39 / 166

六月二日目【陥穽】

 まるで長い長い悪い夢でも見てたような気分だった。  目を冷ませば全身は汗でぐっしょりと濡れていた。  阿佐美は昨夜から戻ってきていないようだ。冷たい空気が部屋の中ただ漂っていた。  全部夢ではない。体の節々は痛み、あれほど洗った体もまだ志摩のものが中に入ってるような感覚だった。初めてではないとしても、相手は阿賀松ではない。それも、志摩に。考えないようにしようとしても、嫌でも鼓膜に、皮膚に、触れられた箇所すべてに熱が残っていた。  陰鬱な気分のまま、気怠い体を動かして支度をする。学校を休みたい気分だったが、この部屋にいるだけでも嫌でも思い出して余計気が滅入りそうだったから俺は学校へと行くことにした。  ……とにかく、いつも通りに過ごそう。阿佐美のことは、……阿佐美と直接ちゃんと話さないと。  制服に着替え、ネクタイを締める。多分……いつも通りだ。変なところはないだろう。そう、鏡を一瞥し、確認した俺はそのまま予め用意していたカバンを掴んで部屋を出ようとした。そして。 「おはよう、齋籐」  そこには、昨夜と変わらない笑顔の志摩が立って俺を出迎えてくれる。血の気が引いた。  なるべく顔を見ずに済むように早めに部屋を出たのにこいつ、部屋の前で待ち伏せしていたのか。思わず時計を確認するが、いつもより三十分は早いはずだ。 「な、に……」 「なにって、迎えにきたんだよ。なにか不都合でもあった?」 「…………」 「じゃあ、行こうか。朝ごはんは何がいい?」 「…………」  声も出なかった。なぜこんな風に当たり前のように話しかけてこれるのか理解できなかった。何も答えないでいると、志摩の目の色が僅かに変わる。 「……なに? もしかして俺のこと無視するつもり? ……まあ別にそれでもいいよ、昨日みたいに無理矢理口を開かさせてもいいし」  これは、脅迫だ。伸びてきた手に唇を捕まれ、背筋がぞくりと震える。そのまま近付いてくる志摩に、堪らず俺はその胸を押し返した。 「……っ、なんでも……いいよ……」 「そう、じゃあ売店行こうか」  そう一言、たった一言。絞り出した俺の言葉に志摩はご満悦のようだ。パッと離れる手に安堵することもできなかった。  俺は、志摩に引っ張られるようにそのままエレベーターで一階のモールへと向かうことになる。  なぜ、昨日薬を盛って人を犯した人間と朝食を食べないと行けないのか。できることなら顔も見たくないのに、志摩は俺を開放する気などサラサラないらしい。  何を考えてるのかまるで理解できない。俺のことが嫌いなら嫌いと言えばいいのに、なんでまだ友達みたいな顔をしてこんなポーズを取らないといけないのか。  嫌がらせなのだろう。そうでなければ、余計質が悪い。  ◆ ◆ ◆  ――学生寮一階、ショッピングモール内。  その一角にある売店。 「あーやっぱりこれも旨そうだよな。やべ、すげー迷ってきた。なあなあ、和真どっちがいいと思う?」 「こちらの方が栄養値が高いようですね」 「あーやっぱりこっち? だよなー、俺もそう思ってたんだよな!さっすが和真!俺のソウルメイト!」 「自分は貴方のソウルメイトになった覚えはありませんが」 「ちょ、そんな悲しいこと言うなって!」  店内奥のドリンクコーナー前。  騒がしい声が聞こえてきたと思えば、そこには見覚えのある二人組がいた。十勝と……確か、生徒会会計の灘だ。対象的な二人だが、随分と親しいらしい。それ以上に、このタイミングでよりによって十勝と会うなんて。助けてほしい反面、こんなところ見られたくないという本音もあった。 「どうしたの? 齋籐、選ばないの?」  そんな人の気持ちを知ってか知らずか、志摩は笑うのだ。早くしなよ、と。視線で促す。俺は小さく頷き返した。さっさとここから出よう。……志摩が余計なことをする前に。  そう、一度志摩と別れ、俺は自分の朝食を選ぶことにする。ドリンクコーナーではまだ十勝たちがはしゃいでるのだろう、主に一人、十勝の賑やかな声が聞こえていた。  もう何でも良かった。空腹も感じない。胃に詰めれれば、なんでも。適当なパンを手に取ろうとしたときだった。背後から手が伸びてきた。そして、今まさに俺が狙おうとしていたそれを取られるのだ。まさか、志摩の仕業かと振り返ろうとした瞬間。タバコの甘い、匂いが鼻孔を掠めた。瞬間、心臓が弾む。 「……こんな飯じゃ腹にたまんねえだろ」  そして、背後から聞こえてきたその声は。その匂いは。背後にいる人物が誰なのか、理解したくなかった。  冗談だろ、さっき、店内にはいなかったのに。いつの間に。 「阿賀松……せ、んぱい……」 「よぉ、まだ寝惚けた顔してんな。ユウキ君」  不遜な笑顔を浮かべた阿賀松はやけに上機嫌そうだ。俺から奪ったパンを俺に握らせたやつは、そのまま掌を重ねてくる。指の谷間、這わされる指にぞっとして振り払えば、阿賀松は笑った。 「ど、して……ここに……」 「なんだぁ? 俺がいちゃ悪いのかよ。飯買いに来たんだよ、飯」  ジョークか本当かはわからないが、やつは『飯』と言って水の入ったボトルを軽く振ってみせた。  こんなところ、志摩に見つかったら面倒だ。そうですか、とだけ答えてそのまま離れようとしたとき。肩を抱かれる。 「ひでぇ面だな。寝不足か?」 「……ッ!」 「体温も高いな。……大人しく部屋で寝てた方がいいんじゃねえのか?」  首筋に這わされる手にぎょっとして、慌てて離れようとしたときだった。いきなり伸びてきた手に、阿賀松から強引に引き離される。そして。 「なんか齋藤に用ですか?」  背後から聞こえてきたのは、予想通り、志摩の声だった。怒ったような、少なくとも笑ってないその声に驚く。それ以上に、阿賀松相手にそんな態度を取る志摩にも度肝を抜かれた。 「し、志摩……」 「まーたお前か、亮太。人が話してるときに割り込んでくんじゃねえよ。お前に用はねえ」 「ああ、そうですか。じゃあ失礼します。行こ、齋藤」 「……っ、し、ま……」 「ったく、躾がなってねえな」  阿賀松が怒るんじゃないか、そう青褪める俺の声なんて恐らく志摩には届いていないだろう。そのまま引き離すように引っ張られたときだ、阿賀松の横、すれ違いそうになった瞬間、不意に伸びてきた頭を掴まれる。そして、耳朶に近付く唇。 「放課後、お前の部屋に行くから大人しくしとけよ」  耳を疑った。俺にだけ聞こえる声量でそう囁いた阿賀松に固まったとき、阿賀松はそのまま唇を押し付けたのだ。響くリップ音にぎょっとする。顔をあげれば阿賀松は「じゃあな」と、そのまま売店を後にした。 「本当……なんなのあいつ」  一部始終を見たらしい、露骨に不快感を顔にする志摩は、「齋藤、大丈夫だった?」と俺の耳を拭いてくれる。正直、俺からしてみれば志摩も阿賀松も、理解し難い人種だった。無視することもできなくて、俺はただ無言で頷くことしかできなかった。 「……さっき、何か言われた?」 「べ、つに……」 「本当に?」  声が笑っていない。部屋にいろと言われたこと、それを志摩に言ったらどんな反応するだろうか。……考えたくもない。  阿賀松とは極力揉めたくない、けれど、志摩は阿賀松のことを快く思っていない。阿賀松の方は志摩のことをどう思ってるのか知らないが、今回は見逃してくれたが次があるかもわからない。 「何もないよ」と、口にしたその声は酷く空々しくて。 「嘘吐き」  そう、志摩が口にしたとき。 「あれ、佑樹?」  場違いなほど明るい声が辺りに響いた。  十勝と灘だ。どうやら会計を済ませたようだ。俺の姿を見つけるなりぱっと笑う十勝だったが、その隣にいる志摩を見た途端露骨に顔をしかめた。 「亮太お前、珍しく静かだと思ったらこんなところで佑樹に絡んでんじゃねえよ」 「絡むって、俺達は朝食選びに来たんだよ。そっちこそ朝からうるさい声出さないでくれるかな」 「ああ? うるさくねーし! なあ、佑樹ー?」 「え……あ、あの……」  気まずいところに十勝が来てくれてホッとするが、相対的に志摩の機嫌が悪くなっているのが目に見えていた。 「馬鹿馬鹿しい、行くよ齋藤。こいつと話してるともっと頭悪くなる」 「はあ? なんだよそれ。佑樹、こんな性格悪いやつといるよりも俺らと飯食おうぜ」 「性格悪いのはお宅の会長さんの方だろ。なに? 友達との食事も許してもらえないわけ?余裕なさすぎ」 「会長は性格悪くねえよ、ちょっとばかし真面目でちょっとばかし頑固でちょっとばかし融通利かなくてちょっとばかし石頭なだけだっての!」  ……なんでこんなことになってるんだ。  ヒートアップする口論……なのか、よくわからないが、二人の間に見えない火花がバチバチと散っているようだった。どちらの肩を持っても遺恨を残しそうだ。  どうしよう、と一人右往左往していたときだった。  見守ることしかできなかった俺の背後、伸びてきた手に腕を掴まれる。 「失礼します」  すぐ耳元から聞こえてきたのは、淡々とした低い声だった。  生徒会会計、灘和真だ。灘は俺の手を取り、そのまま有無を言わずに十勝と志摩から引き離す。それどころか。 「なにやって……おい、齋藤から離れろよ!」  慌てる志摩を無視して、強引に灘は俺を店の外へと連れ出すのだ。正直、俺自身何がなんだかわからなかった。どうしよう、と振り返れば、騒ぎを駆けつけたスタッフに志摩が捕まっている。俺は前を歩く灘を見上げる。 「な、灘君……あの……っ」 「申し訳ございません、こうした方が早いと思ったので」  もう少し、このまま我慢してください。そう、前を向いたまま続ける灘。どうやら俺が志摩から逃げたがってると思って助けてくれたのか。――正直、その通りだった。 「あ、ありがとう……助けてくれて」 「…………」  灘はちらりとこちらを見て、それからまた無言で前を向いた。相変わらず何を考えてるのか分かりにくい。握り締める手は冷たくて、硬い指先は俺を捉えたままだった。でも嫌な気はしなかったのは、俺が痛くないように手加減をしてくれてるからだろう。  灘がようやく立ち止まったとき、そこは学生寮と校舎を繋ぐ渡り廊下、その途中にあるラウンジだった。 「……これを」  そこで、灘は先程売店で購入したらしい買い物袋を俺に渡してくる。中を覗けばいくつかの惣菜パンが入っていた。 「好きなのがあれば貰ってください」 「え、でも……これ、灘君のご飯じゃ……」 「貰ってください」  怒ってるわけではないのだろうが、無表情も相俟って気圧されそうになる。断るのも悪い気がして、俺は「あ、ありがとう」と適当なパンを一個だけ貰うことにした。 「一個でいいんですか?」 「う、うん……」  そうですか、とだけ灘は口にした。本当に何を考えてるのかわからないが、それにしてもこの量を灘は一人で食べるのだろうかと思わずにはいられない。 「では移動しますか」 「……え?」 「せっかくですので教室までご一緒させていただきます」 「い、いいの……?」 「貴方の身に何かあれば会長も心配されますので」  心臓が弾む。……ああ、そうだ、俺は一応会長とは公認の仲だということになっているのか。灘の言葉に顔が熱くなるが、対する灘はあくまでも義務的だった。  会長の名前を出されると、断ることもできなかった。  それに、志摩や阿賀松とのこともある。灘には申し訳ない反面、誰がいてくれるのは有り難い。  灘は俺の沈黙を肯定と受け取ったようだ、「参りましょう」とだけ口にし、再度校舎へと向かって歩き出した。  教室前廊下。  灘と一緒に登校、というよりも寧ろ置いていかれないようについて行った方が適切なような気がする。  灘との間に無駄な会話はない。けれど、沈黙が苦ではなかったのは相手に悪意がないからだろうか。一緒にいて妙な安心感があるのだ。 「……あの、灘君。ありがとう、ここまでで大丈夫だから……」  教室はすぐ先だ、灘だって暇じゃないだろうにこれ以上付き合わせるわけにもいかない。そうお礼をいったときだった、こちらを振り返る灘の視線はそのまま俺の背後へと向けられた。  そのときだ。 「……齋籐」  聞こえてきた声に、背筋が凍る。恐る恐る振り返れば、そこには志摩が立っていた。俺を探し回っていたのだろうか、珍しく息は上がり、僅かにシャツが乱れていた。 「……普通さあ、いきなり連れていったりするかな。ねえ、どういうつもり?」 「素行に問題がある生徒には極力齋籐君を近付けないよう言われていますので」 「心外だな。自慢じゃないけど、俺は問題を起こしたことなんて一度もないんだけど?いくら生徒会とはいえ偏見で勝手な決め付けは良くないんじゃないの?」 「お言葉ですが、立場上貴方の評判は耳に入ってきます。処分までとはいかずとも、対人関係でよく問題を起こしていたそうですが」 「な、灘君……っ」 「……よくそんなこと言えるね、俺に失礼だとか思わないの?」 「それならば貴方の齋藤君に対する態度も礼儀が欠けているように思われますが」  冷え切った通路。一般の生徒たちは明らかに揉めてる二人に関わりたくないのだろう、通路の端へと避けるように、しかしながら耳を立ててるのがわかる。やめてくれ、二人共落ち着いてくれ。そう思うが、仲裁に入る隙すら見当たらない。  遠慮ない灘の物言いが志摩の神経を逆撫でしてるのだろう、俺が志摩の怒りを感じるほどだ。それなのに灘は顔色を変えるどころか先程と変わらないあくまでも毅然とした態度で続けるのだ。 「そいうことですので、齋籐君に関わらないようにしてください」 「な……おい……っ」 「それでは自分はこれで失礼します」  志摩を無視して、俺に会釈した灘はそのまま来た道を戻っていく。正直、驚いた。志摩相手にここまで言うなんて。  怖いもの知らずというか、マイペースというか。歯に衣を着せない人だとは思ったが、それは俺に対してだけではないようだ。 「なんなんだよ、あいつ」 「…………」  当たり前だが志摩は不機嫌だ。このまま灘を追いかけて掴みかかるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、校舎中に予鈴が鳴り響くと溜息をついて、そのまま教室へと入っていくのだ。  助かった、のか。後が怖いが、今はホームルームだ。俺も、他の生徒たちに遅れを取られないように慌てて教室へと入った。  教室は相変わらず学園祭ムードだ。  本来ならば通常通り行われる授業は学園祭準備へと変更され、教室の中は飾り付けや迫る当日へと向けた準備で賑わっていた。  そんな教室にも、阿佐美の姿はない。部屋に戻っていないし、昨夜はどこで過ごしたのだろうか。ちゃんと寝てくれていたらいいのだけれど。  学園祭の準備が始まってから暫く経つ。  昨日に引き続き準備を手伝わせてもらえない俺は手持ち無沙汰を防ぐために自習に励んでいた。志摩はというと、何やら仕事を頼まれたらしい。数分前に教師に呼ばれて教室から出ていったのを確認していた。  そして本日何度目かのチャイムが鳴る。昼休みだ。  俺は教材を机の中に片付ける。朝もバタバタして朝食を取り損ねたお陰でお腹が減っていた。  灘から貰ったパン、食べるか。そう思いながら席を立とうとしたときだった。 「あの、齋籐君……生徒会の人が呼んでるよ」  側にやってきたクラスメートは緊張した面持ちで扉の方を向いた。言われて視線を向ければ、そこには大きく手を振る十勝と――その隣には灘がいた。慌てて立ち上がった俺は二人の元へと向かう。 「と……十勝君、灘君も」 「よ! 悪いな、いきなり」 「ううん、別にいいんだけど……どうしたの?」 「会長がさー、なんか佑樹に会いたがっててさ。でも手が離せねえからって俺達が迎えにきたってわけ」 「会長がっ?」 「おう。つか、今抜け出して大丈夫そう?」 「う、うん……それは全然いいんだけど……」  予期してなかった誘いだ。嬉しいという気持ちよりも、困惑の方が大きい。呼び出しというものにいい思い出がないからだろうが、けど二人の反応からしてきっと悪い呼び出しではないとは思う。思いたい。 「そういうことですので一緒に来てもらえますか」 「わ……わかったよ」 「まじ? よっしゃ! んじゃ行こうぜ、会長が寂しがってるかもだし。」  ほらほら~っ!と背中を押してくる十勝に転びそうになりつつ、やんわり支えてくれる灘。こんなところ志摩に見られたら怒りそうだな。そう思いかけて、思考を振り払う。……どうして俺が志摩の心情を推し量らなければならないんだ。それも、志摩はいないというのに。いけない、忘れよう。そう思考を振り払った。

ともだちにシェアしよう!