ、俺は。
あれから何時間経ったのだろうか。随分と長い間志摩と話してたような気がする。
部屋の前まで志摩に送ってもらった俺は、扉についたドアノブに手をかけた。開いている。
どうやら阿佐美は部屋にいるようだ。
「……た、ただいま」
そう、恐る恐る扉を開けば、中で人が動く気配がした。
そして、パタパタと足音が聞こえてくる。
「……おかえり、ゆうき君」
わざわざ走ってきてくれたようだ。俺を出迎えてくれる阿佐美に、俺は少し驚いて、嬉しくて、頬を綻んだ。
誰かが待ってくれているというのは、やはり、変な感覚だ。
「ただいま、詩織」
でも、悪くないな。なんて思いながら、俺は玄関へ入った。
「どうだった? 掃除」
何気ない阿佐美の一言にぎくりと全身が強張った。
本当は掃除どころか教室にも行かずに志摩とショッピングモールを歩き回っていたと言ったら、さすがの阿佐美も気を悪くするだろう。
内心ドキドキしながらも「まあまあかな」と意味の分からない感想を口にすれば「そっか」と阿佐美は笑う。
「……早く、教室に馴れるといいね」
「……うん、そうだね」
本当は、阿佐美も一緒にいてくれたら心強いのだけれど。流石にそこまで言う気にはなれなくて、曖昧に笑って返すことしか出来なくて。
「ああ、そうだ!」
そう一人思案に耽けていたときだ。ふと、思い出したように阿佐美は声を上げた。
そして、いそいそと付属の冷蔵庫を開いた阿佐美は何かを取り出す。
「っ! そ、それって……」
「あの、お腹、減ったんじゃないかなって思って俺、コンビニで買ってきたんだけど……」
「転校祝い……って言ったら可笑しいかもしれないけど、どうかな」一緒に、と恐る恐る尋ねてくる阿佐美の手に持たれたそれは二人用のケーキで。
まさか、そんなものまで用意してもらえるとは思ってもおらず反応に遅れてしまう俺を不安に思ったようだ。
「も、もしかして……甘いの苦手だった?」
「ち、違う、そんなことないよ! 寧ろ……好きだし!」
「あの、無理だったら……」
「無理じゃないよ!」
咄嗟に、俺は阿佐美の手を掴んでいた。
「無理じゃないよ……っ! その、ちょっとビックリしちゃったけど……すごい、嬉しい……」
「こんなこと、されたことなかったから」小さな頃、多忙な両親は誕生日の日にも家にいなくて、誰もいない食卓で一人で名前入りのケーキを突くということばかりだった。
だからこそ、余計、こうしてもらえることが嬉しくて。
「ありがとう……詩織」
長い前髪の下、詩織が笑ったような気がした。
その日、阿佐美と細やかなパーティーをした。
豪勢な料理もないし二人き理だし賑やかとは程遠いものだったが、それでも楽しくて、恐らく忘れることのない一日になることには間違いないだろう。
阿佐美が予め溜め込んでいたジュースを飲み、話し、時間だけが過ぎていく。
どれくらい経ったのだろうか。
眠くなりながらも壁のデジタル時計に目を向ければ既に消灯時間が近付いていて。
「ゆうき君、眠たい?」
「うん、ちょっと」
「寝るならベッドで寝ないと、風邪引いちゃうよ」
肩を揺すられ「うーん」と返事をする。
今日一日色々なことがあったお陰で大分疲れているようで、既に目を開けることすら億劫になっていた。ゆうき君、と名前を呼ぶ阿佐美の声が心地良い。もう少し、このまま、そう、ソファーに凭れかかった。
今日から、本当に何もかも変わってしまうんだ。
敵もいなければ味方もいない。作らないと、なんて夢うつつに思いながら。戦う相手もいないというのに。
微睡む意識の中、俺はとうとう夢に落ちる。
頑張ろう、俺は生まれ変わるんだ。夢の中、繰り返し、口にする。
今度こそ、と平穏な生活を夢見ては何度も。
そして、次の日、目を覚ますと俺は爆睡する阿佐美に抱き枕にされていた。
……どうやら、平穏な生活にはまだ少し時間が掛かるようだ。
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