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四月五日目【変動】

 誰かの携帯のアラームで目を覚ます。  ゆっくりと瞼を持ち上げれば、すぐ隣で何かが動く気配がした。そちらに目を向ければ、ベッドの傍、志摩が立っていた。  ぎょっとしていると、志摩は何事もなかったかのように「おはよう、齋藤」と微笑む。  いつ起きていたのか、いつからそこにいたのか、既に制服に着替えてる志摩。まだ目が覚めきっていない俺は「おはよう」とだけ答えた。  それから、自分が昨夜志摩と十勝の部屋にお邪魔したことを思い出す。通りでいつもとベッドが違うと思いきや。 「……齋藤、寝癖すごいよ。鏡見てきなよ」 「……ん」 「齋藤、そっちは洗面台じゃないよ。こっち。……大丈夫?まだ寝惚けてる?」 「大丈夫……」 「本当かな」  志摩に見守られつつ、俺は洗面室へとよろよろ向かった。冷たい水で顔を洗えば、寝ぼけていた脳味噌も次第に覚醒していく。  ……緊張して眠れないかと思っていたが、爆睡だったな。  それ程安心したのだろうか。思いながら、俺は借りたタオルで顔の水滴を拭った。  すると、扉から十勝が入ってきた。 「おーおはよ、佑樹」 「おはよう、十勝君。……今日はいつも通りなんだね」 「そーそー、いつも生徒会があるってわけじゃないからな。昨日はよく寝れたか?」 「うん、お陰様で……」 「そりゃ良かった。俺としてはもっと佑樹と積もる話をしたかったんだけどな」 「はは……ごめんね」 「またゆっくり話し聞かせろよ」 「うん」  十勝に洗面台を空け渡し、部屋に戻ると志摩が水を飲んでいるところだった。 「そうだ齋藤、そこに乾いた制服置いてるから。後下着と」 「あ、ありがとう……」 「一応アイロンは掛けておいたから皺にはなってないと思うけど」 「そこまでしてくれたんだ……なんかごめんね」 「別に? 嫌いじゃないし、俺が好きでやったんだから気にしなくていいよ」  ソファーの上、置かれた制服には皺一つついていない。  志摩は面倒見がいいというか、しっかりしてるというか、アイロンなんて俺には無縁のものだ。使用人たちが全部してくれていただけに、こうして同い年の志摩が同じことをしてると思うとなんとなく何も出来ない自分が恥ずかしくなる。それと同時に尊敬の念を覚えた。 「朝は食堂でいいよね。……あまり遅くなると混むから、早めに出て朝食を済ませようよ」 「う、うん……分かった」  確かに、この学園の食堂のピーク時はやばい。  俺は、志摩に急かされるまま、十勝のスペースを借りて慌てて制服に着替えた。やっぱり自分の下着が一番しっくりくる。  着替えた服は志摩が回収した。流石に下着は買い直して渡すと言ったのだが、志摩は「別にいいから」の一点張りで、結局志摩の好意に甘えることとなる。  そして、準備を済ませ、食堂へ向かおうとしたとき。  無機質な着信音が辺りに響く。制服から携帯端末を取り出した志摩は、そこに表示された文字を見て、顔色を変えた。 「……志摩?」 「……ごめん、齋藤、少し、外で待っててくれる?」  どことなく、その表情は固い。  どこから電話が掛かったのだろうか、気になったが、今は志摩に従うことにした。俺は頷き返し、部屋の外で待つことにした。  ……大丈夫だろうか、志摩。あまりいい電話ではないようだったが、変に深入りするのも失礼かもしれない。  学生寮三階・303号室通路前。  そんなことを考えながら志摩を待っていたときだった。  こつり、こつりと、硬質な音が響く。それは、足音だった。  何気なく顔を上げ、足音のする方へと顔を向けた俺はそこで停止した。 「俺がいながら、他の男の部屋でお泊りとは良い御身分だなァ?……ユウキ君」  聞き覚えのある、絡みつくような粘着質な低い声。血よりも赤い、その派手な頭髪に血の気が引いた。  どうして、どうして、阿賀松が、ここに。  逃げなければ、と、動くよりも先に、詰め寄ってきた阿賀松に肩を抱かれる。 「俺に言わねえといけねえことがあるんじゃねーか?」 「……ッ、……」 「着いて来い……それとも、俺に運ばれたいか?」  肩に食い込む指先に、耳朶に触れる吐息に、気が遠くなるようだった。すぐ扉の向こうには志摩がいる。志摩に助けを求めれば、と思うのに、頭に拳銃を突き付けられたみたいに身体は動かない。この男に力で敵わないと散々知らされているだけ、余計、それは呪縛にも似ていた。 「自分で歩け。……早くしろ」  歯向かうことなんて、できるわけがなかった。  移動中、生きた心地がしなかった。  逃げなければ、逃げなければ、このままついていってしまってはだめだ。頭の中では理解していたのに、見張るような阿賀松の鋭い視線を背後から痛い程感じては体が竦むのだ。  すこしでも逃げ出そうとすれば、本当に何をされるか分からない。  恋人のように肩を組んでくる阿賀松に、通りかかる生徒たちは顔を青くしてはさっと見ないふりをした。  ……誰も、助けてくれない。当たり前だ、関わりたくないというのが本音のはずだ。俺だって、本当だったら……。  そこまで考えた時、阿賀松が立ち止まる。そして、目の前の扉をカードキーで解錠し、開いた。 「おら、入れよ」  そういうなり、阿賀松は強く俺の背中を押した。バランスを崩しそうになり、壁に手を着き寸でのところで耐える。  ひやりとした部屋の中、複数の目がこちらを向いた。 「伊織さん、おかえりなさ……あっ! お前!」  まず、一番最初に玄関口へと駆け寄ってきた安久は俺の姿を見るなり露骨に嫌そうな顔をする。  それは、俺も同じだ。そして、部屋には仁科と、もう一人……。 「……っ、か、栫井……?」 「……」  広間の中、壁に凭れて座っていた栫井は俺の姿を見て、変わらない表情のまま咥えていた煙草を床の灰皿に押し付ける。紫煙の篭った部屋の中。明らかに異様な空気が漂っていた。  それよりも、生徒会副会長である栫井が何故安久たちと一緒にいるのか、俺には分からなくて。 「平佑、お前の言う通りノコノコ出てきたぜ、こいつ。たまには役に立つじゃねえの」 「……俺はくだらねー嘘を吐かねえよ。あんたらと違ってな」  そう言って、栫井は内ポケットから取り出したボックスから新しい煙草を取り出し、咥える。  何が、何を、言ってるのか理解するのに時間が掛かった。  栫井が、教えたのか?阿賀松に?居場所を?何故?  疑問符が浮かんでは消え、今はそれどころではないことに気付いた。 「何突っ立ってんだよ、さっさと入れよ」  首根っこを掴まれ、阿賀松に部屋の奥へと引き摺られる。  そして、思いっきり床へと投げ捨てられれば、ろくに受け身が取れずに右肩から背筋に掛けて鈍い痛みが走った。 「っ、つ、ぅ」 「お前、よくも俺が呼んでやってたのを無視して他の野郎んところに行けたな。良い度胸じゃねえの」 「っ、ご、めんなさ……」  言い掛けて、胸ぐらを掴まれる。ぎゅっと首元が締め付けられ、息苦しさに血の気が引く。  阿賀松の顔がぐっと近づき、鼻先同士が擦れ合う程の至近距離、笑みが消えたその目は俺を睨む。 「お前……まじでごめんなさいで済むと思ってんのか?」  空気を凍らせる程のその殺気に、誰一人口を挟まなかった。俺も、何も言えなかった。何か返せばその瞬間ぶん殴られそうな程のそれに、呼吸することすら躊躇われて。  押し黙る俺に、阿賀松は舌打ちをする。そして、乱暴に俺を引っ張り上げ、それから「安久」と傍で固まっていた安久の名前を呼んだ。 「は……はい、伊織さん!」 「こいつの処分、お前に任せる」 「……え?」  言い終わるや否や、阿賀松は俺の体を安久へと押し付けた。安久の声には確かに困惑の色が滲んでいて、それもムリもない、俺自身阿賀松が何を企んでるのか解らなかった。 「だから、好きにしろっつってんの。……二度と、俺に逆らわねえようにさぁ……な?安久ちゃん、そういうの好きだろ」  驚いていた安久も、阿賀松に問いかけられ、すぐにその顔に笑みが浮かぶ。  それは、阿賀松の言葉に対する反応というよりは阿賀松に頼まれたことが嬉しいといったような表情に見えた。 「分かりました、伊織さんの仰せのままに」  恍惚とした表情で、安久は恭しく阿賀松に頭を下げた。  冗談じゃない、青褪める俺は咄嗟に栫井と仁科に目を向けるが、二人は傍観に徹していた。何をされるかわかりたくもなかった。  俺は、安久を振り払い、玄関へと逃げ出そうとするがすぐにネクタイを掴まれる。 「……ていうかさ、この状況でよく逃げようと思うよね」 「は、なし……ッ!」 「安久、そっちの部屋使ってもいいから」 「ありがとうございます、伊織さん」  猫のように目を細め、笑う安久。冗談じゃない。  が、逃げようとすればするほど首へと繋がる手綱を乱暴に引っ張られ、ろくに歩くこともできなくて。半ば引きずるような形で、安久に隣の部屋へと引っ張り込まれる。 「っ、う、ぁ」  ネクタイを引っ張る手が離れたかと思えば、次の瞬間乱暴に床へと投げ出された。  咄嗟に受け身を取り、立ち上がろうとすれば背後から思いっきりケツを蹴り上げれたた。再び床の上に這いつくばる俺の前、安久は人を虫けらか何かを見るかのような目でこちらを見下ろす。 「……伊織さんの頼みとは言え、正直お前みたいなの、全く興が乗らないんだけど」 「なら、どうして……」 「どうしてって……決まってるだろ、伊織さんが喜ぶから。伊織さんが僕のこと、褒めてくれるから、喜んでくれるから、認めてくれるから」 「……それ以外に理由なんてなくない?」そう、至極当然かのように言葉を吐き出す安久。薄暗い室内でもやつが笑ってるのは確かに感じた。  こいつはおかしい。こいつだけではない、あの阿賀松とかいう男もだ。目的のためならば倫理の欠片もない行動を取る。  早く、逃げなければ。そう思うが、すぐ扉の向こうには栫井と阿賀松がいるはずだ。二人の隙を狙うことができるか分からないが、今はただ目の前の安久から逃げ出したかった。けれど。  よろよろと膝に力を込め、立ち上がろうとしたときだった。  安久が、近くのサイドボードの上から何かを手に取った。そして、思いっきりそれを俺に向かって振り下ろした。 「っ、う゛ッ!!」  脳味噌が直接揺さぶられるような衝撃に、一瞬、本当に意識が飛んでいた。痛みより先に、大量の熱が額から溢れ出すのを感じた。手足から力が抜け落ちる。その隙を狙って、安久は俺の上に跨った。マウントポジション。間接照明に照らされ、やつの手に握られたガラス製の分厚い灰皿が鈍く光る。そこには赤黒い液体が付着していた。それだけではない。額を抑えた掌も赤黒く染まっていて。  辺りに濃厚な鉄の匂いが充満する。痺れるような鈍痛に、今度こそ俺は身の危険を、命の危険を覚えた。  本気で、殺される。 「ッ、ねえ、ジタバタ逃げるなよ……」 「っ、は……っ、はーっ、ぁ……ッ、う……ッ」 「次は、手加減するつもり無いから」  そう言って、安久は俺の胸を叩いた。  続いて、シャツの襟元に手を掛ける。 「っ、や、め……」 「お前に拒否権があると思ってるの?」 「言っとくけど、僕は伊織さんみたいに優しくないから」ただで帰れるとは思わないでね、と、口にする安久の言葉はまるで悪魔のようにすら思えた。  人は命の危険を感じると保身のために自然とセーブが掛かるようだ。  抵抗することなんて、できなかった。もしそんなマネでもしてみろ、本当に殺されると思ったからだ。  逆らわない。言うことを聞く。それが俺にできることだった。  出血の中、俺は、自分が何をしていたのか何をしていたのかすら覚えていない。それも、きっと保身のためだろう。自分の意識を守るため。……そう思わなければ、保てそうになかった。  事実、俺はいつから自分が気絶していたのか、覚えていなかった。気が付けば俺は泥のように眠っていた。ただ、全身の倦怠感、痛みは紛れもなく本物だ。  後頭部、違和感を覚えつつ目を開く。そしてまず視界に飛び込んできたのは見覚えのある自室の天井……ではなく、こちらを覗き込む赤い髪の男だった。 「ようやくお目覚めか、俺の膝はそんなに寝心地良かったか?」  そう、厭らしく笑う阿賀松。その口から飛び出した『膝』という単語に、俺は自分の状態を理解する。阿賀松が胡座を掻いた膝の上、頭を乗せていたようだ。だから違和感があったのかもしれない。血の気が引き、あわてて俺は飛び起きた。拍子に節々が悲鳴をあげた。 「ツ……ッ」 「んだよ、もっと寝てた方がいいんじゃねえの? その傷じゃ、キツイだろ」  そう、阿賀松はニヤニヤと笑いながら俺の頭部を指差した。  そっと、酷く痛む額に触れる。ガーゼの感触。手当されているのか、よく見るとシャツも着ていたものとは違う、血のシミ一つ無いものへと着替えさせられていた。 「……これ……」 「せっかくの可愛い顔に傷が残ったら可哀想だしな」 「あ、ありがとう……ございます……」 「ありがとうございます、ねえ……」  そう、阿賀松は笑う。確かに、元はと言えばこの男が安久に命じた内容が原因だ。何故俺がお礼を言わなければならないのかわからなかった。恥ずかしくなるとともに、恐怖を覚える。こいつが何を考えてるのかまるで理解できない。  そういえば、と部屋を見渡した。そこには安久も仁科も栫井の姿も見当たらなかった。 「安久ちゃんたちならここにいねーから安心しろよ。……部屋にいるのは俺とユウキ君の二人きりだから」  そう、阿賀松は口元を緩める。それは笑みと呼ぶには歪で。そっと髪に触れられると、ぞわりと背筋が震える。俺は、逃げるように身を引いた。体の痛みになんてなりふり構ってられなかった。命の方が惜しいからだ。 「っ、どうして……こんな……こと」  聞いても無駄だと分かっていながらもそんなことを聞いてしまったのは、沈黙が怖かったからかもしれない。空気に飲まれそうになるのを避けたかった。けれど、平常心で尋ねることはできなかった。上ずる声。阿賀松は「どうしてだと思う?」と逆に聞き返してきた。  そんなこと、知るわけがない。わかりたくもない。  押し黙る俺に、阿賀松は俺の返答を待たずに口を開いた。 「ユウキ君、俺と芳川どっちが好き?」  それは突拍子もない質問だった。  なぜここで芳川会長の名前が、と狼狽えていると。 「どっちが好きだって聞いてんだよ」  顎先をぐっと掴まれ、真正面、やつに目を覗き込まれる。そこに、先程までのだらしない笑みはない。冷たく、鋭利な双眼がこちらを睨んでいた。  こんなもの実質一択を突きつけられてるようなものだった。 「……ぁ……がまつ……先輩……」  です、と応えると同時に、阿賀松に唇を重ねられる。後頭部に回された無骨な手に頭を押さえつけられ、噛み付くように唇を貪られる。息をする暇もなかった。くぐもった声が漏れる。それごと、飲まれた。  すぐに、阿賀松の唇は離れた。  糸を引く舌先で自身の唇を舐めとった阿賀松は、にやりと厭な笑みを浮かべた。 「……その言葉、忘れんなよ」  その場しのぎ、とにかく保身を第一に動いていた俺は、今だけは自分の選択が誤ったような気がしてならなかった。  何故自分がこんな目に遭わなければならないのか。  阿賀松の呼び出しを無視したからと言えばその通りなのだが、別段目立った真似をしたつもりでもないのに阿賀松に目を付けられては理不尽な目に遭わされるこの状況は堪らない。  阿賀松は俺の言質を取るなり、俺をあっさりと帰らせた。「またな」なんて言っていたが、またあの男に会わなければならないという状況を考えるだけで身が竦む。  ……何を企んでるつもりなのか。  今すぐにでも逃げ出したいくらいだが、俺に逃げ場なんて自分の部屋くらいしかない。  痛む体を無理矢理動かし、俺は自室へ向かって歩き出す。授業中からか、幸い通路に人気がない。俺は誰かにこんな姿を見られるよりも先に逃げるように自室へも戻った。  自室前。  恐る恐る扉の鍵を差し込んだときだ。勢いよく、扉が開けられる。そして、そこには。 「っ、齋藤……」  そこには、志摩亮太がいた。大きく目を見開いた志摩は、俺の顔を見るなり言葉を失った。  そして、続いて部屋の奥からよく見知った人物が現れる。 「ゆうき君その怪我……」  俺の帰りを待っていたのだろうか。阿佐美は、俺の顔を見るなり声を震わせた。  まさか、志摩もいるなんて思っていなかっただけに、酷く焦る自分がいた。 「どうしたの、それ」 「別に、大したことじゃないよ。ちょっと色々あって」 「大したことないわけないよね。いきなりいなくなるし、鞄落ちてるし、おまけにようやく戻ってきたらその怪我って……何があったの?」 「……」  問い詰めてくる志摩に、俺は言葉を飲む。  言えるわけない、何があったかなんて。 「本当、大丈夫だから……心配かけてごめんね」  そうとしか言いようがないのだ。相談できたらそれが一番いいのかもしれないが、この二人を巻き込むのも気が引けた。それに、何よりも自分がされてきたこと内容その醜態をようやく出来た友達に話さなければならないなんてことが何よりも苦痛なのだ。それなら一人で耐えた方がまだウン千倍もましだ。  そのときだ。阿佐美の顔が近づく。え、と思ったよりも先に、俺の首元に顔を寄せた阿佐美は、そのままこちらを覗き込んでくる。 「……っし、詩織……?」 「香水。……ゆうき君つけてなかったよね」  匂いの異変に気付いたのか、その指摘に俺は阿賀松の顔を思い出す。吐き気を覚えるほどの甘ったるいその香水には嗅ぎ憶えがあったからだ。  心音が弾む、冷や汗が滲む。 「……それ、は……」  狼狽える。返す言葉が見つからなかった。  そんな俺をよそに、志摩と阿佐美は何やら視線を交わした。そして、口を開いたのは志摩だった。 「齋藤が話すつもりないならいいよ。……それじゃ、俺は用事思い出したから失礼するね」 「志摩……あの……」 「ああそれと、あまりその顔で出歩かない方がいいよ」  目立つから。そう一言だけ吐き捨て、志摩はそのまま俺の横をすり抜けるように部屋から出ていった。  こちらを振り返ろうともせず出ていくその背中に、心が痛む。わざわざ部屋で待っていてくれて、その間心配してくれていた志摩にあんな顔をさせてしまったことが何より申し訳がなくて。  暫くその場から動けなくなる俺に、阿佐美はぽつりと口を開いた。 「……あいつ、ああいうやつだけど、ゆうき君のこと心配してたみたいだよ。……帰れって言っても ずっとここで待ってたし」 「……ごめん」 「俺に謝る必要はないよ。……けど、本当にどうしたの?……俺にも話せない?」  阿佐美の声は、いつもよりも優しかった。  阿佐美は口が硬いだろう。けれど、それでも話したことによって阿佐美まで阿賀松に目を付けられたらと思うと耐えられなかった。 「……本当、大したことないんだ。大袈裟に見えるけど、そんなに痛くもないし……」 「分かった。無理には聞かないよ。けど、志摩の行った通り今日は休んだ方がいい」 「うん、そうする」  もとより、こんな体ではまともに授業すら受けられないと思っていた。  阿佐美も何かを察したのだろう。それ以上言及してくることはなかった。  待っている間、志摩は部屋の片付けでもしていたのだろうか。部屋の中は朝よりも片付いてるように思えた。  ベッドに腰を下ろす。久しぶりに部屋に帰ってきたような気がした。 「傷、染みる? 氷とか冷やすものが必要なら用意してくるよ」 「いや、大丈夫だよ。ありがとう。……ごめんね」  阿佐美は「気にしないで」と控えめに笑う。  阿佐美の目には俺はどのように映ってるのだろうか。なるべく平常を保とうとは思うが、あの部屋でのことを思い出すと指先が震えるのだ。それを誤魔化すようにぎゅっと自分の手を握り締める。  そのときだった。部屋の呼び鈴が鳴る。  びっくりして、ついつられて立ち上がろうとしたときだ。「座ってて」と阿佐美に制される。  正直、阿佐美の申し出にほっとした。  やってきたのが阿賀松かもしれない、そう考えると恐ろしかった。  けれど、心配にならないというと嘘になる。玄関口、扉が開く音がして、続いて何やら話し声が聴こえた。内容まではわからなかったが、どこか聞き覚えのある声に誰だろうかと思いつつ、見つからないように布団に隠れていたときだった。 「あの、ちょっと……会長!」  阿佐美の慌てた声、その固有名詞に思わず、布団から顔を出したときだった。  ベッドの傍、そこには制服姿の芳川会長が立っていた。 「……っ、か、会長……」 「突然の来訪、失礼する。……聞いていた通り、酷い怪我だな」  その言葉に、慌てて俺は会長から顔を逸した。包帯とガーゼで隠していようが、それでも憧れてる人にこんなところを見られたくなかった。 「ど、どうして……ここに……」 「怪我をした君を見かけたと聞いて、気になったんだ」  見かけた?俺は、部屋に戻るまでに誰にも会っていないと思っていたが、どこかに生徒会関係者がいたのだろうか。  引っ掛かったが、それ以上にわざわざ心配して部屋まで訪ねてくれた会長に素直に嬉しくも思えた。……なるべくなら、知られたくなかったが。 「すまない阿佐美君、少し彼と二人になりたい。席を外してもらってもいいか」  会長を追って戻ってきた阿佐美に、芳川会長はそうまっすぐに申し出る。  阿佐美は少しだけ迷ったが、やがて諦めたような顔をした。 「あまり、無理をさせないでくださいね」 「承知してる」  会長と短く会話を交わし、阿佐美は部屋を移動する。  扉が閉まる音。今度こそ、部屋の中は俺と会長の二人きりになってしまう。阿賀松と二人きりのときとは違う、また別の緊張感が部屋に充満した。 「阿賀松伊織か?」  単刀直入。オブラートに包み隠さず尋ねてくる会長に、俺は、何も応えることが出来なかった。  誤魔化す言葉はいくらでも考えていたはずなのに、その名前を出されてしまえば何も考えられなくなるのだ。 「っ、違います、これは、その、ちょっと……転んで擦りむいちゃって……」 「俺でも打撲痕と擦り傷くらい見分けつく。別に俺に嘘をつく必要はない。……それとも、そう言えと言われたのか」  会長の切り口は鋭い。明確に図星を突いてくるのだ。  汗が滲む。会長は、どこまで知っていて気付いているのだろうか。あの場に副会長である栫井平佑がいたこと、そして、阿賀松と繋がっていること、会長は分かってるのか。  けれど、恐らく栫井のあの反応からしてきっと会長は知らないのだろう。そう思うと、生きた心地がしなかった。俺が口を出していい問題ではないような気がしてならないのだ。  ……それは建前だ。もし会長に助けを求めてみろ、阿賀松が何を仕出かすか分からない。それが恐ろしかった。  今度こそ、俺は。 「……悪い。別に君を責めに来たわけでないんだ。……ただ、心配なだけだ。それだけは誤解しないでもらいたい」 「……っ、会長……」 「俺はこれで失礼する。休みのところ邪魔してすまなかったな」  俺がこれ以上何も言えないと分かったのだろう。芳川会長はあっさりと身を引いた。  申し訳なかった。せっかく心配してくれていたのに、何も出来ないことが歯痒かった。だから、俺は。 「……邪魔なんかじゃないです」 「……齋藤君?」 「せっかく来てもらったのに、すみません、何も……できなくて」  芳川会長の顔を見るのも怖かった。必死に声を絞り出し、謝ればふと会長が笑う気配がした。  そして、「君が気負う必要はない」と、一言だけを残して部屋から出ていった。玄関の扉が閉まる音がして、入れ違うように阿佐美が部屋の中へと戻ってくる。 「ゆうき君……大丈夫だった?」 「俺が怪我してるって聞いたからわざわざ様子を見に来てくれたみたい」 「芳川会長が?」  そう、阿佐美は何かを考え込む。難しい顔をする阿佐美が気になって、「どうしたの?」と恐る恐る尋ねる。 「いや、なんでもないよ。少し、気になってさ。……それにしては随分と情報が早いなって思って」 「……」  それは、俺も気になっていた。  けれど、考えたところでどうしようもない。会長の情報網は俺の知らないところにも張り巡らされてるということなのだろう。  痛む頭、俺は思考を放棄してベッドへと身を投げた。  明日からのことを考えると憂鬱で仕方なかったが、阿佐美が部屋にいてくれたお陰が幾分かは気が紛れた。

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