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五月三日目【逢引】

 目が覚めれば全部夢でした、ということになればそれが一番良かったのに。  眠ったはずなのに、全身の気怠さは取れていない。  まだアラームは鳴っていない。もう少し、眠ろう。そう、寝返りを打とうとするが、体がびくとも動かないことに気づく。 「……?」  何故だ、と思い、自分の体に目を向ければ、背後から回された手にがっちりと抱き締められてることに気付いた。  そして、すぐ背後から聞こえてくるのは、気持ち良さそうな寝息。 「…………………………」  穏やかな寝顔を見てると、憂鬱な気持ちも吹き飛んでしまいそうだった。  というかいつの間に入ってきたんだ……。  阿佐美なりに俺のこと気遣ってくれてるのかもしれない。……目覚めはあまりよくないが。ありがとう、の代わりに軽く頭を撫でてみる。寝癖なのか、元々が癖っ毛なのか、触ってもくるっと跳ねる髪の触り心地はいい。なんというか、犬の毛並みみたいな……。  不意に、動かした指が阿佐美の前髪を掠める。いつもは見えていなかった阿佐美の目が覗き、一瞬、ギクリとした。……いや、そうだよな、阿佐美だって俺と同じなのだから目があってもおかしくはない。けれど。  閉じられた瞼に、それを縁取る睫毛。一瞬覗いたそれに、心臓がやけにドキドキと煩くなる。  端正な方だと思うし、何故隠してるのかも分からない。  ほんの、興味本位だった。そっと、再び阿佐美の前髪を持ち上げる。そのとき、阿佐美の眉、その付近に着いたピアスを見て、息が止まった。  ピアス、それも、こんな位置に。それよりも、俺は、同じ位置にピアスを開けてる男のことを思い出した。  阿賀松伊織。その固有名詞が頭を過ぎったときだった、阿佐美の目が開いた。 「……ゆうき君?」 「っ、あ、わ、ご、ごめん……」  慌てて手を離す。寝惚けているのか、まだもにゃもにゃした阿佐美は「なにが?」と不思議そうな顔をしていたが、俺は、何も返せなかった。  ……あまり、いいとは言えない目付き。ピアス。……正直、似ていると思ってしまった。あの男と。  見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感。俺は、後ろめたさから阿佐美の顔を見ることができなかった。  朝、阿佐美は二度寝するのかと思ったが、俺が逃げるようにベッドを降りると、つられるかのように伸びをしながら動き始める。  阿佐美が顔を見せたがらないわけが分かったような気がした。  沈黙が気まずくて、俺は、リモコンを操作してテレビを点けた。朝の星座占いが始まったところだった。 「……ゆうき君、大丈夫?」  不意に、背後に立つ阿佐美に声をかけられ、心臓が飛び跳ねそうだった。  もしかして、寝てる間にこっそり顔を見たの、バレていたのか。そう蒼白する俺に、阿佐美は「今日、休めば?」と続けた。 「あ……」 「ちょっと顔も赤いし、熱っぽいよ。……志摩のことも気になるし、心配だよ」  そっちか、と安堵するのも束の間、昨夜の志摩とのことを思い出し、熱が引いていく気がした。  ……そうか、学校で、顔を合わせることになるのか。それも隣の席なのだから、無視しようがない。 「大丈夫……だよ、うん、ありがとう……気にしてくれて」 「……ならいいけど」  言いつつも、やっぱりどこか阿佐美は心配そうだった。  気まずいけど、元はといえば俺のせいだ。寧ろ、俺はあんな態度を取ったのだ、志摩の方が俺に嫌気差してもおかしくないのではないか。  制服に着替え、ネクタイを締める。  気にしたところで、仕方ない。とにかく、いつも通りに……。そう、考えたときだった。  部屋のインターホンが鳴り響く。  え、と思いながら、「はい」と、扉を開けようとしたときだった。 「おはよう、齋藤」  そこにはいつもと変わらない笑顔の志摩が立っていた。 「し、ま……」 「よかった、今日はちゃんと寝癖もついていないみたいだね。……それじゃ、行こうか」  そう言って、志摩は俺に手を伸ばした。  俺は、その手を取れなかった。  どうして、そんなにいつも通りなんだ。まるで昨日のことなんかなかったみたいに、いつものように接してくれる志摩が何を考えてるのかわからなくて、俺は、立ち竦む。 「……齋藤?」 「あの、どうして……」 「どうしてって……何が?」 「ああ、もしかして、昨日のこと?」そう、あっけらかんと口にする志摩に、鼓動が加速する。居た堪れなくなり、顔が熱くなる。 「……いつも通りじゃ嫌だった?」  そう、引っ込めた手を掴まれそうになったときだった。  背後から伸びてきた手に、肩を掴まれ、志摩から引き離される。 「悪いけど、齋藤君具合悪いみたいだから」 「……先に一人で行ってて」そう、俺を部屋の奥へと戻した阿佐美は一方的に志摩に告げ、そのまま問答無用で扉を閉めた。すぐに、内鍵とチェーンも掛ける。 「……詩織」 「……大丈夫?」 「ありがとう……」  心臓は、まだバクバクしたままだった。  こうして助けられてばかりで……情けないな。 「少し時間空けた方がいいと思うよ。……あいつ、多分待ち伏せしてるだろうし」 「……うん」 「……あの、ゆうき君、あまり俺が口を挟むべきじゃないとは思ってるんだけど……嫌だと思ったら、断っていいから」 「申し訳ないとか、そういうの、ひとまず置いておいてね」そう続ける阿佐美。本当に、心配してくれてるのだろう。優しい声。その言葉に、俺は「わかった」と頷いた。  阿佐美が何を言わんとしているかは、すぐに分かった。  けれど、それが出来れば俺は、きっともっと違う人生を送っていたのだろう。そういう風に思ってしまうから俺は駄目なのだろう。  それから阿佐美と一緒に時間を潰した。一緒にテレビを見て、時間が過ぎるのを待つ。  こんな風にサボるのはやっぱり罪悪感があるが、それでも、阿佐美が一緒にいてくれるからか、後ろめたさよりも楽しさの方が勝った。 「……そろそろ行こうか」  そう、阿佐美が言ったのは一時間ほど経った頃だった。既にホームルームが始まってる頃だろう。  俺と阿佐美は食堂へと向かうことにする。  開いているのか疑問だったが、阿佐美が「俺みたいなのもいるから基本学校がある時間帯は開放してるよ」と教えてくれる。本当に、生徒中心というか、奔放というか、いいのか悪いのか俺には分からないが、阿佐美のような生徒の立場からしたら便利だ。  学生寮一階、食堂。  阿佐美の言うとおり、食堂の中には結構な人数の生徒がいた。  けれど、本来ならば教室にいるのが当たり前の時間帯である。それなのに呑気に食事をしてる人間となると、かなり限られてくるわけで。 「……っ、……結構……人、多いね」 「そうだね。いつもはもう少し空いてるはずなんだけどな……」  早い話、ガラが悪い生徒ばかりがいた。  先頭を行く阿佐美が食堂の扉を開けた瞬間、一斉に視線がこちらに向く。  阿佐美は対して気にしている様子はないが、向けられる好奇の目に、含んだ笑みに、居心地の悪さを覚える。 「……ゆうき君?」  阿佐美は、食堂の中へ入ろうとしない俺に気付いたようだ。名前を呼ばれ、ハッとする。 「あ……ごめ、俺、お腹痛くなったからトイレ……」 「え? 大丈夫?」 「詩織は、先に食べてていいから……」  ごめんね、と言い、俺はその場から逃げ出した。  正直、阿佐美が平気なのが意外だった。だって、あんな空気の中でご飯食べて味がするわけがない。  ……人から注目されることは、苦手だ。それ以上に、ああ言う風にガラの悪い連中は、特に。  別にお腹なんて痛くなかった。とにかくあの場に痛くなくて咄嗟に口にしたいい訳だ。  そのつもりだったけど、なんだか本当にお腹が痛くなってきた。  取り敢えず、トイレに行こう。そして、頃合いを見て阿佐美のところに戻ろう。  そう、思いながら最寄りの男子便所に向かおうとしたときだった。一階、通路。道を曲がろうとしたとき、足元ばかりを見ていたせいで向こう側からやってくる人影に気づけなかった。 「……ッ、ぁ」  ドン、とぶつかる。驚いて顔を上げた時、伸びてきた手に体を支えられた。そして、足元でカランと何かが落ちる音がした。  それは、銀の松葉杖だった。 「……大丈夫?」  一言で表すなら、青。ぞっとするほどの整ったパーツに、中性的な顔立ち。  そして、角度によっては真っ青にも見える濃紺の頭髪。  男は、「ごめんね、俺がよそ見をしてたせいで」と申し訳なさそうな顔をした。 「す、すみません、俺の方こそ、あの、……怪我は……」 「ああ、俺は大丈夫だよ」  慌てて松葉杖を拾おうとすれば、そう言って男は俺よりも先に松葉杖を拾い上げた。 「大した怪我でもないし」 「で、でも……本当にごめんなさい……俺……その……」 「大丈夫だって、ほら」  そう言って両足をぱたぱたと動かして見せる青髪の男は「ね?」と人良さそうな笑みを浮かべる。確かに痛がる素振りはないが、どちらにせよ自分の不注意のせいでと思うと顔があげれなかった。 「す、すみません……」 「はは、すごい顔だ。青褪めてる。……それじゃあ、君のクラスと名前教えてよ」 「え?」 「そしたらチャラにするから、今回のこと」  ね、と小首傾げる青髪の男。なんとなく、距離が近いような気がしたが、そんなことを言ってる場合ではない。 「えと、二年B組……齋藤佑樹です」 「へえ、齋藤君。もしかして君、転校生?」 「え、あ……はい……今年の四月から……」 「……なるほどね、そりゃあ俺が君のことを知らないわけだ」 「……?」  どういう意味だろう、と顔をあげたときだった。  青髪の男は俺の肩をぽんと叩き、「それじゃ、齋藤君またね」と笑う。  またねって、なんだ。それを尋ねるよりも先に、青髪の男はそのままその場を立ち去った。 「あ、あの……」  そう、声をかけようとしたときにはすでに男の姿はなかった。  ……不思議な人だ。それでいて、なんだか胸の奥がざわざするような……よくわからない感じだ。  暫く呆けてると、反対側から「ゆうき君!」と名前を呼ばれる。そこには、俺を探しに来てくれたらしい。阿佐美がいた。 「ゆうき君、やっと見つけた……トイレにも居ないからどこに行ったのかと……どうしたの?」 「えと……今、そこで人にぶつかってしまって……それで……」 「ぶつかった? ……大丈夫だったの?」 「う……うん、いい人だった……青い髪の……松葉杖ついた人で……」  そう、しどろもどろと説明したときだった、阿佐美の表情が変わる。 「……ゆうき君、そろそろ行こう」 「え? でも詩織、ご飯は……」 「もういいよ」  なんか、怒ってる……のだろうか。  急にそんなことを言い出す阿佐美に驚いて、「わ、分かった」と慌てて頷けば、阿佐美ははっとしたような顔をずる。 「……別に、ゆうき君のせいでとかってわけじゃないんだけど……早くここを移動した方がいいと思って……ごめん、きつい言い方になっちゃって」 「いや、俺の方こそ……ごめん……」 「…………」  なんとも言えない空気が流れる。阿佐美はフォローしてくれるけど、俺がそういうことに慣れていなさすぎるのだろう。俺は、阿佐美とともに教室へと戻ることになる。  教室では、既に一限目の最中だった。  教師は入ってくる俺を見て「齋藤君、後で職員室に来なさい」とだけ告げた。  俺だけか、と思ったが、前に志摩から聞いていたことを思い出す。阿佐美は、特待生だったか。  ちらりと阿佐美を見れば、阿佐美はごめんね、と口を動かす。  ずるいとは思わないが、こういうとき咎められないのは羨ましいなと思った。俺は「わかりました」とだけ答え、席につく。席には既に、志摩がいて。 「随分と、阿佐美と仲良しだね」  椅子に腰をかけ、教科書の準備をする俺に目もくれず、そんなことを言い出した。  まさか志摩の方から話しかけてもらえるとは思ってもなくて、なんて返していいか分からず、口籠る。 「……別に、……」  そんなことは、ない、と思うけど。  そう言えばいいだけなのに、含みのある志摩の言葉に、強く言い返せなくて、とうとう俺は何も言えず押し黙る。そんな俺の態度が癪に障ったらしい。 「……あのさぁ、俺、そういう反応されると結構傷つくんだけど」  授業中にも関わらず普通に話しかけてくる志摩に、戸惑った。何を考えてるんだ。 「授業中だから」と言えば、志摩の目の色が変わる。 「嘘」と唇が動いた。 「昨日のこと、気にしてるんでしょ」 「ねえ、齋藤」そう、伸びてきた手に手首を取られ、俺は、驚いて手元の参考書を落としてしまう。  落ちるそれを拾った志摩は、「意識しすぎじゃない?」と俺の机の上に参考書を置いた。……顔が、熱くなる。  隣に志摩がいる状態で、授業なんか集中できるわけがなかった。初めからわかってたはずだ。  俺は志摩の存在を気にしないように、無心で教科書を見ていたが、それでも、突き刺さる志摩の視線を感じないものとすることはできなかった。  正直、先生に呼び出されたのはラッキーだった。志摩と顔が合わせ辛くて、俺は逃げるようにすぐに職員室に向かった。  ちなみに内容は、遅刻への注意と「もしも遅れるときは前持って連絡しなさい」ということだった。それほど怒られずに安堵したが……やはりこういうことはするものではないなと思う。  職員室を出たとき、よく見知った人を見つけた。芳川会長だ。 「会長……こんにちは」 「ああ、奇遇だな。君も職員室に何か用事か?」 「いえ……俺の場合は用事というよりも……」  その、と口籠る俺に何かを汲み取ったようだ。芳川会長は、「程々にな」と笑う。  恥ずかしかったが、何も言い返せない。 「そう言えば、齋藤君。昨夜校舎で肝試しをしていたと小耳に挟んだんだが」 「えっ、あ、あの……すみません……!」 「勿論あまり褒められたことではないが、俺が聞きたいのはそっちではなくてだな……君、部屋の鍵は落としていないか?」 「鍵……ですか?」  言われて、鍵をしまっていたはずのポケットを探る。  が、いつの間にかに鍵の感触はなかった。  いつからだらと思い返すが、昨夜に今日と阿佐美に部屋の鍵の施錠解錠は任せっぱなしにしてたのでよく思い出せない。  一度携帯の充電しに戻ってきたときはあったはずだが……。 「すみません、落としたみたいで……」 「だと思った。実は鍵の落とし物があったんだ。一応各教室にて確認するようにとは伝えていたが……」 「す、すみません……」 「そんなに謝らなくてもいい、困るのは君だしな。……と、すまない。どうやら俺も鍵を忘れてきてしまったようだ」 「生徒会室に君の部屋の鍵を置いたままにしてしまっていた」と会長。 「また後で君の教室まで届けよう」 「いえ、それは流石に悪いので……あの、放課後、俺、取りに行きますよ」 「……いいのか?」 「はい。……それに、元はと言えば落とした俺が悪いので」 「それは、すまないな。なら、今日の放課後待っている」  というわけで、放課後生徒会室に向かうことになった俺。  それにしてもどこに落ちてたのだろうか。気になったが、会長が見つけてくれてて助かった。  俺は会長に別れを告げ、教室へと戻った。  ――休み時間。  教室内はクラスメートたちで賑わっていたが、阿佐美と志摩の席は空いていた。  二人とも、どこかに行ってるようだ。  ……大丈夫だろうか。二人一緒に出ていったわけではないと思うがなんとなく心配になってしまう。そわそわしてると、阿佐美が教室へと戻ってきた。席についてる俺を見て、「ゆうき君」と駆け寄ってくる。 「先生、大丈夫だった? ……ごめん、俺のせいで……」 「大丈夫だったよ、軽い注意だけだったし……それよりも、あの、志摩は……」 「志摩? ……あいつは、廊下で擦れ違ったけどどこに行ったかは知らないよ」 「……そっか」 「…………」  き、気まずい……。  志摩の話題を振ったのが悪かったのかもしれない。 「あの、詩織」と咄嗟に話題を変えようとするも、タイムアップ。備え付けのスピーカーからチャイムの音が響いた。授業が始まる。阿佐美は「また後でね」とだけ告げ、そのまま自分の席へと戻っていく。  結局、二限目の授業が始まっても志摩が戻ってくることはなかった。

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