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02※
「っ、あ、の」
なに、と言いかけるや否や、濡れた舌先が唇に触れる。頬を掴まれ、開きかけた唇を割って入ってくる舌先を拒むことができなかった。
なんで、どうして、そんなことを考えても、薄皮を舐める舌に思考ごとかき乱される。
「……っ、ん、ぅ、うっ、む……ッ!」
吸われ、舐められ、絡め取られる。閉じ込められた鬱憤を俺で晴らしてるのか、わからなかった。けれど、逃げようとすればするほど体を抱き締められ、華奢な見た目とは裏腹に俺を逃がそうとしないその腕力に男を感じずにはいられなくて。
ずるずると力が抜けていく。気がつけば俺は、冷たい床の上、櫻田に組み敷かれていた。
「なッ、櫻田く、何……して……」
「あ? 何が?」
「何がって……やっ、あの、本当、どこ、触って……ッ!」
シャツ越しに胸元を撫でられ、体が反応する。残念ながら男に胸を触られることは初めてではない。厭なデジャブ感に、慌てて櫻田を引き離そうとすれば、櫻田は自分の唇を撫でて笑う。
「……暇つぶし?」
「ひ、暇つぶしっ?」
思わず声が裏返る。
当たり前だ。こんな暇潰しがあって溜まるか。そもそもなんで俺が、一人でだってできるだろうに。あまりにも不純な動機に納得できなくて、やめてくれ、と慌てて櫻田の腕から抜け出そうとするが、耳朶を甘く舐められ、体が強張った。するすると胸を撫でていた手が、シャツのボタンを外し、素肌に触れてくる。喉が、声が震えた。
「や、駄目だって、櫻田君……ッ」
「……はあ? なんで? お前別に初めてじゃないんだろ?」
「えっ、な、な、んで……」
「お前全然知らねーの。一年では有名だぜ、アンタが三年と出来てるって、誰だっけ、赤い髪の派手な野郎」
脳裏を過る。まさか、キスの噂が一年まで流れてるとは思わなくて血の気が引く。思い出したくないことまで思い出して顔が熱くなった。
けど、もし俺が本当に阿賀松とできていたとしてもだ、恋人がいる相手にこんなことをする櫻田の思考回路も到底理解できない。
「櫻田君、いい加減に……」
「それに、お前、俺の女装嫌いじゃねーだろ?……分かんだよ、それくらい俺も」
「……っ」
「ほら、赤くなった」
ちゅっ、と音を立て、首筋にキスを落とされる。正直、図星だった。櫻田が本当に女の子だったら、うっかり恋に落ちていたかもしれない。が、中身は男だしそれも俺の好みとは対極の人間だ。わかってはいたが、その顔で囁かれると不覚にも心臓がドキドキしてしまうのだ。不可抗力だ、理不尽だ、心まではどうしようもできない。
「別に痛いことしねーから少し付き合えよ。……ムラムラしてどーしようもねえんだわ」
「そんなこと、言われたって……俺……ん……っ」
「大丈夫大丈夫、なんもしなくていーからさ」
いつもの怒鳴り声とは違う、甘い声がねっとりと鼓膜に染み込む。俺の反応を面白がってる。それが手に取るようにわかった。
正直、櫻田に抵抗して勝てるわけがないというのは先程の多勢相手の喧嘩っぷりを見て理解してるし俺が本気で嫌がったとしてもはいそうですかじゃあ諦めますねと折れるタイプではないというのも知ってる。
ブチ切れて無理矢理されるくらいなら、上機嫌な櫻田相手に穏便に済ませた方がましだと思う俺はおかしいのだろうか。
「……っ、ぅ……」
そっと、櫻田をとめる手を緩める。俺の意志を感じ取ったのか、櫻田はにたーっといやな笑みを浮かべた。
こんなこと、会長に知られたら軽蔑されるだろうか。
「っ、い、痛く……しないんだよね……?」
「んー、しないしない」
「っ、ほ、ほんとに……?」
「ほんとほんと」
適当にあしらわれてる感が否めないが、伸びてきた手に大きくシャツの前を開けさせられると何も言えなくなる。
両胸、突起周辺を同時に指の腹で擽られれば、思わず声が漏れそうになった。
「っ、ふ、ぅ……」
確かに言う通り、痛くはしていないようだ。けれどその割れ物に触れるような優しい指の動きが余計生々しくて、全身に汗が滲む。息が乱れる。指から逃げようと背中を丸めれば、それでも櫻田は構わず俺を抱き締め直し、胸を逸らさせるのだ。
「っ、さ、……くらだ君……」
布が擦れる音が響く。視界に自分の体を触れる男の手が入るのがいやで、ずっと目を瞑っていた。それでやり過ごそうと思ったけれど、間違いだった。暗闇の中、より乳輪を揉む指の感触が鋭利に、直接的に伝わってくるのだ。なかなか突起に触れないもどかしさに、胸の奥がもぞもぞしてくる。変な気分になっていた。きっと長時間こんな場所に閉じ込められてるせいだろう。閉鎖空間は貞操観念を狂わせてくる。
「や、め……も……ッ、やめよ……まずいって……」
「気持ちよくなる?」
「っ、ぅ、あ、ぁ……ッ!」
きゅっと両胸の突起を摘まれた瞬間、電流が走ったようだった。じんじんと痛むほど隆起したそこを今度は執拗に転がされれば、頭の奥から何かどろりとしたものが溢れ出すようだった。気持ちいい。なんて、認めたくなかった。けど、ずっと求めていたその感覚に、脳が、体が恐ろしいほど反応してしまうのだ。
「や、め、……ッ、さくらだ、く」
「んなこと言って、すげー好きだろ。これ」
腰揺れてるし、と耳元で櫻田は笑う。クリクリと玩具か何かみたいに揉み潰され、時折爪先を立てられる。その都度赤く腫れ上がるそこに、櫻田は「えっろ」と笑った。
「やめよ、ほんと、も……いいからぁ……」
「んなこと言われてもなー俺も、生殺しなんてされちゃ困るんだよなぁ」
そう笑う櫻田の下腹部、尻の下辺りに異様に硬い感触を感じ、血の気が引く。慌てて立ち上がろうとするが、両腕を掴まれ、再び櫻田の膝の上へと引き戻される。
そして、わざと押し付けるように腰を抱き締められ、血の気が引いた。
「っ、櫻田君ッ」
「……なぁ、アンタの手で扱いてくれよ」
「っ、へ」
「……そしたらもーこれ以上はしねえから」
「な?」と甘くキスをされ、血迷う。言いながらも、お尻の割れ目の辺りにゴリゴリと押し付けられるブツの感触はそのままで。時折すりすりと擦りつけられれば、恐怖のあまりに変な声が飛び出そうになった。
けれど、櫻田の提案は俺にとっては悪くないものだった。
「ほ、本当に……?」
「……ああ、一発出しゃこれも大分落ち着くしな」
「う、嘘じゃないよね……」
「嘘つかねーって、俺」
「……ッ」
生唾を飲む。手で扱くだけだ。別に、別にオナニーと変わらない。自分のものか、他人のものかの話だ。挿入されるわけでもない。なら全然ましではないだろうか。ぐるぐると目が回る。
「まだ?」
ぐっと手を引かれ、スカートの下へと引っ張られる。瞬間、下着から飛び出したそれを直接握らされ、変な声が出た。まず一番に熱い。そして、硬い。他人のものをこうして触る機会なかった分、キャパオーバーで何も考えられなくなる。手を離そうにも櫻田に握り込まれてる分何もできなくて、俺は、考えるのをやめた。
胡座かく櫻田と向かい合うように正座しながら、そのスカートの中に手を突っ込んではナニを掴んで手を上下に動かす。
なんで俺がこんなことをしているのか甚だ疑問だがそれよりも、こんな状況にも関わらずギンギンに勃起している目の前の変態女装癖後輩が信じられなかった。
「……どうして、こんな……」
「……なんでだろうな、知らね」
ふ、と笑う櫻田の呼吸は確かに乱れていて。先程よりも粘っこい水音が混ざっている気がする。唾液で濡らした手のひらを全体に絡めるように動かしながら、俺はただ無心でぬるぬると上下運動をしていた。
「……なあ、先輩、乳首見して」
「はっ?」
「いいから、早く」
そして、この男はこういうときばかり俺を先輩と呼ぶのだ。
わけがわからない……。なんでこのタイミングで乳首なのかわからない。別に見せるのは構わないと思ったが、さっきまで散々いじられていたお陰で不自然に勃起したそこを敢えて見せ付けるような真似は正直死ぬほど辛い。けれど、「見せてくれたらすぐイケそう」とか言い出すから断れなかった。
「……ん、こう……?」
言いながら、シャツの前を開き片胸だけを出したとき、手の中のそれが大きくなったのを見てまじかと固まった。それと同時に恥ずかしくなった。
「……俺、櫻田君のこと……わ、わからない……」
「俺も」と、櫻田は笑いながら舌を舐める。続けて「もっと屈んで」とも言われ、言われるがまま前かがみになるように櫻田に近づいたとき、キスをされる。ちゅ、と唇を触れ合わされ、続けて舌を挿入される。じゅぷりと濡れた音ともに舌を嬲られ、腰が抜けそうになった。けれど、すぐに自分の使命を思い出し、手を動かした。
唇を吸われながらというのはなかなか難儀なもので、思考が全て舌に持ってかれそうになるのを堪えながら俺はぎこちなく手を動かした。
唾液が溢れる。ヌルヌルとした舌同士が絡み合い、喉の奥まで挿入される。なんでこんなエロいキスができるのか、問い質したい。きっと櫻田は邪魔をしているのだろう。俺が手こずってもたもたするように。だから、負けないように頑張って手を動かした。手コキと呼ぶにはお粗末で、素人よりも下手くそなのかもしれない。がむしゃらに手を動かせば、それでも確かに手応えはあった。
手の中のそれの脈が加速する。ヌルヌルが増える。櫻田の呼吸が乱れ、白い肌に赤みがかかる。
やっぱり、櫻田の顔は、好きかもしれない。そんなことを想いながら、舌を絡めたときだ。後頭部、伸びてきた手に頭をぐっと抑えられ、喉奥深くに舌を捩じ込まれる。嗚咽が漏れ、藻掻くと同時に咄嗟に櫻田のものをぎゅっと握ってしまった矢先だ、どくんと音を立て、反り返ったそれから熱い液体が溢れ出した。
「……っ、はぁ……」
どちらともなく溢れ出した吐息が混ざり合う。俺たちは暫く見つめ合ったまま動けなかった。
「約束は、守ったよね……」
「まぁ、そーだけど」
「なら、もう……」
そろそろ、これ以上はやばい。現状、一発出せばなんとかなるとか言っていた櫻田の目に熱が篭ってるのを見て、流石に危機感を覚える。
そろそろ離してくれ、と櫻田の胸を押し返したとき。
すり、と股の谷間を撫でられ、震える。
「さ、くらだく……」
「……アンタだって辛いだろ?」
ここ、と股の最奥、膨らみ始めていたそこを人差し指でつんと突かれ、小さく息を飲んだ。
そのときだった。
先程までうんともすんとも言わなかった扉がいきなり開いたのは。
「無事か?!」
ドゴッと鈍い音を立て、半ば外れる勢いで開いたその蝶番の奥から現れたのは芳川会長と江古田、そして、他生徒会メンツだった。
対する俺たちは床の上、乱れた衣服、半ば櫻田に押し倒される形で下半身を触られてる俺。
どう見てもあれであった。
「……あ……」
誰の一声かもわからない。もしかしたら俺かもしれない。
そのとき、今世紀最大の冷たい空気がその場を支配した。
一悶着あったものの、なんとか俺たちは地下倉庫から救出されることになった。何か色々大切なものを失った気はするが、救出されただけましとしよう。
「俺、会長のこと信じてたんすよ、きっと会長なら俺のことを見つけ出してくれるって!」
「……」
「……」
「……あ、あの……」
というわけにもいかないのが現実というものだった。
頭に大きなたんこぶをつくった櫻田は一人特にこの空気にも気にしていないようなのが流石だ。
芳川会長と江古田と言えば、俺と櫻田の間に並びバリケードをつくってるくらいだ。
助けてもらえたのは嬉しいけど、何か色々誤解されてる感が拭えない。というか誤解されてるに違いない。無理もない。実際その八割くらいは当たってるのだから。
「すまなかった、齋藤君、俺がもっと早く君を探していたら……」
「い、いえ……元はと言えば俺のせいですし……」
「何を言うか。悪いのはあいつらだ、君に非はない」
話を聞くに、会長がこそこそしていた満身創痍の親衛隊を見つけ声を掛けたことが始まりらしい。
明らかにただごとではない怪我に相手は誰だとか問い詰めれば口淀むし、不審に思った会長が持ち物点検したところナイフにスタンガンとごろごろ出てきたという。
そこから詳しく聞き出してるところに江古田と合流することになっただとか。
「それにしても櫻田、貴様……いくらなんでも限度というものがあるだろう。俺が頼んだのは炙り出すことだったはずだが」
「だからこーやって炙り出したんじゃないっすか、ね、先輩」
言いながら、ニコニコ笑いながら櫻田は俺の肩を組んでくる。こういうときばかりに後輩ぶるのだ。
「貴様」と芳川会長が眉を吊り上げる。が、それよりも俺は二人のやり取りが引っかかった。
「……会長、あの、炙り出すって……」
「む……そうだな。一応君には説明しておくか。……どうやら親衛隊でおかしな動きをしてる生徒がいるというのを小耳に挟んでな、櫻田に探ってもらっていたんだ」
「おかしな動き?」
「……齋藤先輩、気づいてなかったんですか……ずっと後着けられてたの……」
首を傾げる俺に答えてくれたのは、呆れ顔の江古田だった。「え」といい掛け、たしかにここ数日視線を感じていたことを思い出す。けれど、気のせいではなかったというのか。
「まさか親衛隊の連中とは思わなかったがな、……実害を加えることはなかったが、日々行為がエスカレートしていたのも事実だ。……早めに手を打とうとしたのだが、物的証拠がなければどうしようもない。だから連中が用意した手紙の場所へ櫻田を送り込んだのだが……」
だから櫻田が体育館裏に俺よりも先に来ていたというのか。
だとしたら、芳川会長が何も気付いてなかったと思うとゾッとしない。
「スタンガンまで持ち出すとはな。何はともあれ、君には怖い思いをさせてしまって申し訳ない。俺の管理不届きのせいだ。……やつらがこの扉の鍵を壊していたせいで余計手間取ってしまった」
すまない、と会長は頭を下げる。
納得したが、それでもやはり俺には寧ろ会長に感謝してもしきれない立場だった。
「い、いえ……よかったです、助けてもらえて……こちらこそありがとうございました」
「そーそー、会長は悪くないですよっァ痛ッ!」
「誰が齋藤君に手を出せと言った、見境なしか貴様!!」
「だって暇だったんですよ、あそこなんもねーし……いててっ! おい、馬鹿根暗チビ殴るのやめろ!!」
「……性獣……不潔……」
正直、合意なところもあるので俺は何も言えないのだけれど、櫻田に助けられたのも事実だ。
俺は、取り敢えず三人に巻き込まれないように一歩下がってついていくことにした。
学生寮、食堂。
本来ならばとっくに営業を終えている食堂だが、非常時ということで貸し切り状態で使わせてもらうことになっていた。
普段たくさんの人間に埋め尽くされる食堂ばかりを見ていただけに、閑散とした食堂を見て感動する。
他の役員たちは帰った。残った俺、櫻田、会長に江古田四人で夜食を取ることになったわけだが。
「好きなものを食べればいい」と会長は言ってくれた。けれど……。
俺は、向かい側に腰を掛ける櫻田を見て息を飲む。
ハンバーガーにポテト、コーラにチキン、そしてポテトサラダ。それを何人分もバクバクと食べてる櫻田を見て正直食欲が沸かなかった。
辛うじて口にしているのは、喉の乾きを潤すために飲んでいたジンジャエール。それだけでも全然満たされた。
「食べないのか?」
「あ……はい、飲み物で結構お腹膨れちゃって……」
「何か入れていた方がいいんじゃないか?……長時間あんな場所に閉じ込められていたんだ、体の負担が大きかっただろう」
「……そうですね、軽いのだけ食べます」
会長に心配掛けるわけにもいかない。俺は、軽い軽食のセットを選んだ。閉じ込められていたときはあんなにお腹が空いていたのに不思議だ。
後半、ワケがわからなくなって空腹どころではなかったが、もしかしてそれもあるのかもしれない。そこまで考えて思考を振り払う。忘れよう。……うん。
それにしても、付け回されてたなんて。エスカレートしていっていたと言っていたが、全然そんなことない気がする。ものがなくなったわけでもなく、露骨に嫌がらせを受けたわけでもない。
そこだけが気になったが、平和なことが悪いとは思えない。芳川会長の考えすぎか、ただ単に俺が気づかなかっただけか。
「とにかく、今日は部屋に戻ったらゆっくり休んだ方がいい。……櫻田、お前もだ」
「は、はい」
「えー、俺まだまだイケるのに」
「……不潔……」
「なんも言ってねえだろうがクソちび!!」
……食事中もこの二人は相変わらずだったが、いつもと変わらないやり取りのお陰か、少し気が紛れた。
それにしても濃い一日だった。きっとベッドに入ってしまえばすぐに眠れるだろう。
そして、食事を終えた俺たちはロビーへと移動した。エレベーターに乗り込み、二階で一年生の二人を下ろし、機体の中は俺と会長の二人きりになる。
「部屋まで送ろう」
会長は、そう申し出た。
状況が状況だった。会長の生真面目な性格を考えると、そう言われるだろうというのは予測できていた。
「そんな、悪いです」
「……だが……」
「気持ちだけでいただきます、ありがとうございます」
けれど、俺はそれを断ることにする。
会長の善意は嬉しい。けれど、正直、今の俺にとってこの時間帯に部屋まで会長に送られてる姿を誰かに見られることの方が恐ろしいというのが本音だった。
万が一親衛隊ではなくとも阿賀松に見られたら、そう思うと、素直になれなくて。
「なら、三階まで見送らせてくれ。……心配なんだ」
「……ありがとうございます」
義理堅い会長の善意を断ることに良心が痛まないというのも嘘になる。三階につき、機体が停止する。開く扉。俺は、会長に頭を下げ、エレベーターを降りた。
学生寮三階。
消灯時間が近いというのに、ロビーにはたくさんの人が集まっていた。気付かれないように、なるべく通路の端を渡って自室目指して歩いていく。
皆、夜更かししてるのかな。よかった、会長の誘いを断って。
そんなことを思いながら歩いていたときだ。向かい側から見覚えのある男がやってくるのが見えた。
ゆるくパーマがかった黒い髪。眠たそうな目に着崩した制服。細長いシルエットは見間違えようがない。
栫井平佑だ。両脇に親衛隊らしき小柄な男子生徒を仕えさせた栫井に、心臓の脈が加速する。
きた道を引き返したい衝動に駆られたが、余計不審がられるのも嫌だった。
平静に、平静に。口の中で呟きながら、俺は、栫井と目を合わせないようにして通路を進んだ。
そして、すれ違う瞬間。
「軟禁で済んでよかったな」
ほんの一瞬だった。
俺にだけ聞こえる声量で囁かれたその言葉に、思わず振り返った。栫井は、こちらを振り返ろうともせずにそのまま通り過ぎていく。
俺は、暫くその場から動けなかった。
あいつ、どこまで知ってるんだ。ドクンドクンと脈が加速する。恐怖と疑心でどうにかなりそうだった。俺は、栫井から逃げるように早足でその場を立ち去った。
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