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03※嘔吐
「っ、は、ぁ……ん、ッ、ぅ……ッ!」
口の中に侵入する阿賀松の指に、強引に舌根っこを擦られる。それだけで、お腹いっぱいに溜まっていたそれらは込み上げてきて、いやだ、と口を閉じようとするにも閉じられず、溢れ出すそれを止めることもできず俺は便器に向かって吐き出した。
「俺は甘いもんが大嫌いなんだよなぁ。今度からは食うなよ。お前にキスができねぇだろ」
「お゛ッ、ん゛、ぉえ゛ッ」
びちゃびちゃと音を立て、まだ形の残っているそれらが水面へと落ちていく。せっかく食べたものが、阿賀松によって根こそぎ吐き出させられる。
強制的な嘔吐に、頭が痛む。生理的な涙。胃液混じりの唾液が溢れ、それでも執拗に喉奥を指で擦られ、体が痙攣した。喉が焼けるようにひりつくばかりで、これ以上は何もでない。濁った唾液が太い糸のように垂れ、肩で息をする俺を見て阿賀松は「よし」といった。
「二度とこんな吐瀉物食うんじゃねえぞ、ユウキ君」
「わかったか?」と阿賀松は優しい声音で囁きかけてくる。俺が何も言えないでいると、頬を叩かれる。乾いた音ともに焼けるような熱が広がり、体が震えた。
「わ、わひゃり……まひは……」
散々摘み出され、引っ張られた舌に感覚はない。
俺の返事に満足したのかどうかは知らないが、阿賀松は笑い、それから俺を洗面台へと連れて行く。それから無理矢理口をゆすがれた。何度も蛇口に口元を押し付けられ、阿賀松の指で残った吐瀉物を現れる。鼻に水が入り、噎せて首を引っ込めようとしてもそれは敵わなかった。
誰か、誰か、きてくれ。助けてくれ。
俺が戻ってくるのが遅いと思った誰かが、様子を見に来てくれないか。そう、願ったときだった。
足音が、近付いてきた。
カツンカツンと響くその足音は軽い。誰か、と滲む視界、目だけを動かしたとき。
「……あんた、遅すぎ」
現れた栫井に、俺は、全身が凍りつくのがわかった。
けれど、栫井でもいい、この際誰でもいいから、助け……。
「よぉ、ちゃんといいつけは守ったかよ平佑ちゃん」
「……守ってる。会長たちは帰ってもらった。俺が責任持って送り届けるってことでな」
「…………っ」
目の前が、真っ暗になる。
最悪の可能性が、起きたのだ。最初から、栫井はやっぱり阿賀松の命令で動いていた。ということは、阿賀松がここにいるのはもしかしなくても……。
「あの変態が早くしろってうるさいんだけど。……まだ? 変態プレイなら戻ってきてやれよ」
俺の姿を見て、栫井はまるで汚らわしいものでも見るかのように吐き捨てる。顔が、熱くなった。
阿賀松は、怒るどころか楽しげだった。「悪いかよ」と、悪びれた様子もなく笑う。
「仕方ねえ、あいつは我慢が出来ねえからな。……おらユウキ君、行くぞ。歩けねえなら俺が抱っこしてやるよ」
「……っ、……」
「嫌なら一人で歩け」
拒否権は、相変わらずない。
阿賀松に肩を掴まれ、歩かされる。無茶な嘔吐を繰り返したせいで頭の酸素を失った今、真っ直ぐ歩くのが難しかった。蹌踉めけば、栫井に脇の下を掴まれた。
ありがとう、なんていう気にもなれなかった。けれど、その手を振り払うこともできず、俺は阿賀松と栫井に連れられて、駅の立体駐車場へと向かわされる。
二人に挟まれてる間、生きた心地がまるでしなかった。
立体駐車場に停められていた真っ青なSUV。そこの運転席には、車と同じくらい真っ青な髪の男がいた。
「本当、災難だよねえ、君も。せっかくの楽しいデートを邪魔されちゃってさ」
縁方人は、俺を見るなり同情する。
阿賀松は俺を後部座席へと押し込め、そのまま隣へと座る。そして栫井は助手席に座った。
大人数でも乗れるだけあって天井は高い。
ドアが閉まるのを確認して、縁はアクセルを踏み込んだ。動き出す車体。密閉空間にこのメンツということ自体が恐ろしく、俺は、呼吸すらまともにできなかった。
縁の趣味なのか、しっとりした重厚なBGMも耳には入らない。ただ、息苦しい空気がそこに広がってる。
誰も一言も喋らない。ただ唯一、縁が曲に合わせて時折指でハンドルを叩きながら歌うくらいだろうか。
学園へ着くのにそれほど時間はかからなかった。
教員用駐車場横、関係者駐車場に車を停めた縁は「はいどーぞ」と扉を開ける。まず一番目に降りたのは栫井だった。縁にお礼を言うわけでもなく、さっさと降りて、眠たそうにあくびを噛み締めながら学生寮へと戻っていく。そして、俺も逃げるように降りようとしたが、阿賀松に腰を掴まれ、抱き寄せられた。
「誰の許可で降りようとしてんだよ」
絡みつく、声。「ごめんなさい」と、脊髄反射で謝罪が漏れる。阿賀松は、いいよと笑う。
「俺、すげえ機嫌がいいんだよ、今」
それは、薄々感じていた。いつもなら怒髪天ついてるだろうところでも、阿賀松は怒らなかった。それでもいつ沸騰するか分からない綱渡り状況は、心臓に悪い。
そして、機嫌がいい阿賀松にも、俺はいい記憶がない。
「なぁ、ユウキ君……お前、芳川と付き合えよ」
ろくなことにならない。その予感は、的中した。
阿賀松の言葉を理解することができなかった。
目を白黒させる俺に、運転席の縁は「うわ、性格悪」と笑う。けれど、阿賀松は気にしていない。それどころか。
「付き合って、セックスして、それを形に残せ。いいか?これは命令だ。俺から可愛い恋人への、最後の命令だよ」
「お前にとっても嬉しいだろ?」そう、笑う阿賀松の笑顔に、呼吸が浅くなる。笑ってるはずなのに、その目は本気だ。俺が拒否すれば、どんな手でも使う。そう言いたげな圧力すら感じさせられる。
この状況で、はい、わかりましたなんて言えるか。阿賀松が言ってることは、到底信じられない、信じたくない横暴だ。会長を、陥れる。俺が、自分で。
「……はい、は?」
何も答えない俺に焦れたのか、その額に青筋が浮かぶ。 会長の笑顔が脳裏を過ぎった。俺の事を考えて、笑ってくれる会長。そんな会長を裏切れというのだ、この男は。
「……っむ、りで……」
す、と答えるよりも先に、腹を殴られた。空になった腹からはなにもでない。体が、芋虫のように跳ね上がった。
「っ、う゛っ! ゴホッ! ぐ……っ」
「齋藤君、はいって言っといた方がいいよー」
「いいんだよ、方人。こいつは、こういうこと言ってさぁ……俺を困らせたいわけ。じゃれてんだよ、なぁユウキ君?」
ぐ、と顔を掴まれる。視界が滲む。薄暗い車の中、頭の中が割れそうに痛む。グニャグニャになって、何も考えられない。俺は、裏切りたくない。あの人を、あの人たちを。そう思うのに。口が動かない。開いたそこからは唾液があふれるだけで。
ニ発目、同じところに食らった拳はひたすら重く、記憶が飛んだ。
どれだけ時間が経ったのだろうか。車の中で阿賀松とどんなやり取りをしたのかも覚えていない。俺は、気付けば車の外、地面の上に転がされていた。
多分、俺は首を縦に振ったのだろう。血こそは出ていないが、動こうとすれば腹部に鈍痛が走る。軋む体。体中が痛み、だるい。
「……大丈夫?」
視界の片隅に、靴のつま先が映る。眼球を動かし、視線をあげれば、そこには縁方人が立っていた。
差し伸ばされた手を取ることもできないでいると、縁はそのまま俺に肩を貸してくれる。
縁も怪我人であるはずだが、今は松葉杖は持っていないようだ。普通に運転もしていたし、本当に怪我はほぼ完治していたのだろう。
「君も無茶するよね、伊織相手に渋るなんて。ああいうやつは『はい』『わかりました』の二つ返事でなんとかなるってのにさぁ」
「……」
「……でも、君が何も言わないときの伊織、あの顔は傑作だったよ、いやぁ本当いいもの見せてくれてありがとね。俺もちょっと楽しかったし」
「……車、汚して、ごめんなさい」
「……っはは、そんなこと気にしてたの? 別にいいよ。この車は伊織専用みたいなもんだし」
縁方人は、よくわからない。阿賀松と一緒にいるのに、安久のように阿賀松を全肯定するわけでもなく、仁科のように付き従うわけでもない。なんなのだろうか、この人は。
俺を休ませるためか、縁はもう一度車に乗せてくれた。後部座席、体を休める俺に縁は一本のペットボトルを手渡してくる。
「それ買うだけ買って飲み損ねたやつなんだけど、飲んでいいよ。あ、未開封だから安心して。ちょっとぬるいかもしれないけどね」
「……ありがとうございます」
「本当は手当してあげたいところなんだけど、生憎救急セットがなくてね。売店で買ってきてもいいけど」
「大丈夫です、その……すみません」
「ううん、いいよ」
そう、隣に腰を掛けた縁はニコニコと笑う。……ちょっと気味が悪い人だと思っていたが、もしかしたらやっぱりいいな人……なのだろうか。
信用するのはよくないと思うが、今だけは、縁の優しさがありがたかった。
ペットボトルを飲むことは、できなかった。今のこの胃では、何をしても受け入れられないだろう。散々刺激を与えられたそこが変になってるのは自分でもわかった。
「……齋藤君、君さぁ、伊織から俺に乗り換えない?」
ペットボトルを握り締め、じっとする俺に、縁はそんなことを言い出した。
脈絡もクソもない。ど直球の告白に、俺は一瞬それを告白だと気付かなかった。
なにを、と驚く俺に「だってさ」と縁は口を尖らせる。
「絶対俺の方が君を幸せにできるよ。……俺と付き合ってくれるんだったら、伊織のことはなんとかしてあげるから」
「どう?名案じゃない?」そう、笑う縁。
悪意はないのだろうが、如何せん言葉が軽い。まるで心に響かないのだ。そりゃそうだ、今日会って知り合ったばかりの相手に口説かれたところで、何一つ信用できないのだ。
……それに、なんだか縁の言葉は信用してはいけない気がするのだ。
疑心暗鬼というわけではないが、あの阿賀松と一緒にいる相手だ。なにを企んでるのか分からない。
「……すみません、俺、そういうのはよく……わからなくて……」
「俺が教えてあげてもいいんだけど?」
「……ご、めんなさい……」
「傷つくなぁ、結構はっきり断るんだね、齋藤君」
「す、すみません……っ」
「いいよ、別に時間はたっぷりあるんだし。俺を知ってもらってからでも全然いいよ」
なんか、かなり危ないこと言われてるような気がするが、一先ずは何もしない……ということなのだろうか。変に意識してしまい、一気に居心地が悪くなる。
「……あの、色々ありがとうございました……俺、戻ります」
「そう?じゃあ、送るよ」
「あ、いえ……」
大丈夫です、と、車を降りようとするが、ろくに腹に力が入らず、蹌踉めいてしまう。そこを、慌てて車降りた縁に支えられた。
「あっぶないな……ほら、無理しちゃだめだって」
「……すみません」
この体で強がることが無謀だったようだ。
縁はドアを閉め、車に鍵を掛ける。「途中まで送るよ」と縁はいう。俺は、素直にそれに甘えることにした。
学生寮一階・ロビー。
消灯時間近いからか、そこに人気はなかった。
俺は、縁に支えられるようにしてエレベーターに乗り込んだ。
目的地は三階。閉まる扉に、少しだけ緊張する。完全な密室。今は助けてもらってるとしても、自分に好意を向けてくれている縁だからだろう。嫌でも意識してしまうのだ。
「そんなに怖がらなくても、大丈夫だって」
するりと、伸びてきた手に肩を撫でられる。シャツ越し、肌に直接触れるかのような手付きにドキリと心臓がはずんだ。
「そこまで意識されると、期待してるのかと思っちゃうよ俺」
「……な」
にを、言ってるのだ、この人は。
咄嗟に俺は「もう、大丈夫です」と、縁から離れようとした。けれど、縁の手は離れない。
「縁、せんぱ……」
「……こう見えて俺、我慢してたんだけど、そんな風な態度されると据え膳だと思っちゃうよね」
エレベーターの壁。体を押さえつけられ、すぐ目の前、覆いかぶさってくる縁にごめんね、と、顎下をくすぐられる。睫毛に縁取られた瞳が近づき、唇に、その親指が触れたときだった。
小さな音を立て、エレベーターが停まる。
目的地三階。開いた扉の前には、客がいて。
「……方人さん?」
縁の肩越し、そこにいた人物を見て、俺はさっと青褪めた。
耳障りのいい柔らかな声は最早聞き慣れ、耳に馴染むようだった。けれど、今だけはひどく久し振りに聞いた気がするのは、気のせいではない。
志摩亮太は、青髪の男の名前を呼ぶ。知り合いなのか、と驚くよりも先に、縁の下にいる俺は角度的に見えていないようだ。気付いていなかった。
心臓が爆発しそうだ。どっと、全身に嫌な汗が滲む。
「おー、亮太、久し振りだな」
そう、俺から手を離す縁。
チャンスだ。俺は、志摩にバレないように背中を向けた。あんな別れ方をして、おまけにこんな場面を見られたりしたらと思うと生きた心地がしなかった。
「いつ、退院したんですか。てか、俺の電話また拒否してませんか」
「退院は結構前。停学解けたのは今日。電話は、悪いな、覚えてねーわ」
「言ってくれたら迎えに行きましたのに」
「いやお前の運転は怖いし、また入院しちゃ洒落にもなんねえからな」
言いながら、エレベーターへと乗り込んでくる志摩。
停学?運転?色々聞きたいことはあったが、ここに長居するわけにはいかなかった。
俺は、志摩から顔を隠すよう角度を変えながら、壁を伝ってエレベーターの扉なら降りようとしたとき。
けれど。
「齋籐君、部屋まで送らなくて大丈夫?」
なんで、このタイミングで俺の名前を呼ぶんだ。
汗が滲む、恐る恐る顔をあげれば、志摩ともろ目が合った。底冷えするような、眼差しに、息が詰まりそうだった。
「ほら、その体じゃ一人じゃ歩けないでしょ」
そう、腰を抱かれそうになったとき。
「そうだ、方人さん、これから退院祝に飲みに行きませんか。俺、奢りますよ」
志摩は、伸ばしかけた縁の手を取り、そして、閉ボタンを押した。
扉が閉まる一瞬、志摩の目がこちらを向いていた、気がした。さっさと行け、そういうかのような、目に、俺は一瞬志摩が助けてくれたのではないかと錯覚してしまう。
エレベーターは一階へと降りていくようだった。志摩が押してくれたのだろう。正直、ほっとした。縁は優しいけど、強引だ。油断したら本当に流されそうになってしまう。
手を貸してくれるのは助かったけれど、それの見返りを求められるなら一人の方がましだと思えた。壁伝えに自室へと歩いていく。
これなら消灯時間までには間に合いそうだ。
そんなことを思いながら、俺は、ようやく部屋に帰ることができて一先ずそのことにほっとした。
今はただ、ベッドに横になりたかった。
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