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五月一日目【一角】
五月上旬。
矢追ヵ丘学園に転校して早いものでもう一ヶ月が経つ。
大分暖かくなったがやはり早朝は肌寒い、そんな気候の中、大分俺もこの学園について分かってきたことがある。学園の教師の立場だ。
うちのクラスはともかく、他のクラスや学年を見てるとたまに生徒が教師を使用人のように扱ってるのを見かける。
家柄がいい生徒ばかりが集まるこの学園だからこそなのだろう、権力を嵩に着る者も少なくない。
そして周りもそれを異常と思わないのだ。これは転校生だからこそ余計異様さが浮き彫りになってるのかもしれない。
教師が教師しとして機能していれば、ここまで生徒が支配する学園にはならなかったのかもしれない。
でも、だからこそその生徒たちの代表が芳川会長であるということに感謝しきれない。
大分そんな異質な空間にも慣れて来た頃だ。
「もうすっかり傷も治ったみたいだね」
朝、いつものように部屋まで迎えに来てくれた志摩は俺の顔を見るなりそう笑った。
「うん、触っても全然痛くないよ」
「それならよかったよ」
「……心配かけてごめんね」
「そう思うんだったら少しは俺の言うことに耳を傾けてもらいたいんだけど」
「う……」
相変わらず志摩の言葉に耳が痛む。
志摩も志摩で罪悪感を覚えてるようだ。自分が目を離した隙に、というのがあるのだろう。登下校はもちろん、休日もこまめに俺と連絡取り合っては一緒に過ごすことが以前よりも明らかに多くなった。
俺はというと、例のごとく志摩や阿佐美以外あまり友達と呼べる人間がおらず、おまけに阿佐美は基本部屋に篭ってはパソコンを弄ってるので比較的志摩と一緒にいるというわけだ。
そんな志摩のお陰もあってか、阿賀松に絡まれることは今のところなくなった。姿を見かけること自体早々ないのだが、志摩曰く阿賀松はあまり学園にいることはないというのと基本は夜行動らしい。なので夜はすぐに自室に戻るように心がけていた。
というわけでわりと平和な日々が続いてた。
怪我したときは周りの目が痛かったが、その顔の傷も大分癒え、今では包帯もガーゼもつけていない。今は痛みもないが、遠くにピンク頭を見かけると慌ててその場を逃げるようになった。
それと、変わったことと言えばもう一つ。
「齋藤君」
食堂へと向かう途中、名前を呼ばれて振り返るとそこには見覚えのある二人組がいた。
「会長! ……こんにちは!」
「ああ、こんにちは。今日も元気そうだな」
「い、いえ……そんな……」
芳川会長と、その一歩下がったところには生徒会会計・灘和真がいた。
あの日の一件以来、こまめに会長が声を掛けてくれることが多くなった。
自意識過剰なのかもしれないが、会長は人前ではなく、なるべく人がいないところで声を掛けてくれるのだ。隣にいた志摩は、やってきた二人に露骨に顔を顰めたが邪魔はしない。
「学校は慣れたか?」
「はい、普段使う場所なら道に迷わないようになりました。……三年生の教室のところとかはまだちょっと自信ないですけど……」
「そうか。けれどそれだけでも大分すごいと思うぞ」
褒められて、嬉しくなる。我ながら子供みたいだと思うが、やはり相手が会長だからか、自信がつくのだ。
「それはそうと……昼食はどうするんだ?」
「あ……ええと……」
「丁度これから向かうところだったんですよ」
すると、答えようとする俺の肩をぐっと掴んだ志摩はそう言って芳川会長に微笑みかける。その目は笑っていないように見えたが、それもほんの少しの間。芳川会長は「そうだったのか」と残念そうに肩を竦めた。
「なら邪魔をするわけにはいかないな。引き止めて悪かったな」
「いえ、そんなことないです。……寧ろ、嬉しいっていうか……はは、えーと、すみません……変なこと言っちゃって……」
喋れば喋るほど墓穴を掘っていくような感覚。段々恥ずかしくなってきて、誤魔化すように笑えば、ふいに、会長の手が伸びてくる。そして、ぽんぽんも頭を撫でられた。
「君は素直でいいな」
顔が、熱くなる。褒められた。会長の言葉が頭で反芻され、その度に心臓がトクトクと脈打った。離れる手。
ほんの少しの間、言葉を失う俺に、志摩が横目で見てくる。その目が痛かった。
「会長、そろそろ向かわなければ間に合いません」
そして、タイミングを計らったかのように灘は腕時計を一瞥し、会長に声をかける。
「分かってる」と、会長。すっと、その表情に生徒会長の顔が戻るのを見て一抹の寂しさのようなものを覚えた。
「それじゃあ、またな」
「は、はい……!」
失礼します、と灘も頭を下げ、二人はその場から立ち去った。どこかへと向かう途中だったのか。
しばらくその場から動けないでいると、隣にいた志摩にいきなり髪をぐちゃぐちゃに撫でられた。
「な、なに? どうしたの?」と尋ねれば、志摩は「早く行くよ、お腹減った」とだけ言ってさっさと歩き出した。
怒ってるのだろうか、けど、別に怒らせるようなことがあったと思えないのだけれど……。思いながらも、俺は志摩の後を追いかける。
ふいに、背後から視線を感じた。咄嗟に振り返るが、後ろには無人の通路が伸びるばかりだ。……気のせいだろう。
とまあ、こんな感じで俺の日常は波風なく穏やかに進んでいく。今更平和というのもおかしな話かもしれないが、それでもこの毎日は以前の俺が求めていた状況に近いとも呼べる。……阿賀松伊織という男がいなければの話だが。
けれどこの穏やかさが、嵐の前の静けさじゃなければいいが。
◆ ◆ ◆
昼食を終え、午後の授業を受けるために教室へと戻ってくる。
「そういや齋藤数学の課題ちゃんとしてきた?俺のと答え合わせしようよ」
「……そういって、また写すつもりじゃないよね」
「そんなわけないでしょ。齋藤がちゃんとやってるか見るだけだってば」
どうやら志摩は勉強が好きじゃないらしい。
相変わらず口はよく回る志摩だがあまり自分のことは話してくれない。けど、最近はなんとなく好き嫌いとかはわかってきた。……ような気がする。
「まあいいけどさ……ん?」
言いながら、教科書を取り出そうと引き出しを探っていたときだ。引き出しの中に何かが入ってることに気づいた。それは午前中の間にはなかった白い封筒だ。
「どうしたの?」
ふいに志摩に声を掛けられ、俺は咄嗟に封筒を引き出しの奥へと仕舞った。なぜかと言われればよくわからない。
けど、俺の口は、気付けば「なんでもない」なんて言ってしまうのだ。
「また何か隠してないよね」
「ほ、本当になんでもないって!」
……多分、手紙だよな。あの薄さ、物体が入ってるほどの厚みもなかった。
取り敢えず、志摩がいないときに見てみよう。
志摩のことは信用してるつもりだけど、なんだろうか、胸騒ぎがしたのだ。
そして放課後。
志摩は先生に呼ばれて教室を出ていった。どうやら委員長の仕事があるようだ。先に寮へ戻ってていいと志摩は言っていたけれども……。
引き出しの中、こっそりと俺は昼間見つけた封筒を取り出した。差出人は不明、宛名には「齋藤佑樹君へ」と丁寧に記載されている。
中には一枚のペラ紙。そこには整った字で『伝えたいことがあるので放課後に体育館裏まで来てほしい』と言う旨の内容が書かれていた。
呼び出し、……なのか。詳しい内容は書かれていないだけに判断に困った。ラブレターなんて単語が脳裏に過るが、まさかそんなこともないだろう。そもそもここ数週間まともに志摩や生徒会以外と話せていないんだし。
今日の放課後って……これからだよな……。
時計を見遣る。……なんか厭な感じがする。本当にただの善意の手紙だったら申し訳ないが、ここは見なかったことにしよう。阿賀松の一件もある。今は穏便に生活したかった。
そう、念のため手紙を鞄に仕舞い、俺はそそくさと帰る準備をする。
そして逃げるように教室をあとにした。
昇降口前。
やはり手紙のことが頭をちらついてしまう。ぼんやりと通路を歩いていると、いきなり通路の角から人影が飛び出してきた。ぶつかる、と目を瞑ったときだ。いきなり体を引っ張られた。そして。
「……っぶねえなコラ!」
「……す、すみません!」
飛んできた怒声に驚いて、条件反射で謝罪したときだ。白に近い、クリーム色の淡いミディアムボブ。美少女と見紛うほどの整ったその顔は一種の冷たさのようなものを覚えた。
櫻田だ。やつも俺に気づいたようだ、忌々しげに舌打ちをし、そして雑に俺から手を離した。
「おい、そこ退け! こっちは今お前に構ってる暇ねーんだよ!」
「ご、ごめん……」
なさい、と言い終わるよりも先に櫻田はそのまま俺の横をすり抜け、昇降口から外へと向かって走り出した。
何かあったのだろうか。慌ててるようにも見えたが、それよりも因縁吹っかけられずに済んだこと安堵した。
そのままとぼとぼと、また人にぶつからないように気をつけなが帰宅しようとしたとき。
学生寮前。
帰宅する生徒たちに混ざって、建物の前で右往左往する人物を見つける。
その腕いっぱいに抱えられた大きなくまのぬいぐるみは間違えようがない。江古田だ。無視しようか迷った末、俺は声をかけることにした。
「どうかしたの? 誰か探してるみたいだけど」
「……齋藤先輩……」
大きな、けれど光のない目がこちらを見上げる。そしてすぐに江古田は俺から目を逸した。
「……別に、大したことじゃないです……櫻田君の馬鹿が僕との約束をすっぽかすことなんて日常茶飯事なんで……」
「櫻田君? 櫻田君ならさっき昇降口のところで会ったけど」
「……本当ですか……?」
「うん、何か急いでるみたいですぐに走って行っちゃったけど……」
「……何か……他に言ってませんでしたか……?」
「特には……ええと、お前に構ってる暇ないんだよって言って、そのままどこか行ってしまったくらいかな」
「……そうですか……」
「昇降口から飛び出して……うーん、確かあっちの方だったかな」
と、思い出しながら櫻田が駆け抜けていった方角を指差す。そこに体育館があったのを見て、脳裏にあの手紙の一文が過る。
“体育館裏で待ってます”
…………いや、まさかな。まさか、そんなはずはない。
滲む冷や汗。けれど、江古田にはそんなことは関係ないようで。
「……ありがとうございました……」
それだけを口にし、ぺこりと頭を下げた江古田はそのまま体育館へと向かって走り出す。
これは、偶然なのだろうか。正直、親衛隊と関わりたくないのが本音だ。
見なかったことにしよう。きっと、江古田が櫻田を見つけておしまいだ。俺の考え過ぎだろう。
そんなことを考えながら学生寮へと帰る。けれど、あの二人の顔が脳裏に浮かんでは離れなかった。
俺が首を突っ込む問題ではない、そうは思うが、少し気になったのが本音だ。
……少し、少し覗くだけなら……俺の杞憂ならそれでいい、すぐに帰ろう。
そう決心をし、俺は学生寮を出て体育館へと向かった。
結論から述べよう。俺の厭な予感は的中していた。
そこにはもうすでに数人の先客がいたのだ。
「どういうつもりだって言ってるんだよ、んなもんで人の弱味握ったつもりかよ」
そう声を荒らげるのは、櫻田だ。
「なんで君に口出しされなきゃいけないんだよ、僕達がどこで何しようが関係ないだろ」
そして、それに対して応えるのは見たことのない小柄な少年だった。稚さの残るその顔、そして中性的な高めの声。
どちらかと言えば、櫻田とはまた別の意味で女の子みたいな顔立ちだが頭何個分も高い位置にある櫻田に対しても怖気づいた気配はなく、寧ろ噛み付いていく。そして、周りの連中はその少年の取り巻きのようだ。
「あるに決まってんだろ、お前らのせいで会長はなぁ……」
「なんだよ、得意の暴力か?殴りたきゃ殴れよ、この学園から追放してやる!」
「あ゛ぁ?! やんのかメスもどき!!!」
そう櫻田が少年の胸倉を掴んだときだ。
このままではあの子が危ない。止めなければ、と思い、立ち上がったときだった。背後で何かが動く気配がした。
え、と振り返ったときには遅かった。背後に立っていた人影に、後ろ手に拘束される。
「……っ、ぁ、あれ……?」
後ろには同じく見たことのない生徒がいて、俺と目が合うとにっこりと微笑んだ。そして。
「隊長、奴を捕まえましたよ」
そう大きな声で少年に向かって呼びかける生徒。
そして、こちらを振り返った櫻田は俺を見てぎょっとした。
「んな……ッ! なんでお前がここに……!」
「ふん、やっぱり馬鹿だ、あんな偽物の手紙でホイホイ釣られるなんてとんでもない尻軽だな」
「……え、あ、あの……俺……」
「動くなよ、櫻田洋介、少し会長に特別扱い受けてるからって調子に乗りやがって。少しでも動いたらこの男を傷つけてやるからな」
そう、俺の傍までやってきたその子は制服の裾から何かを取り出し、俺に突き付けた。ひやりと凍る空気。少年の手元に目を向ければ、鋭い銀色がぎらりと光った。
ナイフだ。首元に凶器を突き付けられ、汗が滲む。けれどそれ以上に、隊長と呼ばれたその少年のナイフを持つ手が震えていることが気になった。
「さ、櫻田君……」
「…………」
「おーっと、そんな睨んだって怖くないんだからな!……ゆっくりと手を……」
あげろよ、と少年が続けるよりも先に、櫻田は自分の傍に立っていた生徒を思いっきり殴りつける。
そして、続けて少年の胸倉を掴み、引き寄せる。そして、瞬きをしたと同時に櫻田は躊躇いなく少年の顔面を殴りつけた。反動で地面に尻もちをする少年。その手から落ちたナイフが地面へと転がった。
「そこのポンコツ傷つけたきゃ傷つければいいだろ、こっちは痛くも痒くもねーんだよ」
「っ、よくも、この僕の顔面を……ッ!」
「あー? そんなに気に入ってんなら可愛がってやろうか、その面!」
「鬼! 畜生! 女装野郎!!」
「うるせぇ女みてえな声しやがって!キンキンうるせーんだよ!!」
それからは、あっという間だった。人を暴力を振るうことに抵抗がないのだろうか。殴られるところを見てられなくて、顔を背けてる間にも地面にはバタバタと人が転がっていく。死屍累々。一騎当千。
とにかく危ないのでナイフを拾って隠そうと手を伸ばしたときだ。近くで蹲っていた一人の男子生徒が、そのナイフを拾い上げる。そして、その一瞬目があって、笑った。
「ひっ!」
立ち上がった生徒に無理矢理引っ張られた。背後から抱き竦められるような体制の中、先ほどとは比にならないほどの至近距離にナイフの切っ先が突き付けられる。少し動けば首の皮が切れるんじゃないか。そんな恐怖に固まったとき。
「櫻田、うご……」
動くんじゃねえとか、動くな、とか、多分そんなことを言おうとしたのだろう。けれど、その先が紡がれるよりも先にこちらを振り返った櫻田の右足が思いっきりナイフを持つ生徒の手を蹴り落とす。翻るスカート。蛍光色のど派手なボクサーパンツ。そんなパンチラは望んでなかった。
「頭下げろ」
恐怖と驚きで固まる俺に、櫻田はそう唇を確かに動かした。咄嗟に頭を下げたときだ。
足が地面につくタイミングでもう片方の櫻田の足が、背後にいた男子生徒の頭部に思いっきり回し蹴りを入れる。筋肉質な美脚から繰り広げられる容赦のない暴力になす術なく横殴りに倒れる生徒。
いつの間にか、まともに立てているのは俺と櫻田だけになっていた。
「……人質にリンチにナイフだぁ? こんなことしても勝てねえなんて可哀想だよなぁ、隊長さんよォ」
「ぅ、ぅぐぐ……ぶっ殺してやる……」
「あァ!? 聞こえねぇ……なぁおいコラ! 声ちっせーんだよ!」
言いながら主犯格の少年の顔面に容赦ない蹴りを入れる櫻田。これではどちらが悪いかも分からない。
「もうやめなよ、やりすぎだって」
そう、慌てて櫻田をとめようとしたときだった。
ゆらりと、物陰が動いた。それは明確に人の形をしていて。櫻田の後ろ、その陰の手には見慣れない黒い塊が握られていた。
「あっ、櫻田君、後ろ……」
「あ? 何……」
そう、櫻田が振り返ろうとしたのと、黒い塊が櫻田の首に押し当てられるのはほぼ同時だった。
バチリと音を立て、何かが弾けた。びくりと痙攣した櫻田は、そのまま白目を剥いて倒れる。
「さ、櫻田君……!」
気絶直前の顔がせっかくの美形台無しだとかそんなことをいってる暇はなかった。咄嗟に櫻田に駆け寄ろうとしたとき、背後で倒れていた少年が立ち上がる気配がした。
「よくも、よくもこの俺をコケに……」
こちらも美形形無し、鼻血で顔半分を濡らしたその少年は般若のような顔で俺を睨みつけた。
終わった。俺は、死を覚悟した。
そして、暗転。次に目を覚ましたときは、ひんやりと冷たい床の上だった。
ここは、どこだろうか。
節々が痛む。頭がモヤがかったようだったが、次第に意識は明確になっていった。
そうだ、俺は確か体育館裏にいって、それで……。
辺りを見渡せば、すぐ傍で大の字に眠ってる櫻田を見つけた。
「さ、櫻田君……起きて、櫻田君!」
まさか死んでないよな、と何度も呼びかけながら体を揺すれば、櫻田は大きく寝返りを打った。
そして、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
「あぁ……? うるせぇな……って、頭いってぇ……」
「櫻田君ッ!」
「おわっ! ……って、なんでテメェが……つかここ……」
「わかんないんだけど……目を覚ましたらここに……」
「……チッ、あいつらの仕業か……ッ」
櫻田も状況が飲み込めたようだ。
部屋は倉庫のようで、様々な器材が壁の棚に並べられてる。中にはイベントで使うようなものもあった。
その壁際、大きな蝶番の扉があった。もしかして、と思い扉を開けようとするが、やはり鍵がかかってるようだ。
「っくそ、ダメか……」
「ここって、どこなの? 見た感じ倉庫みたいだけど……」
「倉庫には違いねーな。……体育館のステージ裏に繋がる物置部屋だ」
こんな場所があるのか。知らなかった。
言いながら、扉を思いっきり蹴る櫻田。けれど、びくともしない。
「細工されてんのか? 開かねえな……」
正直、笑えない冗談だった。俺はポケットに仕舞っていた携帯を取り出した。学園に連絡がつけば、と思ったけれど画面上のステータスバーに表示されたのは圏外の文字だった。
「繋がらない……?」
「地下だよ、ここ。んで電波はいんねーの。ちょっとした牢獄だなこりゃ」
「っう、うそ……」
「んなつまんねー嘘つくか! ……俺のも繋がんねえだろ、ほら」
言いながら、櫻田は自分の携帯を見せてくれる。画面がバキバキに割れてるのも気になったが、それよりも確かに俺と同じ圏外マークが表示されていた。
「チッ、まじ最悪なんだけど……」
「ど、どうしよう……」
「どうしようもこうしようも、こうなりゃどうしようもねえな……」
そう、大きなスピーカーを椅子代わりにどかりと腰を下ろす櫻田。
対して悲壮感もない櫻田の言葉に俺は驚く。
「どうしようもねえって……そんな……」
「大人しく待ってるしかねえよ。無駄に騒いだところで体力の無駄無駄、寝てたら来るだろ誰か」
「……そ……そうかな」
言いながら、櫻田は携帯を取り出しなんかやっていた。ちらりと見たがオフラインでもできるゲームをやってるらしい。
なんというか、順応性が高いというか……。呆れる反面羨ましくもあった。
というわけで、俺は部屋の隅っこで体操座りをしてただ人がくるのを待っていたのだけれど。
時計ばかりが進んで、誰も来る気配がない。既に夜の七時。志摩も委員会が終わって自室へ帰ってるかもしれない。そんなことを考えたとき、櫻田のお腹が鳴る。
櫻田というとゲームのやり過ぎで既に充電が切れ、やることもなく床の上で不貞寝をしていたのだった。
俺は、何かないかなと制服のポケットを漁った。すると、指の先に袋の感触が触れる。
昼間志摩にもらった二枚入りクッキー、食べられなかったからしまっていたのだった。
「あの、櫻田君……」
「……なんだよ」
機嫌悪い。お腹が空くと凶暴になるのだろうか。少し威圧されながら、俺は取り出したクッキーを櫻田に差し出す。
何箇所かヒビが入ってるが食べられないほどではない。
「これ、よかったらどうぞ……」
「……は? こんな、つか、何……これ……俺に食えっての? こんなパサパサしたもんを」
「あ、ご、ごめん……お腹減ってると思って……そうだよね、いらないよね……」
「……別にいらねーっては言ってないだろ」
……食べるのか。
一応は受け取ってくれる櫻田にほっとする。
そして袋を開け、ひとつまみ。ぼりぼりと食す櫻田だったが、そのまま袋を俺に差し出して来た。その中にはもう一枚のクッキーが残ってる。
「……ん」
「……?」
「やる」
「……え、でも、櫻田君の分……」
「元はと言えばお前のだろうが。ほら、口開けろ」
一応、気遣ってくれてるようだ。正直一気に食べるのだと思ってただけに踊る。と同時に恥ずかしくなったけど、好意に甘えることにした。
「あ、ありがと……」
「口」
「え、あの、いいよ……自分で食べるから……」
「いいから早くしろ」
低いトーンで急かされると抵抗出来なくなるのをやめたい。けれど逆らえなくて、それに食べさせてもらえるだけだ。俺は恥ずかしさを堪え、小さく口を開いた。「それじゃ入んねーだろ」という冷静な櫻田の言葉により、俺はもっと口を大きく開ける。
「……こ、こう?」
そう、恐る恐る尋ねれば、クッキーを摘んだ櫻田の指が近付いた。そして、唇に軽く押し当てるようにクッキーの欠片を咥えさせられる。一つ目を咀嚼し、飲み込んだあと、もう残りの欠片も食べさせられた。
「っ、甘いね、これ……」
年下の子に食べさせられるのはなかなか恥ずかしいけれど、たしかに空腹が満たされる気はした。
人が食べてるのをガン見していた櫻田は、そのまま俺の唇を撫でる。親指の感触に驚いて、見上げた。
「……あの、櫻田君……?」
すり、と頬の輪郭を撫でるように這わされる指は顔にそぐわず太く、骨這っている。擽ったいというよりも、他人に触れられることに慣れていない分余計その感覚を感じてしまい、つい体が竦む。
「……ぁ、あの……」
「……」
「もう、九時になっちゃうね」
「……そーだな」
「櫻田君……その、何か俺の顔に……」
ついているのか、と尋ねようとしたときだった。
優しく触れていたその指に、いきなり頬をぶにっと抓られる。そのままぐにっと引き伸ばし、人の顔をお餅か何かのように捏ねくり回していた櫻田はいきなり笑いだした。
「い、いひゃいよ……」
「っふは、ははッ、アホヅラ」
機嫌が治ったのか、よくわからないが櫻田が笑った顔を見れて安堵したのは確かだ。
ここに閉じ込められてからというものの、当たり前だがなんとなくピリピリしていたから余計。
「……や、やめへよ……」
「うるせえ、お前の頬が柔らかいのが悪いんだろ」
理不尽だ。言いながらも揉みくちゃにしてくる櫻田に、そろそろ頬が伸びてしまうので勘弁してくれとその手を掴もうとした。
「櫻田く……」
そのとき、確かに目があった。男にしては中性的で、冷たく整ったその顔、目に、思わず息を飲む。そのとき、顔が近付いて、視界が陰った。そして、唇が重ねられる。
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