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02

 結局、阿佐美は最後まで教室に顔を出さなかった。  別れ方が別れ方だ。来ないだろうと思っていただけに、特に何も思わなかった。  全ての授業が終わり、下校準備をしていると、既に鞄を肩から掛けた志摩が机の傍へとやってきた。 「齋藤、今日どうする?」 「え?」 「『え?』……じゃないよ。今日だよ今日、せっかく長ったらしい授業終わったんだから遊ぼうよ。……それとも、何か用事でもあるの?」 「ない……けど……いいの?」 「いいのって、何が?」 「いや、あの……俺と、遊んでくれるの?」  自分でも中々変なことを言ってる気がしたが、こんな風に当たり前のように誘われるのは久し振りで、どう反応したらいいのか分からずこんな反応になってしまったのだ。仕方ない。  恐る恐る確認する俺に、志摩は噴き出した。 「っ、ぷ……ふふッ、齋藤って本当、変わってるよね。遊びたくない相手、誘わないよ俺」 「ご、ごめん……」 「謝らなくていいよ。……それと、その返事は『遊べるよ』ってことでいいのかな?」 「う……うん」  頷き返せば、志摩は「決まりだね」とにこりと笑う。 「それじゃあ、一度寮に戻って着替えて会おうよ。……そんで夜までさ、時間あるんだしどっかぶらぶらしようか」 「うん、分かった」  やっぱり、俺自身がこんな性格だからだろう、志摩のように誘ってもらえるのは有り難い。  というわけで、俺達は一度寮まで一緒に戻ることになったのだけれど。 「そういえば、志摩の部屋って何号室なの?」 「303号室だけど……何?それ聞くってことは明日から齋藤が毎朝起こしに来てくれるの期待していいってこと?」 「ち、違うけど……」 「なんだ、残念」  303号室。サンマルサン……。  初日から持ち歩いてる寮内マップで確認する。  俺の自室からは少し離れてるようだ。  学生寮三階。俺達はまた後で落ち合う約束をして、それぞれ自室へと戻ることにした。  鍵を使って扉を開けば、そこは今朝と変わらない部屋が広がっている。阿佐美の姿はなかった。  出掛けているのだろうか。部屋に籠もってばかりいるよりかはましだが、なんとなく気になった。  しかし、それよりも志摩だ。俺はウキウキ気分のまま、服を着替える。私服に着替え、脱ぎ捨てた制服を付属の洗濯機に突っ込んだときだ、玄関の開く音が聞こえてきた。  阿佐美が帰ってきたようだ。 「おかえり、詩織」 「ゆ、ゆうき君……ただいま。早かったんだね」 「そうかな……ああ、でも、まあ俺帰宅部だから……」 「そっか、学校楽しかった?」 「うん、楽しかった……というより、安心したよ。勉強分かりやすいし、凄いやっぱり教室が綺麗だといいよね」 「……そう、それなら良かったよ」  どうやら阿佐美は買い物に行ってたようだ。  両腕に買い物袋をぶら下げた阿佐美は部屋に上がり、テーブルの上においていく。  中にはジャンクフードから始まって冷凍食品、ジュースにケーキ、アイスなんかも入ってた。 「詩織って、結構食べるよね」 「そうかな?」 「そうだよ」 「俺からしたら、ゆうき君が食べなさすぎるだけのような気がするんだけど……」  それにしてもだ、阿佐美の食べってぷりは健康男児とかそんな理由のように思えないのだが。  もしかして、だから大きいのだろうか。  改めて頭一個分程上にある阿佐美を見上げる 「ど、どうしたの……? 寝癖ついてる?」 「ち、違うよ。……あの、詩織って背、高いなって思って……」  中学のときに比べれば俺も大分伸びた方だと思うが、阿佐美のそれは成長期だからというようには思えない。こういうのってやっぱり、遺伝とかも関係するのだろうか。  そう言えば生徒会副会長……五味や、あの阿賀松という男も阿佐美と同じくらいあるんじゃないだろうか。まじまじと観察してると、阿佐美は気恥ずかしそうに俯く。 「ゆ、ゆうき君……見過ぎだよ……」 「あっ、ご、ごめん……」 「……やっぱり、そんなに変かな……」 「変っていうか、その、目立つし……」  と、言い掛けてハッとする。しまった、フォローのつもりが全然フォロー出来ていない。表情は分かりにくいが、阿佐美がショックを受けてるのは明白だ。  ど、どうしよう。俺は慌ててない知識をフル動員させ、阿佐美へのフォローを考える。 『足が長くてスタイルもよくて羨ましい』?そんなお世辞丸出しみたいなこと言えない。 『便利でいいよな』?余計嫌われる。ど、どうしよう……思いつかない。 「本当は、嫌なんだけどね、目立つの……」 「う、うん……」 「けど、まあ、仕方ないよね。削るわけにもいかないし」 「うん……」  フォローするつもりが、見兼ねた阿佐美の方から俺をフォローしてくれる。申し訳ないの二乗だ。 「でも、俺、詩織みたいに身長高いの、羨ましいけどな」 「……そう?」 「だって、その……ほら、上手く言えないけど……視野が広くなって、よく見えるし」 「……」  いいフォローが見つかったと思って発言したつもりだが、しまった。全然フォローになってなかったか?  阿佐美の沈黙が怖くて、汗がだらだらと流れてくる。慣れないことするもんじゃない、余計なこと言うもんじゃない。自分を強く戒めてると、不意に、阿佐美に「あの」と肩を掴まれる。 「ゆうき君、たこ焼き食べる?」 「へっ?」 「……あ、ごめん……なんか、あげたくなったから……」  俺はふれあいコーナーの動物か何かだろうか。  屋台で買ってきたのだろうか、袋からたこ焼きを取り出した阿佐美はそんなことを言い出した。  突拍子もない阿佐美の言葉にも驚いたが、驚きすぎてさっきまでウンウン悩んでたのもどうでもよくなった。半ばヤケクソになり、「食べる」と阿佐美に頷き返す。 「そう、ならよかった。……これ美味しかったから、ゆうき君も好きになってくれると嬉しいな」 「じゃあ、あーん」と、串に刺したたこ焼きを一玉持ち上げる阿佐美。  まさか食べさせてくれるとは思ってなくて、俺は狼狽えながらも言われるがまま阿佐美に向って口を開いた。  阿佐美から見れば喉の奥まで見えてるかもしれないと思うと恥ずかしいが、口の周りを汚すよりはましだろう。  そう思ったのだが、ゆっくりと近付いてくるたこ焼きに無意識に舌が窄まる。そして、ソースの匂いが一層濃くなったとき、舌に何かが触れた。たこ焼きだ。  熱くはないが、やはり大きさがあるので少し、食べるのに手こずってしまう。 「美味しい?」 「……美味しい」 「そっか、よかった。ね、もう一個あるよ?」 「い、いいよ……もう、詩織の分がなくなっちゃうよ」  思った以上に、男にあーんされると堪えるものがあった。恥ずかしさで阿佐美の顔が直視できないまま俺は、逃げるように部屋の壁掛け時計に目を向けた。そろそろ、志摩も待っている頃だろう。俺は阿佐美に「ちょっと出掛けてくる」とだけ告げ、部屋を後にした。  待ち合わせ場所であるラウンジに志摩の姿はなかった。  もしかして早すぎたのだろうか。まあ、それでもここで待ってたら間違いはないか。自販機でお茶を買い、志摩を待つこと数十分。辺りは部活終わりの生徒の姿が多くなる。が、どこにも志摩の姿はなかった。  結局その日、辺りが暗くなっても志摩はやってこなかった。 「ゆうき君、おかえりなさい。……早かったね」 「……うん」  約束の時間から数時間経ち、俺は自室へと戻ってきていた。  志摩は、来なかった。  俺の表情から何か察したのだろう。阿佐美はそれ以上問い詰めてくることはなかった。  俺は、悩んでいた。志摩の部屋へいこうか、かなり悩んでいた。  でも、さすがに図々しいかもしれない。志摩にも都合があるんだし。けれど、もし本当に何かあったんだとしたら。 「……」  よし、志摩の部屋へ行こう。  立ち上がり、鍵をポケットに突っ込む。  阿佐美はどこかに出掛けているようだった。  部屋を出た俺は念のため戸締まりをし、そのまま歩き出した。  確か、303号室だったよな。  まだ寮内の全貌を把握できたわけではないけど、部屋を出てどういう風に歩けば志摩の部屋に着くかということだけは先程寮内マップを叩き込んでいたお陰でなんとかなった。  それにしてもこの学園は広いし部屋の数は多いし似たような道が多いしで大変だ。志摩がいるときといないときでこんなに違うとは。  303号室前。  思い切ってノックする。が、反応がない。扉横の呼び鈴を押してみるものの、やはり反応がなかった。  もしかして、出掛けているのだろうか。あんなに志摩の方から誘ってきたんだ、すっぽかされることはないだろうと思ったが、もしかして急用とか出来たのだろうか、と考えたときだった。  遠くからバタバタと煩い足音が聞こえてくる。そして、次の瞬間。勢い良く扉が開き、目の前を扉が掠めた。  そこに現れたのは……。 「あれ? 佑樹?」 「と、十勝君……?」  部屋から出てきたのは十勝だった。  なんで十勝が志摩の部屋に?と疑問に思ったが、もしかして十勝の同室者って志摩なのか。 「あ、あの……志摩は?」 「亮太? ……あーあいつなら、多分外にいってんじゃないかなあ。ごめん、わかんねえわ」 「いや、ありがとう」 「あいつになんか用事? 伝言あるなら伝えとこうか?」  そういう十勝に、首を横に振る。そこまで大事な用でもない。わざわ別れざ十勝の手を煩わせることもない。十勝は「そうか?」と不思議そうな顔をした。  十勝と別れ、俺は303号室前を後にした。  十勝の姿が見えなくなって、ようやく、全身の緊張が解けた。 「……はぁ」  結局志摩には会えなかった。どうしたんだろう、志摩。ちゃんと連絡先を交換しておくんだった。  トボトボと歩く。ここにいても仕方ない。俺は最後にもう一度待ち合わせ場所へと向かうことにした。の、だけれど。  学生寮三階。エレベーターホールに向かって歩いていると、ふと、背後から視線を感じた。  振り向くと、数人の生徒がこちらを睨むように見ているではないか。ぶつかる視線。相手は視線を逸らせば、何やら耳打ちをし合う。俺は、視線から逃げるように、慌ててそこを離れた。  なんだろうか、今の。姿が見えなくなっても、なんとなく居心地が悪かった。  自意識過剰、とかではないはずだ。悪意のある視線。それらには身に覚えが合った。  そこまで考えて、授業中の志摩との会話を思い出す。 「親衛隊……」  いや、まさか。男に男の親衛隊っていうのも珍しいのに、男が男に嫉妬するなんて。しかし、完全に否定はできない。……考え過ぎだろうか。  志摩が大袈裟に言ってきたせいで、余計不安を煽られる。  忘れよう。足早にエレベーター乗り場へと向かおうとしたときだった。 「おい」  後方から声が、聞こえてきた。 「……」  聞き慣れない声。誰のことを呼んでるのだろうかと思いながら辺りを探すが、人影は見当たらない。 「おい、無視するな!」  ……もしかして、俺?  威圧的なその声に驚いて、慌てて振り返ればそこには、一言でいえば派手な青年がいた。  白に近いピンクの頭髪。それなのに、どことなく品がある顔立ちのその気の強そうな青年はずかずかと俺に近付いてきた。 「あ、あの……何か……?」 「何か? じゃない! さっきから僕が呼んでるっていうのに、無視しやがって、生意気なんだよ!」 「え、ええと……ご、ごめんなさい」  もしかして、俺、絡まれてるのか?  大きな声に鼓膜がビリビリと痛む。それよりも、なんでだ、なんで俺が絡まれるんだ。  同い年くらいだろうか。仏頂面のその青年は俺の胸ぐらを掴み、そしてぐっと顔を寄せてきた。 「あ、あの……」 「その冴えない面……お前、齋藤佑樹だな」  さ、冴えない……?!  何故見知らぬ人間にいきなり罵倒されなければならないのか頭を痛めるのもつかの間、ピンク頭は俺のネクタイをぐっと掴み、それから通路の奥に向って手を振った。 「伊織さん、見つけましたよ。こいつですよね、齋藤佑樹!」  伊織さん……?  つい再最近どこかで聞いたことあるその名に小首を傾げたときだった。  ぬっと現れた影に、俺は、息を飲む 「ああ、間違いねえよ。……流石だなぁ、安久(あぐ)ちゃん。いい子だ」 「そ、そんな! えへへへ、こんなこと朝飯前ですよ!」  現れたそいつは安久と呼ばれたピンク頭の頭を撫で、笑う。そして、俺と目が合えばだらしなく口を歪めた。 「……また会ったな、ユウキ君」  阿賀松伊織はそう、目を細める。  蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだろう。  ◆ ◆ ◆ 「ユウキ君、転入生なんだってねえ。すごい頭いいんだ」 「い、いえ、そんな……ことは……」  阿賀松は俺の肩に腕を回し、どこかへと足を向かわせる。  少しでも足を止めようとすると、「止まるな! 危ないだろ!」と安久に怒鳴られ、無理矢理背中を押されるのだ。  なんなんだこの状況は。嫌な汗が額に滲む。妙にフレンドリーな阿賀松の態度が逆に恐ろしく、俺は抵抗することもできなかった。 「なんで転校してきたわけ? やっぱりあれ? おうちの都合?」 「そういうわけではないんですけど……」 「へえ、なら当ててやろうか。前の学校で何か問題があったからだろ」 「……え」 「それも、お前は被害者だろ。……いじめか?」  ねっとりと絡み付いてくるその低い声に、血の気が引く。  本気か、冗談か、分からない。それでも、図星を指された俺としては全く笑えなかった。  目の前が真っ暗になる。立ち止まりそうになって、阿賀松に肩を押される、 「なんだ、やっぱ図星か?」 「……」 「どうして知ってるんだ、って顔してんぞ。お前。知りたいんなら教えてやろうか、分かるんだよ。他人から虐げられてきた人間っつーのは、全身から出てるんだよ、そういうもんが、いくら服着て取り繕おうが歪められた根底までは変わんねえの」 「引き気味の腰、曖昧に濁す語尾、考える時に視線を泳がせるくせに目の前の人間は見ようとしねえ。他人を拒絶しようとしてんの、バレバレなんだよ」ろくに話したこともない男に腹の底を覗かれてるような不快感に、目の前が、足場が揺らぐ。錯覚だと分かっていたが、それでも、視界が暗くなる。 「違い……ます……っそんな……」 「そうか、ならどうして俺の目を見て言わねえの?」 「……ッ」  適当だ、嘘八百だ、俺は別に虐められていない。言い張ればいい、事実無根だと胸を張ればいい。分かっていたが、それすらできないのは阿賀松の言葉が図星だからか。  冷たい汗が背筋を流れる。  どこまで、行くつもりなのだろうか。通路がやけに長く感じた。気が遠くなる。三人分の足音が響く、人気のない通路。  どれくらい経っただろうか。然程時間が経っていないようにも感じられた。  不意に、阿賀松はトイレの前で立ち止まった。  どうして、ここに。と思う前に、阿賀松に「入れよ」と肩を叩かれる。俺は、血の気が引いた。  たかがトイレだと思うが、俺にとってここは、誰かと一緒に行きたくない場所だった。内側鍵を掛けることで簡単に作り出せる個室、そこは、逃げられない密室も同然だ。 「い、嫌だ……どうして、俺が……っ」 「うるせぇ、いいから入れよ。……安久ちゃん、見張っとけよ」 「了解です」  逃げないと、と思うが首根っこを掴まれ、引きずれればどうしようもない。半ば強引に個室へと押し込められる。 「っ、ぅ、ぐ」  突き飛ばされたと思えば、思いっきり壁にぶつかった。  流石金持ち学園。個室まで広く、綺麗だったが今の俺にとって自由に動ける程のこの広さは恐怖でしかなかった。  ……逃げなければ。そう、体制を立て直そうとしたとき、背後でガチャリと鍵が掛かる音が聞こえた。  伸びてきた阿賀松の手に胸倉を掴まれた。そして、乱暴に壁に背中を押し付けられる。  背骨が痛むとか、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。 「……っ」 「……その目、自分が何されるか分かってるみてぇだな」 「そりゃ、話早くて良いな」そう、下品な笑みを浮かべる阿賀松。片方の手が制服の裾を持ち上げ、直に腹部を撫でられれば全身が泡立つ。 「は、離し……ッ」 「へぇ、結構細いな。……こりゃ締りよさそうだ」 「ぃ……ッ」  臍の窪み、筋肉と呼ぶには頼りなさすぎる筋をなぞり、阿賀松は舌なめずりをする。  赤い舌に埋め込まれた銀のピアスが視界に入り、血の気が引いた。  阿賀松が何を言っているのか理解できなかった。否、したくなかった。  このままではまずい。そう直感した俺は思い切って、阿賀松の腕に爪を立てた。 「っ、離して、下さい……ッ」  少しでも怯んだら、その隙に逃げよう。そう思ったのに、阿賀松の力は一向に緩まなくて。  それどころか。 「……何、うぜえことしてくれてんの、お前」  阿賀松の白い腕に走る、一本の赤い線にじわりと血が滲む。それに目を向けた阿賀松の表情から笑みが消えた。瞬間、腹部に鉛のように重い衝撃が走った。 「ッ、ぅ、げ……ッ」  潰された肺から空気が溢れ、口から唾液が溢れた。  目の前が白くなり、それから焼けるように剥き出しになった腹部がずきずきと疼き始める。 「……せっかく可愛がってやろうと思ったのによぉ……冷めるようなことしてんじゃねえよ」 「ぁ……ひ……ッ」 「それとも、ユウキ君は痛いのがお好みか?」  阿賀松の硬い拳の感触が残るそこをなぞられれば、自分の体ではないようにびくりと全身が震えた。  下腹部に力が入らず、へたり込みそうになる俺を引き上げ、阿賀松は笑う。 「次余計な真似したら肋にヒビ入れてやるよ」 「どうだ? 考えただけでゾクゾクするだろ?」長い爪が浮かぶ肋を撫でた。血の気が引いていく。  見た目だけではなく、中身もろくでもない男のようだ、この阿賀松という男は。  逃げ出したいのに、全身に力が入らない。阿賀松は、本気だ。笑顔を浮かべておきながら全く笑っていないその目に見覚えがあった。  阿賀松の目は、痛めつけることをなんとも思わない目だ。

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