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五月二日目【肝試し】
昨日の一件のお陰で、今朝の目覚めはあまり良くなかった。
そりゃそうだ。いくら女の子の格好してるからといって男と、その、まあ色々やってしまったわけだ。
何はともあれ、大事に至らずに済んで何よりだけれど……。
「齋藤おはよう、なんだか今日は顔色悪いね。寝不足?」
爽やかではない朝、現れた男はどこまでも爽やかな笑みを携えていた。
学生寮、自室前。扉の前には丁度今来た志摩がいて、俺はなんだか志摩の顔を直視することはできなかった。
「寝不足というかなんというか……」
「もしかして、あれ? 昨日の会長の親衛隊たちに倉庫に閉じ込められたってのが原因?」
「ど……どうしてそれを……」
変わらぬ笑顔のままズバリと言い当てられ、思わず目を見張る。呆れる俺に、志摩は「盗聴してたから」となんともなしに口にした。
「……ってのは冗談だけどね。たまたま耳に挟んじゃってさ、問題起こした生徒たちが今朝の生徒会会議で停学処分受けたって」
え、と固まる俺が二言目を発する前に志摩はそう続ける。
停学処分、あの人たちが。確かに、物騒なものを持ち歩いていたのは感心しないがあまりにも早い処分に驚かずにはいられない。
というか、それよりもだ。
「そ、そんなに広まってるんだ……」
志摩の耳に届いているということは、結構なスピードで広まってるのだろう。だからだろうか、先程から廊下ですれ違う生徒たちがちらちらとこちらを気にしているのは……。
「ごめんね、俺が一人で帰らせたせいで」
そう、申し訳なさそうな顔をする志摩。
慌てて首を横に振る。
「別に、志摩のせいじゃないよ、元はと言えば俺が……」
俺が、あの明らかに怪しい手紙のことを志摩にも隠してたから。
「俺が? 何?」
「お、俺が……えと、ふ、不甲斐ないから……」
「……」
「あは、はは……」
「っ、ふふ、何それ……」
なんとか誤魔化せたが、本当のことを話せばもっと怒られるに違いない。それに、志摩ばかりを宛にするのも悪い気がしたのだ。
……それにしても、やっとちゃんとした笑顔を見せてくれた志摩にほっとする。
「でも、本当にケガとかは大丈夫なの? 見えないところについてたりは」
「ほ、本当大丈夫だから……うん、心配しないで大丈夫だよ」
心配する志摩に手を取られそうになり、つい、俺はその手を引いた。
どうもまだ、昨夜の熱が抜け切れていないようだった。浮ついた気持ちの今、志摩に触られては変に意識してしまいそうになる。
「そう、ならいいんだけどね」
慌てて離れる俺に、志摩はそれだけを口にした。なんとなく、先程よりも声が低くなった気がして、しまった、と思ったが瞬きした次の瞬間にはいつもの志摩に戻っていた。
また今日も、一日が始まる。
◆ ◆ ◆
そろそろ見慣れてきた教室内。
なんだか朝から校舎全体が騒がしい……そんな気がした。やっぱり昨夜の騒動のせいか。
そう思ったが、
「最近、校舎に髪の長い女の霊が現れるって噂知ってる?あれ、俺の後輩も見たって」
「本当なの、あれ」
「あ、俺も俺も。先輩でも見た人結構居るらしい」
……女の幽霊?男子校なのに、変な話だ。
クラスメートたちが教室の真ん中に集まって話してるのを盗み聞きしながら、次の授業の準備をしていると、隣の席の志摩が椅子をこちらへと近づけてきた。
「結構持ちきりみたいだね」
「え?」
「髪の長い女の幽霊の話。……教師たちも部外者が無断で侵入してるんじゃないかって騒いでるみたいだったし」
「……そうなんだ」
どうやら志摩も同じ会話を聞いていたらしい。
声を潜める志摩。確かに、幽霊というよりも部外者の方が信憑性はある。……どちらにせよ信じたくない話ではあるが。
「齋藤って怖いのとかって平気な人?」
「平気……じゃないよ、そんなに」
「ふーん」と、志摩は軽く鼻を鳴らし、そして、満面の笑みのままこちらをじっと見てくるのだ。
なんとなく、俺は志摩のその含んだような笑顔に嫌な予感を覚えた。
「な、なに……?」
「ねえ齋藤、肝試ししない?」
「俺たちで調べてみようよ。女の幽霊いるかいないかさ。不審者なら別にそれでいいしね」また、突拍子のないことを言い出した。
楽しそうじゃない?なんてまるで他人事のように提案する志摩に、冷や汗が滲む。
「ま、待って……俺、今、平気じゃないって言ったよね? なんか流れがおかしいんだけど……」
「大丈夫大丈夫、俺も怖いのとか得意じゃないしね。けど、齋藤がいたら平気だと思うな」
絶対嘘だ。
「というわけで、今夜決行ってことで。また夜連絡するからちゃんと部屋で待機しててね」
拒否権はないし、この男、絶対楽しんでるに違いない。
◆ ◆ ◆
「……はぁ……」
今日の夜のことを考えると、意識せずともため息が漏れてしまう。そんなことしていいのだろうか、俺達が、と思う半面、ワクワクしている自分もいるのだからどうしようもない。
昼休み、教師に引き止められていた志摩に「先に食堂行ってて」と言われ、そのとおりに俺は校舎付属の食堂へと向かっていた。
トボトボと一人歩いていたときだ。
「あれ、佑樹?」と、不意に背後から呼び止める声が聞こえてきた。
振り返れば、そこには一際目立つ男子生徒がいた。シルバーアクセサリーにピアス、着崩した制服。とても生徒会の役員には見えない生徒会書記・十勝直秀は、俺を見つけるとパタパタとこちらに駆け寄ってくる。
「あ……十勝君……えと……こんにちは」
「ははっ! こんにちはってなんだよ。……どーしたんだよ、さっきから浮かない顔してっけど、迷子か?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど……」
「じゃあ……やっぱ昨日のあれのせいか?」
見かけに依らず、十勝は鋭い。確かにそれはそれで俺の懸念の一つでもあったが、今はもう1個大きな問題が存在するのも事実だ。
けれど、志摩との約束を生徒を纏める立場である十勝に言うわけにはいかない。
俺は咄嗟に話題を変えることにした。
「……十勝君も昼食に?」
「いや、俺は違うよ。ちょっと会長んところ行く途中で、そんで通りかかっただけ」
「え? そうなの? ご、ごめんね、引き止めちゃって……」
「まーいいって、別に急ぎでもねーし。それに、少し時間経って行った方がいいだろうし」
何かを思い出したのだろう、少しだけ十勝の笑顔が曇る。
「そうなの?」と聞いてみれば、十勝は「そうなんだよ」とあっさりと教えてくれる。
「朝からさー、会長すげーイライラしてたし、会議でもすごかったんだぜ、聞いた?親衛隊のやつら、停学っての」
「う、うん……噂でだけど……」
「退学にしろの一点張りの会長を教師たちが宥めてんだよ、笑えるだろ?」
「多分、改めて佑樹に謝らせに行くことになるだろうからそんときはよろしくな」なるべくならもう二度とよろしくしたくないところだが、「分かったよ」と頷いておくことにした。
一頻り十勝との会話を終えると、腕時計に目を向けた十勝は「時間経つのはえーな」と唇を尖らせる。
「んじゃ、そろそろ俺行くわ。じゃーな!」
「元気出せよ!」と俺の肩を軽く叩き、そのまま歩いていく十勝。
「ありがとう」とその背中に声を掛ければ、十勝はこっちを振り返り、ひらひらと手を振ってみせた。
十勝の話を聞く限り、昨日のことはひとまず一件落着のようだ。
不安ではないと言えば嘘になるが、芳川会長ならちゃんとしてくれるだろう。
そして、放課後。
なぜこういう日に限って何事もないのに急速に時間が進むのだろうか。あっという間に学校から解放された俺は自室に帰っていた。
志摩には自室で待機してろと言われたけども、正直、生きた心地がしない。
制服を着替え、点けっぱなしになっていたテレビのニュースを流し見していると、先程朝飯を食ていた阿佐美が俺の隣へとやってくる。
そして。
「ゆうき君、どうしたの? なんか、元気ないね」
十勝にも言われて、阿佐美にも心配されるとは俺の態度も相当なのかもしれない。
正直元気になる要素がないに等しい。
不安そうな顔をする阿佐美に、俺はなんと答えればいいのだろうかと口籠る。そして、閃いた。
「……あの、詩織」
「ん?」
「詩織って、怖いのとか平気?」
「怖いの? ホラー映画とかってこと? ……まあ、平気だけど……」
「本当っ?」
「わっ、びっくりした……」
「どうしたの?怖い夢でも見たの?」そう余計不安そうにしてくる阿佐美に、俺は決断する。
こんなに気分が晴れないのは不安のせいだ。そしてその不安要素は肝試しということではなく、間違いなく何かを企んでる志摩にもあった。そして、その不安要素を無くすには……。
「あの、詩織……お願いがあるんだけど……」
「俺に?」と小首傾げる阿佐美に、俺は大きく頷いた。
今の俺には、阿佐美という安全牌が必要だったのだ。
約束通り、志摩はやってきた。
そして、俺たちを見て呆れたように息を吐き出す。
「……本当、どうしてこうなるかな」
いつもの笑顔はそこにない。睨んでくる志摩に、俺は、なんとかに睨まれるカエルの如く縮み上がった。
「う……えと、人数多いほうがいいかなって思って……」
「こういうのは少人数がいいんだよ、目立たないしね」
「ご、ごめん……」
「ゆうき君が謝らなくていいよ。苦手なんだよね、怖いの。俺は、その判断を悪いと思わないよ」
そんな俺をフォローしてくれるのは阿佐美だ。いつもよりも声が優しい。
そして、志摩の方を見る。
「何を企んでるか知らないけど、苦手なものを強要するのはあまり良くないと思うな……志摩」
「なに? 俺に説教するつもり?」
やっぱり、この二人は相容れないようだ。流れる空気に不穏なものが流れ始め、背筋に汗が流れる。
十中八九、俺が原因であることに違いない。どうにかしなければ、と思い、「あ、あの……志摩……」と恐る恐る声を掛けたときだ。
こちらを向いた志摩は大袈裟に溜息を吐いてみせる。
「ま、いいけどね。その代わり、足手まといになるようなら置いていくから」
諦めたのか、棘のある言い方をする志摩に「分かってる」とだけ阿佐美は返した。
「し、詩織も……」
二人とも、落ち着いて……と声を掛ける隙もなく志摩は歩き出した。そして、それに続いて阿佐美も歩き出す。向かう先は校舎だろう。
俺は、二人に遅れを取らないように慌てて走ってついていく。
相変わらずギスギスとした空気は変わらないが、正直二人がいるというのは心強いというのが本音だ。こんなこといったら、また志摩に嫌味の一つや二つをいわれてしまいそうだが。
そして学生寮を後にした俺達は、校舎前までやってきた。
そこに、昼間見ているような壮観さはなく、真っ暗な空の下佇む建物には形容し難い不気味さが漂っている。人影一つもないからこそ、余計際立つのかもしれない。
昇降口の扉に触れてみる。冷たい金属のドアノブを押したり引いたりしてみるが、びくともしない。
「……志摩、ここの扉鍵が掛かってるみたいだけど……やっぱり中止に……」
「違うよ、そっちじゃなくてこっち」
しないか、と続けるよりも先に、志摩に肩を叩かれる。そして、連れて行かれた先は校舎裏だった。
普段は通らないそこはやけに湿っぽい空気が流れていた。暗がりで植木にぶつからないように、俺は携帯端末のライトを付けながら志摩の後をついていく。
そして、ようやく立ち止まった志摩はそこに組み込まれた窓を開けた。
「よかった、ちゃんと開いたままになってたね」
「…………」
「ほら、どうしたの? 齋藤。ここから入るんだよ」
「…………すごい準備いいね」
「基本だよ」と笑う志摩に、最早何も突っ込む気になれないという顔をずる阿佐美。
志摩はこの窓から校舎内部へと侵入すると言うのだ。
やはり逃げ道はないらしい。半ばやけくそになりながら、俺達は窓をよじ登って校舎内へと侵入した。
外から見たときもなかなか不気味だと思っていたが、中はそれの云倍だ。
広い空間に足音が響く。
何かが動いたと驚く度にそれが自分たちの陰だということもあった。
けれど、やはり阿佐美も志摩もあまり怖くはないようだ。涼しい顔して辺りを探索してる二人が頼もしい反面、なんで怖くないのだろうかと不思議だった。
「こ、こんなに暗いんだ……」
「もうこの時間に残ってる教師もいないしね、殆どの電気は消えてるんだよ」
やけに詳しい志摩。やはり、侵入するに当たって色々事前情報を仕入れてきたのか。
「へえ……」と精一杯なんともない振りをしてみるが、志摩には勘付かれたようだ。
「怖いの?」とこちらを振り返ってくる志摩に、内心ギクリとした。けれど、ここで強がるのも変な話だ。
「少しだけ」そう白状すれば、志摩はくすりと笑い、そして手の甲を軽く擦り合わせてきた。その感触に驚く。
「大丈夫だよ、俺が居るから」
確かに、志摩の存在は心強くはあるけど。やっぱり俺の反応を見て楽しんでいるような気がしてならないのだ。
「それで、肝試しってことは何かするつもりだったんだろ?」
「まあね。……本当は最初と予定狂っちゃったけど、まあいいや。各自幽霊が出るって評判の教室の写真を撮ってくるってのはどう?」
「……え? か、各自って……」
耳を疑った。思わず聞き返す俺に、志摩は「もちろん一人で」と付け足す。聞き間違いではなかった。
冗談だろう、それでは話がまるで変わってくる。
「志摩、一緒にきてくれるんじゃ……」
「そのつもりだったけど、誰かさんがついてきたから予定狂っちゃったんだよね」
「……俺がいたら何か不都合でもあるわけ?」
「大有りだね。奇数はバランス悪いって話だよ。だから各自指定の教室の写真を撮って、昇降口で落ち合おうよ」
「そっちのが面白そうだしね」と笑う志摩。何が面白いのか全然分からないが、恐らく阿佐美も俺も考えていることは同じだろう。絶対何かを企んでる。
「一応聞いておくけど、指定の教室っていうのは……」
「阿佐美は『1-B教室』で、俺は中庭、齋藤は『視聴覚室』。……ってことでどう?」
「……し、視聴覚室……」
挙げられた三つの場所の中では一番距離がある気がするのだが、気のせいではないだろう。
何か志摩の意図を感じたが、俺が口を挟むよりも先に志摩は続けた。
「ちゃんと行ったっていう証拠のために、教室のプレートを撮ること。んで、撮った人から昇降口で待機ね」
「わかった」とそれに答えたのは阿佐美だった。
わかったのか、わかってしまったのか、阿佐美。
俺は到底わかりましたと言えないが、この空気の中で反論することができなかった。
「……それじゃあ、行こうか」
斯くして、俺の心配なんて他所に肝試しが始まってしまったのだ。
視聴覚室は特別教室棟の三階にある。現在いる普通教室棟からまず棟同士を繋ぐ通路を通らなければならないため、俺は初っ端から皆と別れることになった。
中庭へと向かう志摩と一年教室へと向かう阿佐美は途中まで同じ通路のはずだが、あの二人喧嘩してないだろうか。一人で行動することも勿論不安だが、正直そちらが気になって気がきではない。
薄暗い通路。二人の足音も声も聞こえなくなった。外で風の吹く音が聞こえる度に反応してしまう。
足元を照らす携帯端末の明かりだけが今の俺には頼りだった。
人はいないと聞いているが、自然と音を立てないように気をつけてしまうのは人間の性というものだろうか。
とにかく、早く終わらせて皆と合流しよう。心細さを紛らわせるように、静かに、それでいて足早に特別教室棟へと移動する。その間、なるべく辺りは見ないようにした。
特別教室、三階。視聴覚室があるのは確かこのフロアだ。
ずっとライトを起動していたお陰か、端末の電源も少なくなってきている。電源が切れる前に、済ませよう。そう思い、視聴覚室へと足を向けたときだった。
カツン、と、遠くで音が聞こえてきた。
なんの音だろうか、と思うよりも先に、二回、三回とその硬質な音が続く。聞こえてくる音が足音だと気付くのは容易なかった。
志摩たちかと思ったが、そんなはずがない。二人とはさっき普通教室棟1階で別れたばかりだ。俺よりも先にここに来ているはずがない。
それに、志摩の話ではこの時間帯に誰かがいることはまずないと言っていた。
ということは、この足音は……なんだ。
こんがらがる思考。嫌な汗がぶわりと噴き出し、俺は、いても立ってもいられずその場から駆け出した。登ってきたばかりの階段を降り、足音が響くのなんて関係なく、とにかく早くその場から逃げたくて、脱兎の如く逃走する。
どれくらい走っていたのだろうか。気付けば、目的の視聴覚室から大分離れたところにいた。
特別教室棟一階。走ったせいだけではない、嫌な汗を拭う。
「っ、はぁ、はぁ……」
さっきのは、誰だったんだ。俺たち以外にまだ誰かいるのか。それとも、別の何かか。
バクバクと心臓が破裂しそうな程脈打つ。
やめよう、考えるのは。そう思うのに、得体の知れない恐怖心が全身を支配し、思うように動けなくなるのだ。
やっぱり、無理だ、こんなの。志摩には悪いが、ここは恥を忍んでリタイアしよう。というか、もしかしてこのことも志摩が仕組んだ一部なのだろうか。分からない。けれどそう思った方が楽だった。
ひとまず志摩に連絡を取ろうと思い、携帯端末を取り出したとき。タイミングよく志摩から着信が入る。俺は慌ててそれに出た。
「ッ、志摩?」
『齋藤、そっちはどう? もう着いた?』
「ま、まだ……。あの、志摩、それよりも、聞きたいことがあるんだけど……」
『どうしたの?』
「あのっ、本当にこの時間帯ってもう誰も……」
いないんだよね、と言い掛けた矢先のことだった。
カツリと、音が聞こえてきた。それも、すぐ背後から。
呼吸が止まる。静寂の中。携帯端末から『齋藤?どうしたの?』と志摩の声が聞こえてくるが、返答することはできなかった。携帯端末を握り締め、恐る恐る振り返ろうとしたときだった。
「……何をしてる」
「ヒィ……ッ!!」
聞こえてきたその声に、考えるよりも先に体が動いていた。
『えっ、ちょっと、齋藤?齋藤どうしたのっ? さいと……』
志摩の声が聞こえてきたが、返答してる余裕もなかった。携帯切って、俺は再びその場から逃げ出す。
背後から追いかけてくる様子はなかったが、一瞬、青白い顔が見えた……ような気がしたのだ。気配のなさに声の鷹揚のなさ。幽霊なのかどうかなんて分からないが、とにかく逃げなければと直感した。
「はっ、はひ……ッひぃ……」
大分走ったせいか、呼吸が苦しい。
脇腹も痛くなってきた。帰ろう、肝試しなんか知ったこっちゃない。早く帰ろう、そして志摩たちと……。
普通教室棟へと向かって走ってたときだ。視界の先、通路の曲がり角奥からライトが見えた。志摩たちだろうか、そう思って咄嗟に「志摩!」と駆け寄ったときだった。
「おわっ!!」
「……ッ!!!」
聞こえてきたのは、志摩の声でも阿佐美の声でもない。照らされ、眩しさに思わず目を瞑る。
「お、お前……齋藤か?」
そして、聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
名前を呼ばれ、目を凝らす。そこには、スキンヘッドに顎髭を蓄えた大柄な男がいた。間違えるはずもない、五味だ。
なんで五味が、という疑問よりも先に、声にびっくりして腰が抜けてしまう。その場に座り込む俺に、五味は慌てて俺に駆け寄った。
「お……おい、大丈夫かよ、ってかどうしてこんな時間にここに……」
「ご、五味先輩こそ……どうしてここに……」
「ああ、まあ俺達はだな……」
……達?ということは、まさか。と辺りを見渡したときだ。
遅れて、バタバタと足音が近寄ってきた。
そして、
「五味さん、なんかすげー声聞こえましたけど……って、あれ、佑樹?」
「……と、十勝君……?」
「なーんだ、さっきからバタバタ聞こえるって思ったらお前かよ。ビビって損したー」
「……え、えと、なんで……生徒会が……」
「……見回りですよ。貴方のような方がいないかの」
すぐ背後から高揚のない声が聞こえてきて、「ヒィッ」っと情けない声が出てしまう。振り返ればそこには、鉄仮面のような無表情を貼り付けた男・灘和真がいた。
「おい灘……お前はもう少しまともに出てこれないのか……」
「まとも、ですか。自分はいつも通りですが」
「無音なのがこえーんだって。ほら、齋藤が隅で丸くなってんだろ」
「申し訳ございません」
そう、頭を下げる灘。もしかして、先程暗闇の中で俺に声を掛けたのは灘だろうか。あまりの気配のなさに、俺はなんだかまだ夢を見ているような気分が抜けきれなかった。
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