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四月二日目【恐喝】

 転校してから二日目の朝。 「……」 「……すー……」  一瞬、夢でも見ているかと思った。  カーテンの隙間から差し込む日差しに目を覚ました俺がまず見たものは、くっつくように眠る大きな男だった。  長い前髪のそいつは、間違いない。阿佐美だ。 「し、詩織……詩織」  なんでベッドに入ってきてるんだ。まさか寝惚けて間違えたのか。  色々疑問はあったが、抱きまくらかなにかのように抱き締められている今、身動き一つ取れないわけで。  気持ち良さそうに眠っているのを妨げるのも申し訳ないが、流石に大きな男に抱き締められるというのはなかなかの苦行だ。  そっとその薄い胸板を押し返すが、ビクリともしない。  それどころか、規則正しい寝息が聞こえてきた。  ……こうなった仕方ない。転校早々『男に抱き締められていたせいで遅れました』なんて遅刻の言い訳はしたくない。意を決し、腰に回された阿佐美の腕を外せば、思ったよりもすんなり阿佐美の腕から抜け出すことができた。  ベッドから落ちそうになりながらも、なんとか堪えた俺はそのままベッドの阿佐美を振り返る。 「……」  それにしても、何故阿佐美は俺のベッドに潜り込んでいるのだろうか。気になったが、阿佐美の寝顔を見ていたらどうでも良くなってきた。暗くて間違えたのかもしれない。  ……そう自己完結し、俺は着替えることにした。  幸先はいいとは言えないが、それでも、ただぼんやり過ごすなんてことはしたくなかった。  身支度を済ませる。  テレビニュースを見て時間を潰すのも勿体無い気がして、考え結果、俺は登校時間まで寮内を探検することにした。  志摩が一緒にいたら、とも思ったがあいにく俺はまだ志摩の連絡先も部屋も分からない。  迷子になったら元も子もないし、少しだけ見てすぐ戻ろう。  なんて思いながら、廊下に出る。  まだ活動し始めるには早い時間帯。案の定、学生寮内はしんと静まり返っていた。  なんだか、ここまで静かだといくら綺麗な内装とは言えど気味が悪い。なんて思いながら、こそこそと廊下を歩き出した時だった。  曲がり角のその奥、ぬっと現れた人影に「うわあっ!」と間抜けな悲鳴が口から出てしまう。 「うおっ!! び、びっくりした~!」  続けて聞こえてきた緊張感のないその声に、恐る恐る目を開けばそこにいた人物の姿に驚いた。 「……十勝……君?」 「あれ? 佑樹じゃん、早起きだな、お前も。一緒一緒!」 「う、うん……」  朝っぱらから変わらずフレンドリーな十勝の登場にまだ心臓は収まらなくて。  ドキドキと煩い心臓を抑えたまま、俺は正直生きた心地がしなかった。  十勝は既に制服に着替えてるようだ。その肩から指定の鞄が下げられてるのに気付く。 「十勝君、もしかしてもう登校するの?」 「今日は朝から会議があるらしくてさぁ、このまま行かないといけないんだよ。本当、面倒だよなー」  そういえば、十勝は生徒会の、それも書記と言っていた。  会議では居てはならない存在だということだろうが、それでもまだ目の前の十勝を見てると真面目に生徒会活動してる姿が浮かばない。 「あ、なら急いでるんじゃ……ごめん、呼び止めて」 「あ?いいのいいの! つーかあんま早く行ってもやることなくて暇だしさ。……何? 佑樹は転校の緊張で早起きしちゃった系なわけ?」 「う……」 「ははっ! 図星かー! ま、皆そう言ってるもんなぁ、特に寮だと色々変わってくるしな。転校初日は特に」 「そうだね……枕とか……」 「枕かよ! 佑樹ってじじいっぽいところあるな~」 「えっ?! そ、そうかな……」  大らかに笑う十勝。  遠慮ない分、歯に衣着せぬその物言いが逆に気持ち良くて不思議と悪い気持はしなかった。  見た目に反して、志摩とはまた違うその親しみやすさを持つ十勝にいつの間にか自分の緊張が解れていくのが分かった。 「俺は内部進学組だからさ、慣れてんだけど、栫井……ほらうちの副会長のクルクルパーなやつ、いるだろ? あいつとか最初酷かったんだぜ、ベッドが自分が使ってるやつじゃないと落ち着かなくて寝れないっつって買い替えてんだからさ」 「そ、そうなんだ……」  栫井、栫井平佑か。  あの男も苦手なのだけど、十勝の話を聞いてると少しだけ親近感が沸いたり沸かなかったり……。というよりも、俺は十勝が内部進学組であることに驚いた。  この学園は小等部から付属の大学まである所謂エスカレーター式の学園だ。  もちろん、ちょっとやそっとじゃ簡単に入学できない。運動か勉強、何かしらの分野で成績が優秀な生徒は外部からでも入学出来る仕組みにはなってるようだがそれもほんの一握りで、実際は名家や大企業の子息等上流家庭の生徒が殆どだ。  逆に言えば、金を詰めばある程度は簡単に入学することも出来る。  つまり、十勝はそれなりにいいところの息子というわけなのだろうが……身振り素振りからはそれは感じないというか、それを笠に着ることなく嫌味のない態度が逆に清々しく思えた。 「なんか困ったことがあったら俺に言えよ! 楽なのならなんとかしてやっから」 「……五味先輩がそう言えって?」 「せいかーい」  普通ならば隠すか誤魔化すかするはずなのだろうに、それをしようともしない十勝。  派手な外見と軽い言動から少し敬遠していたが、明るくて屈託のないその性格は寧ろ俺にとって有り難いものだった。 「別に言わないよ」 「だよなーっ。だって佑樹そんなこと言うような奴に見えないって」 「そ、そうかな……」 「そうそう! ま、そーいうの抜きでも全然話し掛けてくれていいからさ!」 「あ、勉強とかそういうの以外で」愉しそうに笑う十勝に、つられて俺は笑ってしまう。  勉強が苦手なのだろう。  俺も、あまり褒められた成績を取ったことがないので少し親近感が沸いた。 「うん……ありがとう、十勝君」 「いいよいいよこれくらい……っと、じゃあ俺そろそろ行くかな」 「あ、引き留めてごめんね」 「いいって、いいって。それじゃ、またな」  そう、俺に手を振りながら十勝は歩いていく。  ……たまたま出会ったのが十勝でよかった。  少しだったが、十勝と他愛ない会話のお陰で肩の緊張が解れたような気がした。  少し早いがそろそろ、部屋に戻るか。  十勝の立ち去ったあと、静かな廊下を歩いて自室へと戻る。  時間までまだある。一度部屋に戻れば相変わらずの阿佐美のイビキが聞こえてくる。 「詩織、詩織……」  何度か声を掛けてみるが、ぐっすりと眠っているらしく俺の声に反応はない。  一緒に授業を受けたいというのもあったが、無理に起こすのも忍びない。  諦め、テレビをつければ丁度星座占いがやっているところだった。  占いを信じているわけではないが、ほんのちょっとした好奇心だった。何気なく眺めていると俺の星座は最下位だった。まあ……これで人生全てが決まるわけではない。  少し落ち込んだのも事実だが、俺はそれを見なかったことにし、テレビを消した。  そんなときだった。インターホンが響く。誰か来たようだ。阿佐美の知り合いだろうか。  迷ったが、阿佐美は起きる気配もないしこのまま無視するわけにもいかない。  慌てて玄関口へと向かい、「はい」と扉を開けば、そこには予想外の人物が立っていた。 「……志摩?」 「おはよう、ゆっくり寝れた?」  クラスメートの、確か……志摩亮太。  既に制服に着替えていた志摩は、俺を見るなりにっこりと微笑んだ。  もしかしなくても、迎えに来てくれたのだろう。約束もしなかったのにわざわざ来てくれるなんて……。  以前の学校ではこんなことなかったため、驚いた反面、嬉しかったのも事実だ。 「うん、ぐっすり寝れたよ」  目覚めはとてもいいものとは言えないが。答えれば、志摩は「そっか、それならよかった」と嬉しそうに目を細める。 「もしかしたら起こしたかなとも思ったんだけど、齋藤ももう準備ができてるみたいだね」 「少し早く目が覚めちゃって……どうしようかと思ってたところだったんだ」 「丁度よかった。道がわかんないかもしれないと思って案内ついでに早く迎えに来てみたんだよ。……迷惑だった?」  尋ねられ、慌てて俺はくびをは横に振る。  確かに戸惑いもあるが、右も左も分からない今、志摩の好意は素直に有り難い。 「ううん、ありがとう。……助かるよ」 「そう言ってもらえてよかった。それじゃあ、早速だけどもう行ける?」 「あっ、待って……カバン取ってくるよ」 「了解。それじゃここで待ってるね」  カバンを取りに一度部屋に戻れば、丁度、阿佐美がベッドから起き上がっているところだった。 「……ゆうき君?」  掠れた、欠伸混じりの声。  扉の音に気付いた阿佐美は、こちらを振り返る。 「おはよう、詩織」 「……おはよう、ゆうき君。……早いね」 「うん、今日は転校して二日目だから……早い時間帯に目が覚めちゃって」 「……ああ、そうか、そうだよね」  言いながら、再びベッドの上に横になる阿佐美。  ……やはり、このまま登校するつもりはないらしい。  せっかく起きたのに、と少し残念に思っていると「おーい、齋藤ー」と扉の外から志摩の呼ぶ声が聞こえてきた。  その声に反応するかのように、阿佐美が布団から顔を出した。 「何、あいつ……来てるの?」 「え、あぁ……うん、案内してくれるって」 「……」  あいつというのは言わずもがな志摩のことだろう。それだけを言えば、阿佐美は無言でもぞもぞとベッドから起き上がる。  まさか、と、驚いている内にスウェットを脱ぎ、Tシャツに着替える阿佐美。  まさか、まさか。と、一人立ち往生してると。 「……俺も、行くよ」  何がどうやる気になってくれたのかは知らないが、着替えた阿佐美はそう口にした。  正直、嬉しい。  一緒に登校したいという気持ちもあったから阿佐美の行動は素直に感動したが、阿佐美、学校へ行くのになんで思いっ切り私服なんだ。  思いながらも最後まで突っ込めないまま、俺はカバンを手に阿佐美と部屋を出た。  それから間もなくして、阿佐美と志摩の仲がよろしくないことを思い出すが何もかもが遅かった。 「……」 「……」 「……」  ひたすら沈黙。  右脇に志摩、そして左隣には阿佐美。  阿佐美は変わらない様子だが、志摩はもうそれは露骨な程だった。俺を通して阿佐美を睨む志摩からの無言の圧力に俺はなんだかもう、生きた心地がしなかった。  そうだ、忘れていた、志摩と阿佐美の仲が芳しくないことを。  会話が弾まないどころか会話の一つもない2人に俺はどうすればいいのか分からず、ただただ重苦しい空気がその場に流れた。 「……」  そんな中、不意に志摩と視線がガチ合う。  じとりとこちらを見ていた志摩を無視するわけにもいかなくて、「どうしたの?」と恐る恐る尋ねれば志摩は「別に」とだけ応え、俺から視線を外した。  せっかく、せっかく、また仲良くできるかもしれない。と思ったのに、軽率だった。  けれど、だからってせっかく起きる気になった阿佐美をそのまま置いてくるような真似もしたくなかったんだ。  といったところで志摩の機嫌が良くなるわけもないだろう。  今回ばかりは、俺の思慮が足りなかったのが原因だ。ならばこの気まずさも受け止めるしかない。が。 「阿佐美、せめて制服ぐらい着ろよ。行くにしろ行かないにしろ」 「行かないよ、面倒だし。……それに、制服どこに仕舞ったか忘れたし」 「はあ? 信じられないんだけど」 「……ま、まぁまぁ……」  ギスギス感は拭えないが、こうやって、人と並んで歩くのは久しぶりで……こうして何を話したら良いのかって悩めることも、俺にとっては楽しかった。  どうすれば相手が喜ぶ話題が出来るのか、口下手で話の引き出しも少ない俺にとってそれは難題だが、それでも、こうして誰かのために悩めることは俺にとって喜ばしいことなのだろう。  そんなことで悩んでたのは、どれくらい前なのだろうか。大分昔のようにも思えた。  なんだか懐かしいな、と、そんな考えが過ぎったとき。 『おはよう、ゆう君』  脳裏に、声が響く。遠い記憶の奥の底、必死に塞いでいたそこから溢れ出すどす黒い感情と恐怖心に、浮かれていた心臓をガッと握り潰されるような感覚に陥る。 「……ッ」  俺は、何を考えているんだ。滲む汗を拭い、必死に記憶を振り払おうとしたとき。  志摩に腕を掴まれた。 「……齋藤、どうかしたの?酷い顔色だけど」  心配そうな、優しい声。そこにいるのは、『あいつ』ではない。そうだ、もう、『あいつ』はいないんだ。あの時とは、違うんだ。 「ううん、ごめん……なんでもない」 「それならいいけど……目の前、柱あるから気を付けてね」 「え? ……って、わあっ!」 「ゆ、ゆうき君! 大丈夫っ?!」  ここに来れば、新しい人間関係を結べば、時期に記憶も薄れ行くものだと思っていた。  けれど実際は比べて、その明暗がくっきりと色濃くなるばかりで、度々思い返されるそれに俺はあいつとの思い出が確かに俺の中で大きいものであるという事実がただ、悔しかった。  学生寮、一階。  ショッピングモールには朝食に向かう生徒たちで賑わっていた。  やっぱり、こういう風に一つの建物の中で赤の他人と朝から行動するのは新鮮だな。  思いながら辺りを観察していると、「齋藤」と志摩に名前を呼ばれる。 「ね、何が食べたい? 俺のオススメはモーニングセットなんだけどそのハンバーガーがとても……」 「丼かな」  志摩の言葉を遮って答えたのは阿佐美だった。途端、志摩の顔がびきびきと引きつる。 「……俺は齋藤に聞いてるんだけど」  ま、まずい。せっかく機嫌良くなっていた志摩にまた不穏なものが纏わりつき始めている。  とにかく、その場を丸く収めるにはどうしたらいいのだろうかと約一秒悩んだ結果俺は、「俺も」と声を上げた。 「お、俺も……温かいご飯が食べたいな……なんて……」 「本当に? なんか言わされてるんじゃない?」 「お前と一緒にしてほしくないんだけど」 「どういう意味だよ」 「ふ、二人とも、落ち着いて……喧嘩はよくないよ……」  志摩も志摩だが、阿佐美も阿佐美だ。二人に仲良くしろというのも無理なのかもしれないが、それにしてもこう、もう少し普通に話すことは出来ないのだろうか  それとも、それが『普通』なのだろうか。  一周回って仲が良いのか?とも考えてみたがどうやってもそうには見えない。  オロオロしてる俺に気付いた志摩は、打って変わってにっこりと柔らかく微笑んでくる。 「大丈夫だよ、齋藤。別に喧嘩なんてしてないから。ただ、大人げない我儘なこいつに言ってるだけだから」 「………………」 「し、志摩……」 「コンビニでいいよね。俺、こいつの顔見ながらゆっくり座ってご飯とかしたくないから」 「そうだね、ゆうき君ならともかく礼儀知らずと相席は俺も勘弁してもらいたいし」 「し、詩織……」  こういう時の意見は合致するんだな……。  仲が良いのか悪いのかわからなくなりながらも、俺達は行き先を食堂からコンビニへと変更する。  結局、コンビニで各々好きなものを買ってラウンジで食べるというなんとも簡素な朝食になってしまった。本当は食堂が楽しみだったが、この空気では仕方ない。  ――学生寮、ラウンジ。  沈黙が流れる中、なんとかおにぎりを食べ終えた俺に志摩は笑いかけて来る。 「じゃあそろそろ行こうか」 「そうだね。……あ」  そこで、俺は阿佐美が制服を着ていないことを思い出す。  まさか服装自由というわけでもないだろうし、どうするつもりなのだろうかと一人ハラハラしていると志摩も同じことを考えていたようだ。 「阿佐美、お前授業受ける気あるの?」 「……ないけど」 「なら大人しく部屋に戻れよ」 「……」  ああ、また始まった。ギスギスとした空気に胃が痛くなる。 「……ゆうき君とお前を二人きりにしておくのが心配だから」 「……え?」  そんな中、不意にぽつりと呟いた阿佐美。  その言葉が引っ掛かる。  志摩のことを言っているのだろうが、何故阿佐美がそんなことを言うのかが分からなかった。そこまで仲が悪いのか、と。そしてそんな阿佐美の言葉を志摩が快く思うはずもなく。  バン、とテーブルを叩き、立ち上がる志摩に一瞬にして周りの空気が凍り付いた。  そして、それは俺も例外ではない。 「……授業受ける気もない特待生様が、俺たち一般生徒に口出ししないでくれないかな」  低い声。阿佐美を睨み付ける志摩に、俺はその場から動けなくなる。  ただ一人、志摩に睨まれた阿佐美は然程気にした様子もなく、手元のジュースパックを飲み干した。 「あの、詩織の好きなようにしたらいいんじゃないかな……でも、俺達は授業があるから行かなくちゃいけないけど……」  その場の空気に堪えきれず、思い切って俺は声を振り絞った。  二人の視線がこちらを向くのを確かに感じたが、俺はまともに二人の顔を見れなかった。 「だから……その、喧嘩……しないで……」  次第に声が小さくなっていく。もしかしたら「調子に乗るな」と志摩に怒られるかもしれない、そう思ったからだ。だけど、これ以上目の前で阿佐美が責められるのを見過ごすことも出来なかった。  汗が滲む。笑っているつもりなのに、表情筋が次第に硬くなっていくのご分かった。  小さな沈黙が流れる。そして、その沈黙を破ったのは志摩だった。 「……そうだね、齋藤の言う通りだね」  志摩の言葉は怒声でも罵声でもなく、先程までと変わらない優しいものだった。 「けど、齋藤勘違いしないでよね。喧嘩してるわけじゃなくて、俺はこいつの我儘に呆れてるだけだから」 「……」 「あの、志摩……」 「ああ、そうだね、授業だよね。それじゃあ、さっさと行こうか、齋藤」  そこまで言わなくてもいいのではないか、と言うつもりが志摩に遮られてしまう。  手を掴まれ、強引に立たされればそのままラウンジから引き摺り出されそうになった。 「あ、あの、志摩……」 「じゃあね、阿佐美。特待生は特待生らしく時間を気にせずゆっくりしていきなよ。どーせ、誰もお前に逆らえないんだから」  そう、満面の笑みを浮かべて阿佐美に手を振る志摩。とうとう阿佐美は何も言わなかった。  そんな阿佐美に笑みを消した志摩は、「行こう」とだけ呟きさっさと歩き出す。  志摩は、阿佐美を特待生だという。それはすごいことだと思うし、讃えられるべきなのだろうが、志摩の『特待生』という言葉はどことなく刺々しくて、まるでこちらまで胸が苦しくなるようだった。  なんか、嫌だな……こういうの。  阿佐美も志摩も悪いやつではない……と思うのだけれど、仲が悪い二人にどうすることも出来ないのだ。こういう時、自分の役に立たなさが浮き彫りになってしまい嫌になってくる。 「あの……志摩……」  阿佐美と別れ、微妙な空気のまま学生寮を出た俺と志摩。  居心地の悪さだけが残っていて、何かを話さないと。そう思い、その背中に声を掛ければ志摩はこちらを振り返る。その顔にはいつもと変わらない笑顔が浮かんでいた。 「ああ、手首、痛かった? ……ごめんね?」 「そ、そうじゃなくて……あの、さっきのこと……なんだけど……」 「少し、言い過ぎなんじゃないかな、って……思って」いつもと変わらない志摩に、もしかしたら伝わるかもしれないと思って本心を口にすれば、ほんの一瞬、志摩の表情から笑顔が消えた。  そしてすぐに、笑みが浮かんだ。人良さそうな、柔らかい笑顔。 「……ああ、あれね」 「あれって……」 「それは俺も言い過ぎたかなって思ってたんだ。齋藤にまで気を使わせちゃってごめんね?」 「俺は……別に、いいんだけど……」 「齋藤は優しいね」 「……そうかな」  なんだろうか、いつもと変わらない志摩は、自分でも反省してると言ってるのに、なんだろう。釈然としない。  志摩は本当に自分が悪いと思ってるのだろうか。俺が今まで見てきた人間とは違う、ほんの一瞬だけ見せた目は確かに『なんで自分が責められないといけないんだ』と、そう言いたげな色が滲んでいたのがやけに引っ掛かった。  ……俺の考え過ぎなのだろうか。  志摩が何を考えてるのかわからない。 「ほら阿佐美ってああだろ? からかい甲斐あるからさ、ついね」 「……からかい?」 「そうそう。ああいう反応されると言い過ぎちゃうっていうかさ」 「じゃ……じゃあ、本気で怒ってたわけじゃ……」 「そんなわけないだろ?」  そう笑う志摩が嘘を吐いているようには見えなかった。  俺にはからかうとかそういうのが分からないが、もしかしたら一般的にはああいうのもちょっとしたからかいに入るのかもしれない。……俺には言い過ぎのように思えたが、志摩がそう言うのならそういうことなのだろうか。 「でも、あんまりそういうのはやめた方がいいと思う……」 「齋藤は本当優しいね、あんなやつのことを心配するんだ」 「そんな言い方……」 「ごめんね、気に障ったなら謝るよ。俺、結構言い方キツイみたいだからね」  志摩は笑う。自覚があることに驚いたが、相変わらずどこまでが本気なのかよく分からない。 「嫌いになった?」  答え倦ねていると、志摩に手を取られる。びっくりして顔を上げれば、そこには微笑む志摩がいて。 「俺のこと、嫌いになった?」  もう一度、同じ言葉を問われる。好きとか嫌いとか、簡単になるものではないだろう。少なくとも、なんでこのタイミングでそんなことを聞いてくるのか分からなかった。 「ぁ、あの……っ、志摩……」  志摩の指が触れる箇所が、熱い。距離が近い。こんなものなのだろうか。俺には普通の距離感と言うのがわからなかったが、向けられた視線はチクチクとだ刺さるようだった。 「これくらいで、嫌にならないよ……」  本当は、できることなら知りたくなかったが、志摩だって人間だ。嫌なところぐらいあっても可笑しくない。  そもそも、志摩は俺にどんな返事を求めているのか分からなかった。けれど、俺の言葉に、志摩は確かに心から笑った。ような気がした。 「良かった。……まあ、口の利き方には気を付けるよ。齋藤が嫌って言うなら」  軽薄で、どこまで本気か分からない。  たった一日二日で分かり合えるとは思っていなかったが、それでも、少しでも仲良くなれればと思ったのに。……知れば知るほどその認識の差に躊躇する。  喜べばいいのか、分からなかった。 「齋藤は随分とあいつが気に入ってるんだね」 「気に入ってるっていうか……その」 「どうして?」 「……どうしてって……普通、だと思うけど……」 「……普通ね」  そう、志摩はどこかに目を向ける。  なんだろうか。少しだけ、嫌なものを感じたが、気のせいだろうか。気が付けばいつもの志摩に戻っていて、俺達は他愛もない話をしながら学園へと向って歩き出す。  志摩に阿佐美の話をしない方がいいだろう。二人の間に何があったのか知らないが、部外者である俺が突っ込んでいい問題だと思えないからだ。  学園は昨日同様、たくさんの生徒で賑わっていた。  見慣れない制服に、見慣れない顔。前が共学校だっただけに男しかいないその図にはまだ見慣れそうにない。  矢追ヵ丘学園は、小中高エスカレーター式になっており、高等部に所属する生徒の大半は中等部からそのまま入学してるようだ。  それでも、矢追ヵ丘と言えばやはり、卒業生の著名人の多さだ。業界人や、その世界のでは名を残すようなたくさんの有名人を排出してることもあり、今では高等部からなど外部入学でやってくる生徒も少なくないという。志摩も、外部入学だと言っていた。  高等部だけでもその生徒の総数は700人を越しているらしい。転校前に読んだパンフレットにはそう書かれていた。  清潔感溢れる学園内。ピカピカに磨き上げられた廊下を歩いていると、教室が見えてきた。  外部入学の生徒が多いと言っても、二年生は全員一年の頃からいる生徒だという。内部生からしてみれば俺みたいな転校生は珍しいのかもしれない。  直接話し掛けてくることなく、遠巻きに眺めてくる周囲に内心冷や汗が滲む。  俺から挨拶していいのかどうかも分からなくて、同じクラスだったような気がする人には会釈してみたが、相手側会釈返してくれるがそれ以上何もない。……難しいな。 「気にすることないよ、どうせすぐに慣れるだろうから。あいつら、外部生には慣れてないからね」  そんな俺を見て、志摩はそうフォローしてくれたが、なんだか落ち着かない。  登校二日目。慣れない教室でまともに受ける授業は、各担当の教師からのこれからの大まかな授業の流れの説明だった。  教材は予め貰っていたのでなんとか遅れを取ることはなかったが、やはり、アウェー感は拭えない。  そんな気分のまま教師の言葉を聞き流していると、あっという間に授業は終わる。  響くチャイム。掛けられる号令を合図に、クラスメートたちはそれぞれ動き出す。俺もその内の一人だった。次の授業の準備に取り掛かろうとした時だ。 「あの、齋藤君」  不意に、クラスメートの一人に声を掛けられる。  もしかして、もしかして、話し掛けられてるのか?  一瞬、反応に困ったが、次に込み上げてきたのは『話しかけられた』と言う喜びだった。 「は、はいっ」とつい敬語で返事をしてしまったときだった、俺の大きな声に驚いたように目を丸くしたそのクラスメートは、若干引き気味に廊下を指した。 「……会長が呼んでる」  ……なんだ、話しかけられたわけではないのか。  落胆するのもつかの間、『会長』という単語に釣られて廊下に目を向ければ、そこには見覚えのある男子生徒の姿があった。  濡れたように艷やかな黒髪、銀のフレームの眼鏡、線の細く、長身なシルエット。  そして、右腕に嵌められた『生徒会長』という刺繍が刻まれた腕章。芳川会長だ。 「……え……?」  どうして、会長が。俺に用?  何がなんだか分からなくて、でも、無視するわけには行かないだろう。俺はクラスメートに「ありがとう」とだけ告げ、バタバタと廊下へ向った。  俺に気付いたらしい、芳川会長は軽く手を上げ、こちらへと歩み寄ってきた。 「悪いな、いきなり尋ねてきて」 「いえ、あの……俺は大丈夫なんですが……」 「そうか、なら安心した。迷惑だろうかと気になってたんだ」 「ところでどうだ、学園には慣れたか?」そう、芳川会長は笑い掛けてくる。  もしかして、俺が転校生だから気にかけてくれているのだろうか。  昨日の五味たちとのやり取りを思い出し、ハッとする。  そうか、でもまあそうだよな、普通、生徒会長がわざわざ俺を尋ねてくる理由なんてそれくらいしかないよな。そう思うと素直に喜べないが、それでも普通に考えれば、光栄なことなのだろう。 「はい。……けど、広くて、未だ道を覚えるのは時間が掛かりそうですけど」 「だろうな。特に学園は複雑な造りになってるから覚えるのは大変だろう。……君が良ければだが、案内させてくれても構わないか」 「えっ? か、会長が、ですか?」 「ああ。……迷惑だろうか?」 「え、ええと……その……」  まさか、そんな申し出を受ける日が来るとは思わなかった。  嬉しいし、有り難い。光栄なことだと思う、が、いかんせん、周囲の目を気にしないようにするには俺の肝は据わっていない。  芳川会長にファンが多いのは聞いていたが、二年にも多いようだ。  露骨な敵意を向けられ、平気でいられるはずがなかった。 「ありがとうございます。……けど、その、俺……友達に教えてもらうことになってるので……その、すみませんっ!」  慌てて頭を下げる。志摩をこんな風にダシに使うのは良心が痛むが、本人もいっていたし嘘ではない……はずだ。  芳川会長は少しだけ意外そうな顔をして、すぐにくしゃりと笑う。 「そうか、もう友達が出来たんだな。……なら、俺は無用だな。なに、気にするな、俺が勝手に頼んだことだからな」 「す、すみません……」 「気にするなと言ってるだろう。……俺は大体生徒会室にいる。何か困ったことがあればすぐに相談してくれ」 「ありがとうございます」 「それじゃあ……いきなり尋ねて悪かったな。君も授業の準備があるのだろう」  大変だろうが頑張れよ、と会長は軽く手を振り、その場を後にする。  途中、会長のことを見張ってたのだろうか。黒髪の生徒が会長の後ろについていく。その右腕にも生徒会の腕章が嵌められているのを見て、「あ」と思ったがそれもつかの間、あっという間に二人の姿は見えなくなった。  それにしても、ドッと疲れた。やっぱり会長は目立つな……。なんというか、こう、オーラとかそんなことを言うつもりはないが……妙な気迫があるというか。無意識の内に自分が緊張していることに気づいた。  残された俺は、一先ず周りの目から逃げるように教室へと戻った。  それからは、ゆっくりと日常は流れていく。  真新しい教科書を広げ、他の生徒たちに混ざって先生たちの話をノートに纏めていく。ハイレベルな授業内容かと思っていたが、内容は前通っていた学校と然程違いない。これなら俺も置いていかれないだろう。なんて思いつつ、忙しく板書を書き写してると。 「齋藤、会長とどこで知り合ったの?」  隣の席から声を掛けてくる。志摩だ。  どうやら志摩も俺が会長に呼び出されたのを見ていたらしい。 「ど……どこっていうか、あの、たまたま学生寮で会っただけだよ」 「ふーん。それにしても会長と仲良いんだね」  仲がいいと言っていいのだろうか。分からないが、頬杖をつきながら横目で俺をじっと見詰めてくる志摩に、なんだか嫌な圧を感じた。  そんなに俺の交友関係が気になるのだろうか。 「それにしてもあの会長さんがねぇ……珍しいこともあるんだね」 「珍しいの?」 「だって、会長って周り……っていうか親衛隊が一番調子づいてるからね。一般生徒は中々会う機会がないんだよ」 「……親衛隊……」 「それに、本人も本人だしね」  ボードを眺めながら、志摩はそう口にした。  どういう意味だろうか。含んだようなその物言いが引っ掛かって、「本人って?」って思わず聞き返せば、志摩の目がこちらを向いた。 「本人の性格もかなりキツイから、自分から不用意に近付かなければ興味ない人間は速攻切り捨てる。物好きはそこがクールで良いとか言うみたいだけどね」 「芳川会長が?」  会長がキツイ性格のようには見えないが……。  確かに真面目で芯が通ってるように思えるが、切り捨てるような人にら見えない。それに、何度か話したときの会長はいつも優しく笑ってくれていた。  志摩の言葉が信じれず、「そうなの?」と聞き返せば「そうなの」と志摩は投げやりに答えてくれる。 「実際、あんまり性格悪いものだから恨んでる人も多いし」  微かにトーンを落とし、志摩は続ける。  その言葉に、昨日の夜、芳川会長に突っかかっていたあの真っ赤な髪の男のことを思い出す。  確か名前は……。 「……阿賀松……」 「えっ? 齋藤、あいつのこと知ってるの?」 「い、いや、あの……チラッと会長と揉めてるところ見ちゃって……」 「……本当に? 大丈夫だった?」  やけに心配そうに見てくる志摩に、俺は慌てて首を縦に振る。本当は尻を揉まれたが、「大丈夫」と答えておく。 「……ならいいけど、絶対あいつにだけは近付かないようにね。絡まれたら本当、面倒だから」 「う、うん……そうだろうね」 「あいつはアンチ生徒会の頭っていうか……会長のことを嫌ってるから、会長と仲良くしてるとあいつらにも目を付けられて~なんてことも少なくないみたいだよ。本当、ろくなことないよね」  あいつら、ということは阿賀松みたいなのが他にもいるということだろうか。  芳川会長が恨まれてるなんて想像できないが、実際阿賀松と芳川会長のやり取りを見た俺は信じるしかない。  人間関係のゴタゴタはどこにでも起きるということか。平穏に過ごしたいなら会長と関わらない方がいい。  志摩の忠告はありがたいが、正直、昨日と今日で生徒会と関わりすぎてしまった感はある。  いや、まあ、考え過ぎだな……やめよう。新しい環境に慣れず、ナイーブになってるのかもしれない。俺は首を横に振り、思考を振り払う。  その日の授業は、緊張と不安であっという間に終わっていく。そして、教室の隅、取り付けられたスピーカーから授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

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