24 / 166

五月四日目【忠告】

 昨夜阿賀松に殴られたせいか、気怠さと混じって全身に微熱が残っていた。  痛みは大分引いたが、殴られた箇所に触れるとずきりと痛む。  ――なぁ、ユウキ君……お前、芳川と付き合えよ。  昨夜、車の中での阿賀松との会話が蘇る。  あんなことを言われたあと、芳川会長にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。 「……ゆうき君、随分顔色悪いけど大丈夫? 今日は休んだ方がいいんじゃない……?」  動きの鈍い俺を不審に思ったのか、丁度寝ようとしていた阿佐美に声を掛けられる。  目立つ場所を殴られなかったお陰で阿佐美には余計な心配を掛けずに済んだと思ったが、これでは本末転倒だ。俺は「大丈夫だよ」とだけ笑い返す。  正直、部屋で休んだとしても阿賀松がやってくる可能性がないわけでもない。  それなら教室でちゃんと授業を受けた方がましだと思えた。  それに、と志摩の顔が過る。  縁に庇ってもらえたお礼を、志摩にしていなかった。昨日は結局あやふやになってしまったし、ちゃんとお礼を言いたかった。 「それならいいけど……無理しちゃだめだよ」 「うん、ありがとう……詩織」  多分、敏い阿佐美のことだ。俺が隠してることも気付いてるのかもしれない。  それでも俺の意志を尊重してくれるのだから、頭が上がらなかった。  俺は制服に着替える。いつもなら志摩が迎えに来るはずだが、どれだけ待っても志摩はやってこない。やっぱり、怒ってるのだろうか。  不安になって、一応、志摩の部屋まで行ってみることにした。  学生寮三階・303号室前。何度もプレートの部屋番号を確認し、俺はそっと扉を叩いた。  一回、二回とノックしてみるが、反応はない。  ……誰もいないのか。次ノックしても反応なかったら諦めよう。そう思ってノックしようとしたときだった。303号室の扉が開いた。 「はーい、どうし……って、あれ、佑樹?」  現れたのは、十勝だった。丁度制服に着替えようとしていたのだろう、シャツのボタンを留めながら現れた十勝は、俺の姿を見るなり「おはよう」と人懐っこそうな笑みを浮かべる。 「あ、お、おはよう……」 「もしかして、俺に会いに来てくれたのか?」 「え、ええと……その……」 「本当佑樹ってわかりやすいよな、分かってるよ、亮太だろ?」  即答できずにいると、十勝は大して気にした様子でもなくそう切り替えしてくる。 「う……ご、ごめん」 「なんで謝るんだよ。……まあ確かに佑樹が俺に会いに来てくれたってんなら喜ぶけど、佑樹の表情からしてそんな感じはしなかったしな。なんか、しょげた犬みたいな顔してたし」  十勝は笑う。勘が鋭いというか、人の表情をよくみている。  遠慮ないが、それでも自分からあまり発言することができない俺からしてみればそんな十勝の切り込んでくる性格はありがたい。 「けど、残念だったな。亮太なら昨日の夜から帰ってきてねーよ」 「……え」 「まあ別に珍しいことでもないしな。……それとも、なんか約束してたのか?」 「そ、そういうわけじゃないんだけど……その、ちょっとお礼が言いたくて……」 「あー、そういうこと。じゃあ、あいつと喧嘩したってわけじゃないのか」 「……っ!」 「なんか昨日朝っぱらからあいつ機嫌悪くて参ってたんだよ、勝手に臍曲げてんのはいいんだけどキレるとやれ俺の通話の声がうるさいだとかイビキがうるさいだとか面倒くせーから」 「そ、そうなんだ……」  ただでさえ二人はあまり仲良しに見えなかったというのに、そんなことになっていたのか……。  志摩が機嫌が悪い原因は心当たりがあり過ぎた。  俺の、せいだろう。俺が志摩のことを避けるような真似したから、怒ってるのだろう。 「……けどまあ、お礼ってことは喧嘩してるってわけでもねーのか」 「う……うん」 「あ、俺ってもしかしてお節介だった?悪いな、なんか、佑樹見てるとこう……放っとけないっつーか、母性本能? 擽られんだよなぁ」  母性、ではないと思うが……それでも、やっぱり十勝に本当のことを言うことはできなかった。  曖昧に笑って誤魔化す。それから少しだけ、十勝と他愛ない会話を交わした。 「あ、やべ、そろそろ準備しねえと」 「……ご、ごめん、引き止めちゃって」 「いいんだよ、つーか、寧ろ大歓迎ってか俺的にはもっとガンガン来てくれた方が嬉しいっつーか? まあ、仲良くしようぜ」 「……ありがとう」  十勝は、フレンドリーだ。志摩も俺には色々優しくしてくれたが、志摩とはまた違う。十勝は引き際を分かっていて、大雑把なようでいて俺の踏み込まれたくないところには踏み込まない、丁度いいラインを保つのだ。  女の子の扱いに長けているが所以なのか、志摩とは、また違ったタイプだ。  俺は十勝と別れ、それから一人で登校することになる。  久しぶりの一人の登校は、心細い。  地面に足をつく度に下腹部から脳天にかけて痛みが走る。なるべく振動を感じないように注意を払うが、あまり意味がないように思えた。  正直、学校で授業を受けるような気分ではない。けれど、部屋に閉じこもっていては阿賀松が部屋にやってきそうな気がして怖かった。周りの視線から逃げるように教室へと向かう。  突き刺さる視線の数は日に日に増え、粘着性を増してるように感じるのは気のせいではないだろう。  そして、纏わりつくそれらから逃れるようにやってきた教室前。  いつもと変わらない朝の喧騒。俺の姿なんて見えていないかのようなその騒がしさに一抹の安堵すら覚える。  周りに紛れるように、教室へと足を踏み入れる。何人かの視線がこちらに向いたが、それもほんの一瞬。すぐにそれらは離れていく。  いつもなら、こういうとき志摩が側にいて、俺に他愛ない話題を持ち掛けてくれた。  だから疎外感を感じずに済んだのだろう。  志摩がいないからこそ余計孤独感を覚えるのかもしれない。自分の席まで移動した俺は、そのまま鞄を机の横に引っ掛け、椅子に座る。隣の席は鞄は掛かっていない。志摩はまだ来ていないようだ。ほっとしたような、それでいて志摩の姿が見えないことに対して不安を覚える。……妙な感覚だと思った。今、ここに志摩がいたとして、俺はどんな顔をして昨日のことを切り出せばいいのかわからない。つくづく、自分で自分が嫌になる。 「そういや、今年の学園祭、お前の部なにするんだ?」 「まだ決まってない。つか、気が早すぎるだろ」 「でもそろそろだろ、出し物決めていくの」  聞こえてきた会話に耳を向ける。  ……学園祭。この学園は五月に学園祭を行うのか。転校前の学校では九月頃に行われていたので少し意外だ。  学園祭という単語を聞いても胸が踊らない。もとよりあまりいい思い出はなかった。それでも、転校した先ではまた変わるかもしれないなんて、ここに来たばかりの頃は淡い期待を抱いていた。  けれど、実際はどうだろうか。今の俺はそれどころではない。  これ以上考えたところでマイナス思考に磨きがかかるばかりだ。俺は気分を紛らすため、参考書を取り出した。  けれど、いくらページに目を走らせても、文字の羅列は頭の中へと入ってこない。誰かが教室を出入りする度にそちらに目が向いてしまう。そして、志摩の姿を探してしまうのだ。  何度もそんなことを繰り替えした。  けれど、ホームルーム開始の予鈴が鳴っても志摩がその扉から現れることはなかった。  どうして志摩が来ないのか。  嫌な汗が滲む。授業の内容が頭に入ってこなかった。  昨日の夜、縁と出かけて、そこで何か遭ったのだろうか。  そんなことばかりを考えては、言いようのない焦りと不安が足元から這い上がってくる。  考え過ぎだとは思ってても、安心することはできなかった。時計の針は進む。教師の言葉が右耳から左耳へと抜けていく。何度も壁の時計を見ては、扉の向こうに志摩の姿がないかを探した。  けれど、どれだけ待っても1限目の授業に志摩が現れることはなかった。  ◆ ◆ ◆  授業終了を告げるチャイムがやけに重く響く。志摩は、無断欠席扱いになっていた。  周りは特に気にした様子はなかった、何人かの生徒が「ああ……」という顔をしていたので、もしかしたらこういったことは珍しくないのかもしれない。  志摩のいない教室で、次の授業は始まった。時間が経てば経つほど、首を締め上げられるような息苦しさを覚えた。見えない影に『お前のせいだ』と後ろ指さされているようで、気が気でない。  もし、志摩の身になにかがあったら、そう思うと、俺は、今度こそどんな顔をして志摩に会えば良いのかわからなくなる。  そんなことを考えていたときだった。  教室の扉が開かれる。黒板の前に立っていた教師は手を止め、生徒たちは開いた扉に目を向ける。それは、俺も例外ではない。そして、息を飲む。  開かれた扉の前、立っていたそいつは俺がずっと待っていたその人だった。けれど、明らかに昨日のと違うところがあった。  右目を覆う白い医療用眼帯。その下から、傷口を塞ぐためのガーゼが覗いていた。  それを見た瞬間、息が止まりそうになる。凍りつく。息が止まりそうだった。志摩の左目は確かにこちらを見た。それも、ほんの一瞬だ。 「志摩……遅刻だぞ」 「すみません、具合悪くて連絡遅れちゃって」  そう、咎める視線を送る教師に志摩はいつもと変わらない笑みを浮かべる。そして、何事もなかったかのように教室の中に足を踏み入れるのだ。ざわつく教室内、周りの目なんて気にも留めずに志摩は隣の席までやってくる。  俺は、志摩の方を見たまま、何も言えなかった。何かを言わないとと思うが、志摩の怪我に目を奪われて、言葉が出ないのだ。  愕然とする俺の方を振り向いた志摩は、「おはよう」と笑った。俺は、咄嗟に言葉がでなかった。まさか志摩の方から挨拶してくるとは思っていなかったのだ。 「……お、はよ」  挨拶なんて、してる場合ではないのに。頭では思っていた。謝らなきゃ。それなのにどうして志摩はいつも通りなんだ、その怪我はどうしたのか。  言葉が溢れてパンクしそうになる、けれどそれらが口から出ることはなかった。志摩はにこりとだけ微笑み、それから、授業の準備をしてみせた。  白けた空気の中、教師はわざとらしい咳払いをし、そして授業を再開させる。周りの生徒も、すぐそれに倣った。  俺は、完全にタイミングを見失っていた。  隣の志摩のことが気になって、聞きたいことや言いたいことばかりが頭の中でぐるぐる反芻され、ただ早く授業が終わってほしいと思ってしまった。  志摩は、きっとそんな俺のことを「他に言うことあるんじゃないの?」と思ってるような気がして、ずっとチクチクと隣から視線を感じた。けれど、実際はなんてことはない。志摩はこちらすら見ていない。全部俺の自意識過剰だ。  授業が終わり、席を立つ。俺は、隣の席の志摩の元へすぐさま向かった。 「あ、あの……志摩……っ」  教科書を仕舞おうとしていた志摩は、机の前に立つ俺を見て、それから笑う。それは、他人に見せるような愛想笑いで。 「齋藤、どうかしたの? ……そんな怖い顔して」  機嫌が良い、わけではない。寧ろ本心を隠すような、分厚い見えない壁が俺と志摩の間では隔てられているのが肌でわかった。  志摩が、俺を許してるはずがないのだ。そうわかった瞬間、頭が真っ白になる。 「っ、あの……昨日は……ごめん、あっ、や……ありがとう、その、助けて……くれて……」 「昨日って、なんのこと?」 「……え?」 「別に俺は何もしてないよ、ちょっと、何言ってるのかよくわかんないけど」  志摩の言葉の意味がわからなかった。  こんがらがる思考の中。立ち上がろうとする志摩を慌てて俺は引き止める。咄嗟に手を掴んでしまい、志摩は僅かに目を開いた。 「あ、で……でも、昨日、夜エレベーターで……縁先輩から……」  助けてくれたよね、と言い終わるよりも先に、志摩に手を取られる。骨張った指に強く手首を掴まれ、ぎょっとした。顔を上げれば、志摩の表情からは完全に笑みが消えていた。嫌なものが背筋に走る。  あの、と声を上げるよりも先に、「来て」と志摩に手を引かれる。  どこに、なんて聞く暇もなかった。俺は、志摩に引っ張られるがままその後を追った。  周りの目が痛い。それは志摩にも注がれてるように思えた。  どこまで行くのだろうか、止まらない志摩になんて声を掛ければいいのかもわからず、結局俺は志摩が足を止めるまでその背中についていくことになる。  志摩がやってきたのは教室からそう離れてない通路の踊り場だ。幸い辺りに人気はないが、だからこそ余計、緊張した。志摩の手は離れない。強く握られた手首が痛む。 「っ志摩……もう……」 「離してほしい? ……けど、こうしないと齋藤逃げるでしょ」 「……っ」  いつもの、志摩だ。俺の知ってる志摩がそこにいた。  片目だけで自嘲気味に笑う志摩に、俺は、首を横に振る。  本当は、逃げたいという気持ちはあった。わざわざ人目のないところを選んだ志摩に、嫌な予感しか掻き立てられないからだ。  二人きりになるとあのときの、肝試しの夜を思い出してしまい、無意識に身構えてしまう。  それをわかってて、志摩は俺から手を離さない。それどころか、敢えて空けていた距離すらも詰められ、気付けば壁際まで追い込まれていた。 「……それで、なんの話だっけ? ……ああ、昨夜誰かさんが方人さんと遊びに行こうとしてたって話だっけ」  手首を掴む指に、筋をなぞられ緊張する。顔を逸したいのに、志摩が覗き込んでくるお陰で嫌でも顔を見られてしまうのだ。 「……齋藤、どうして目を逸らすの? そんなに俺の顔、見たくない?」 「っ、そ……じゃない……」  近くでみれば見るほど、眼帯が痛々しい。その下は腫れてるのだろう、青あざが滲んでるのが見え、俺は、嫌な想像を掻き立てられる。  縁に、やられたのか。 「じゃあ、こっちを見なよ。誰かさんのお陰でこんなものしないといけなくなったんだからさ」  そう言って、志摩は、眼帯を外す。その下のガーゼごと剥がした志摩に顎を掴まれ、強引にそちらを向かされた。俺は、正直、直視ができなかった。  切れた目の縁、青あざ、内出血を起こしてるのか、白目部分は赤く充血し、瞼の切り傷を中心に腫れが起きているようだ。右半分がまるで別人のように変形した痛々しいその顔に、俺は、息を飲む。目を逸したいのに、逸らせない。  まるで自分の怪我のように、胸が、痛んだ。 「これ、あのまま俺が放ったらかしにしてたらこうなってたの齋藤の方だよ」  志摩は眼帯だけを戻し、笑う。右半分の表情筋が硬直してるようだ、その笑顔は歪だった。  やっぱり、あの後、縁と何かがあったのだ。俺は、縁が殴ったりするようにも思えなくて俄信じられなかったが、実際に傷を見せられるとそれを信じる他ない。 「っ、ご、めん……なさ……」 「……許さない」 「……っ!」 「なんて、俺が言ったらどうするの? ……齋藤は俺になにかしてくれるわけ?」  至近距離、じっと瞳の奥を覗き込まれ、全身が石になったみたいに動けなくなる。  何か、と言われて言葉に詰まる。本来ならば即答しなければならない立場だとわかっていたけど、志摩に見詰められると思考が麻痺するのだ。 「……ぁ、その……」 「……別に、無理して答えなくてもいいよ。最初から齋藤に期待してないしね」   俺が口を開いた瞬間、志摩が離れる。  掴まれていた箇所がじんじんと痺れ、急に手持ち無沙汰になった俺はどうすることもできず、先程まで志摩に掴まれていた手首を掴む。 「もしかして、齋藤からしたら余計なお世話だったのかな。……随分と方人さんと仲良くしてたみたいだし、俺が勝手に勘違いして勝手に怪我しただけだしね。だとしたら、悪いことしたね」  声色は優しいが、その突き放すような物言いに俺は咄嗟に「違う」と声を上げた。  自分でも驚くほどの大きな声に、志摩は動きを止める。そして、右目を細める。 「……何が違うの?」 「俺は……志摩が来てくれて、その……う、嬉しかったし……助かった……」 「……へえ?」 「だから、その……ちゃんと、お礼、したくて……」  だめだ、どうしても言葉が上手く紡げない。至近距離から見詰めてくる志摩の目に頭の中を掻き乱されるみたいで、どうしてもたどたどしい物言いしかできなくなる俺に志摩は笑みを深くした。 「お礼って、何? もしかして、今のが『それ』?」  皮肉気な笑みに、俺はたじろぐ。俺は、確かに口でお礼を言うことしか考えていなかった。けれど、実際志摩が怪我してる状況、口頭でお礼だけというのは志摩に対して失礼なのだろうか。  わからなかった、誰かにこうやって身を呈して守ってもらったことなんてなかっただけに、俺は、どうすればいいのかわからなくて、ついに愚かな言葉まで口にしてしまう。 「……っ、どうしたらいい?」  どうしたら、志摩は許してくれるのか。自分で考えても思い浮かばない。何をしたところで志摩の気が収まるとは思えなかった。  思考停止。俺は、志摩本人に聞くことを選ぶ。それが一番手っ取り早いと思ったからだ。  けれど、志摩の反応は芳しくないものだった。 「はぁ……本当、齋藤って見てらんないよね。そんなんだから、変なやつらに絡まれるんだよ」 「……っ、ごめ……」 「もし俺がここでとんでもないこと言ったとして、齋藤はそれを本当に俺にしてくれるの? ……できないでしょ?」 「出来もしないことを口にして、相手に期待させるようなこと言うのやめなよ」不快感を顕にする志摩だが、口ぶりからして俺のことを心配してくれてるというのか。  いや、違う。最初から、俺のことを信用していないのだ。だからこそ調子のいいことを言う俺を怒ってるのだろう。  信頼感がないのは、自業自得でもある。それでも、やはり傷つかないといえば嘘になる。 「っ、確かに、できないこともあるけど……それでも、志摩が言う事なら……」  少しくらいは聞き入れたいと思う。  あんなことがあったあとだ、ギクシャクして気まずい思いは死ぬほどしたけど、それでも、志摩には感謝してるし志摩とまた以前のように仲良くできたらと日和ったことを考えてしまうのも事実だ。 「なら、齋藤から俺にキスしてよ」  そんな俺に志摩が言い放ったのは、俄信じがたいものだった。

ともだちにシェアしよう!