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03※

 十勝、栫井と別れ一人になった俺は取り敢えず教室へ戻ることにした。  放課後、江古田が迎えに来る。それまでに五味に会って話を聞きたかったが、肝心の五味の所在がわからなかった。生徒会室にはいなかったし、クラスもわからない。正直な話、三年の教室棟に行くのが怖かったのだ。  ……栫井なら、何か教えてくれるかもしれない。  今日中に片を付けたかったのだが難しそうだ。  教室には相変わらず志摩と阿佐美はいないようだった。余った時間を自習に費やそうと教材の準備していたときだ。隣の席の椅子が引かれる。 「齋籐、戻ってきてたんだ」  びくりと隣の席に目を向ければ、そこには志摩がいた。どうやら買い出しから戻ってきたらしい、その手には買い物袋が握られていた。 「……一緒に昼食食べようかと探したのに、教室に戻ってきたらいつの間にかに齋籐いないし、驚いたよ」 「……っ」 「ねえ、昼食はもう食べたの?」  顔を見るのも怖かった。声音はいつもと変わらないが、その分妙な圧がある。無視したらまた怒るのだろう。それが嫌で、俺は無言で頷いた。「へえ」と志摩の声がワントーン落ちるのがわかり、背筋に冷たい汗が滲む。 「誰と食べたの?」 「……と、友達と……」  それはあまりにも苦しい嘘だった。  けれど、芳川会長たちと、なんて言えば志摩は怒ると思ったから咄嗟にはぐらかしたのだ。ふーん、と志摩は笑った。乾いた笑いに、流れる冷汗を拭うことも忘れて動けなくなる。そして。 「誰と食べたの?」  再度、同じ質問を投げ掛けてくる志摩に体が、指先が冷たくなっていく。 「……それは……」 「齋籐ってさあ、嘘吐くの本当下手だよね。それで誤魔化してるつもり?」 「……ッ!」 「俺以外に友達いるの?」  それは、最早暴言だった。悪意を孕んだその言葉に、胸が苦しくなる。答える必要もない質問だ、それなのになんでここまで言われなきゃならないんだ。悔しくて、それ以上に何も言い返せない自分が恥ずかしくて、言葉に詰まる。志摩は、そんな俺を見て笑うのだ。皮肉混じりの冷たい笑い。 「否定も肯定もしないんだ? はっきり言えばいいのに、お前なんか友達じゃないって」 「……っ、志摩……」 「恋人と食べてきたんでしょ、どうせ」 「あの人、束縛激しそうだもんね。俺に嫉妬するくらいだし」なんて笑う志摩の言葉に息を飲む。  咄嗟に顔を上げれば、志摩の顔の近さに驚いた。  咄嗟に離れようとして、机の下、膝の上で硬くしていた手を取られた。 「俺とセックスしましたってちゃんと言った? ……それとも、もう知られてんのかな」 「……っ、やめろ……ッ!」 「はは、齋藤ってそんな大きな声出せるんだ。そんなに俺とのこと知られたくないの?」  これが、嫌悪感なのか。含んだような言葉に、笑みに、志摩の一挙手一投足に胸の奥をかき乱される。  冷静ではいられなくなるのだ。それが気持ち悪くて、自分が自分で居られなくなるような不安定感に堪らず俺は志摩から逃げようと立ち上がろうとするが、腿を掴まれ、強引に座らせられる。 「……ッ、志摩……」 「知られたくないんなら、もう少し上手く取り繕ったらどう? そんな反応、周りから見たら一目瞭然でしょ」 「お前……」 「いっそのこと、周りに言い触らしてみたら? 俺のこと、最低最悪の性犯罪者だって。そうすれば、下心あるやつが助けてくれるかもしれないよ」 「……ッ」 「でも、齋藤はそんなことしないもんね。自分が我慢すれば終わるって思ってるんでしょ?本当、甘いよね」 「俺、齋籐のそういうところ好きだよ」なんて、耳元で告白じみた言葉を口にする志摩。  幸い周りの生徒は各々学園祭の準備に集中していてこちらの様子に注目しているようなやつはいないものの、場所が場所だ。いつどこで誰に話の内容を聞かれても仕方ないのに。それすらも気に留めた様子のない志摩がただ怖かった。  志摩が理解できない。どうしてそんなことが言えるのか、俺が志摩のことを会長に売るかもしれないのに。  そう思う半面、実際、あれほどチャンスはあったのに俺は会長にも志摩のことを言えなかった。……志摩の言ってることは間違っていない。だからこそ、余計。 「……ねえ、もう少し嬉しそうな顔をしたら?」 「…………」 「ねえ、齋藤」  耐えられず、俺は志摩の手を振り払うように立ち上がる。そのまま教室を出ていこうとすれば、今度は志摩は止めなかった。  ……志摩は、俺のことをよく理解してる。それは良くも悪くもだ。数少ない理解者を失った、そんな喪失感たるや早々言葉にできるものではなかった。今はただ腹立たしかった。それは志摩に対しても、自分に対してもだ。  結局、その日俺は放課後まで図書館で大半の時間を潰した。クラスメートたちの準備の邪魔にならないように、というのは建前で、あれ以上志摩の顔を見たくなかったからだ。  けれど、放課後には江古田がやってくる。  ……どちらにせよ一度戻るしかないようだ。  気が重い。教室に志摩がいないことを祈るしかなかった。  学祭も目前、校舎全体を包む楽しげな雰囲気が相俟って億劫な気分だった。  おまけにあんな別れ方したあとだ。  ……最悪だ。なんて、思いながら教室前までやってきたときだった。 「……どこに行くんですか……?」  扉を開こうとしたすぐ横から、いまにも消え入りそうな声が聞こえてくる。内心ぎくりとしながら恐る恐る声のする方へ目を向ければ――いた。じめじめとした陰鬱な空気を纏ったその小柄な生徒、もとい江古田は俺の方へと歩み寄ってくる。その腕にはくま……ではなく、大きな荷物が抱えられていた。 「……え、江古田……君……っ、いつ来たの……?」 「……最初からいましたけど……先輩が気付いていないだけで……」 「あ、ご……ごめん、気付かなくって」 「……いいですよ、別に……無視されるのには慣れてるんで……」 「……ご、ごめん」  いつも陰鬱な顔をしてる分、怒ってるのかわかり辛い。灘とは違うタイプのポーカーフェイスなのかもしれない。 「……それより、そろそろ行きませんか……ここ、人通り多くて嫌です……」 「あ、うん……わかった、ごめんね……」 「……」  なんか、俺まで気分が沈んでくるな……。どんどん自分の語気まで掠れ消えていきそうになるのを感じながら、俺たちは移動することにした。  江古田と二人きりの移動。話が弾むとは思ってもいなかったが、あまりにも会話がなさすぎて不安になってくる。  灘のときは灘自体無口というかあまり気にしなかったが、相手は江古田だ。俺の方が年上なんだし、ちゃんと会話とか……話題とか振った方がいいよな……。 「そういえば、今日はクマさんいないんだね」  なんでもいいから会話しよう。そう思い立った俺はなんとなく気になっていたことを思い切って尋ねることにした。ちらりとこちらを見た江古田だったが、目が合うとすぐに江古田の視線が外れた。 「……別に、先輩に関係ありますか? ……それ……」 「う、え……や……ご、ごめん……」 「…………洗濯中です……昨日、ジュース零したから……」 「あ、そ、そうなんだ……今日いい天気だし、丁度良かったのかもね……」 「…………………………」 「…………………………」  う……き、気まずい……。  おまけに絶対鬱陶しがられてるのを感じてしまい余計居た堪れなくなる。やっぱり、話しかけない方がよかったのかもしれない。萎縮していると、ふいに江古田の抱えている紙袋に目がいった。中にはたくさんのぬいぐるみが入ってて、思わず「わぁ」と声が漏れた。そして、こちらを見た江古田は俺の視線に気付いたらしい。 「あっ、ご、ごめん……見えちゃって……その、すごい数だね」 「……別にいいですよ……放課後まで暇だったんで、ゲームセンターで時間を潰していたんです……」 「え? じゃあこれ全部……」 「……」  こくり、と小さく頷く江古田。心なしか、いつも死人みたいなその青白い顔に血の気を感じた。 「すごいね」と素直に感心する。俺はゲームセンターでちゃんと遊んだことはないが、してる人間を見るとそう簡単にぽんぽん取れるものではないとだけ知っていた。 「……別に、こんなの……大したことじゃ……」 「でも、すごいなぁ……器用なんだね。俺には、多分……絶対無理だろうな……」 「…………」  黙りこくる江古田に、しまった、話しすぎただろうかと思って慌てて口を閉じたとき。江古田はガサガサと袋の口を閉じ、そして。 「……あの、これ、よかったらどうぞ……」  褒められたのがそんなに嬉しかったのだろうか。  江古田は言いながら持っていた紙袋を俺に押し付けてくる。 「……えっ? いいの?」  こくり、と頷く江古田。正直、俺は驚いていた。当たり前に嬉しいし、物を貰う行為というよりも江古田がこうして俺に好意的に接してくれているという事実が、だ。じわじわと赤くなっていく江古田に釣られて俺の方まで顔に熱が集まってくる。 「あ……あの、すごい嬉しいんだけど……袋ごとは流石に……」 「……邪魔、ですもんね……わかりました、じゃあこれは捨て……」 「待……待って! いや、あの……じゃあ、一つだけ貰ってもいいかな……?」  江古田ならば本気でこのままゴミ袋に突っ込みそうな気迫があった。でもやはり丸ごともらうのは忍びない。差し出してくる紙袋の中に手を突っ込んだ俺は、一番小さいと思われる熊のキャラクターのキーホルダーを貰うことにした。 「ありがとう、大切にするね」 「……要らなくなったら、捨ててください……」 「た、大切にとっとくね……」 「………………」  やはり、変わった子というか……。でも、先程までの鬱々とした気分が和らいでいくのがわかった。  手のひらの上、ころんと座るくまのマスコットを見つめる。なんだか、江古田がいつも持ち歩いてるくまに似ているような気がする……。  俺はそれをポケットにしまう。また江古田は黙り込んでしまうが、今度は沈黙が苦ではなかった。それはきっと江古田の表情が先程よりも和らいでいたからかもしれない。   「ありがとう、江古田君。ここまで来たら大丈夫だよ」 「……そうですか……」 「……あ、あの……ありがとね、これ……」 「……そう何回も言わなくても結構です、聞こえてますから……」 「あ、ご……ごめん……嬉しくて」 「…………」  名残惜しいというよりも、なんだろうか。表情が乏しくネガティブな江古田にはちゃんと言わなきゃ伝わらない気がしてついしつこくお礼を言ってしまう。流石に鬱陶しがられても仕方ない。慌てて謝れば、江古田は小さく溜息を吐く。 「……それよりも、さっさと部屋に入ったらどうですか……」 「あ、ご……ごめんね……」 「…………」  もたもたと取り出した鍵で扉を解錠し、扉を解錠する俺を見て江古田はそのまま立ち去っていく。最後まで掴みどころがないというか……でも、少しは仲良くなれた……と思いたい。ポケットの中のマスコットに触れながら、俺は扉を開いて部屋の中へと入った。  そして、玄関口。目の前に広がる部屋を見て、俺は凍り付いた。  あれほど散らかっていた部屋が、玄関口までもが片付けられていた。酷く風通しの良くなった部屋の中。  片付けられただけならまだいい、けど、明らかに『物が減っている』。  なくなっているのはどれも阿佐美の私物だった。汗が滲む。鼓動が加速する。  昨夜、志摩とのやり取りが頭を過り、居ても立ってもいられなくなった俺は玄関口で靴を脱ぎ捨て、そのまま部屋に上がった。  いまこの部屋に置いてある家具は、最初から用意されていたクローゼットに勉強机、ベッドとテレビとテーブルとソファー。  テレビとテーブル、そしてソファー以外、どれも二つずつ置かれている。それだけだ。それ以外、阿佐美のものがないのだ。この部屋からは阿佐美が溜め込んでいた雑貨や本や家電全てがなくなっていた。  ――嘘だろ、いや、まさか、そんなわけがない。  ――だって、阿佐美が本気で部屋を出ていくなんて。  心当たりはあった。昨夜のあれだ。阿佐美はあれから姿を消していた。まるで志摩との約束を守るように。ほとぼりが冷めればいずれまた部屋に戻ってくるのだと思っていたが――。  勘違いならそれでいい。ただ、部屋をすっきりさせたかったのだといつもの笑顔で俺に言ってくれればよかった。……それがいい。  気付いたら勝手に体が動いていた。玄関口へと引き返した俺は、そのまま扉を開く。とにかく、職員室だ。職員室にいって先生に話を聞けば、なにかわかるはずだろう。  通路へと飛び出そうとしたときだった。  扉の前、立ち塞がるように立っていたその人影に思いっきりぶつかる。その反動でバランスを崩しそうになったとしだった、伸びてきた腕に腰を抱き寄せられる。瞬間、甘ったるい匂いに包み込まれた。 「……あぶねえな、いくら俺に会うのが嬉しいからってはしゃぎすぎだろ」  あ、と思ったときには遅かった。俺を抱き締めた阿賀松伊織はそう笑ったのだ。 「……な、んで……」  ここに、と言い掛けて、今朝阿賀松と会ったときのことを思い出す。あのとき、阿賀松は部屋にいろと言った。色々あったせいですっかり失念していた自分を殴りたい。……最悪のタイミングだ。 「言っただろ? 大人しくしてろって」 「……っ、待ってください、……今は……」 「あ? んだよ」 「……ッ」  言い掛けて、言葉に詰まる。阿賀松と阿佐美は面識があったはずだ。もしかしたら、阿賀松なら何か知ってるかもしれない。そう思ったが、だとしてもこの男が素直に教えてくれるだろうか。  だとしても、このままではどちらにせよこの男に捕まったままだ。ぎゅ、と拳を握り締める。 「し、詩織が……」 「詩織? あいつがなんだ?」 「い、いなくて……部屋も……詩織のものがなくなってて……それで……詩織を探そうと……」  阿賀松に見られると緊張してうまく話せない。 「んなこたぁ知るか」と一蹴されるかもしれない。そう思ったが、実際の阿賀松の反応は俺の想像していたものとは違った。 「……ああ、そういうこと」  話を聞いた阿賀松の声が僅かに低くなる。寄せられる眉に、細められる目。俺はその目から必死に顔を反らすように、小さく数回頷き返した。しかしそれもほんの一瞬。「ふうん」と大して興味なさそうに口にした阿賀松はそのまま俺ごと部屋に押し込めるように押しかけてくるのだ。 「あっ、待っ……」 「へえ、まじで片付いてんじゃねえの? こりゃ大変だっただろうな、あんな荷物移動すんの」 「……っ、せ、んぱい……」 「可哀想になぁ? ユウキ君、あいつに置いていかれたわけだ」  ソファーの上、どかりと腰を下ろした阿賀松は持て余したその足を組む。まるで自室のような寛ぎっぷりに今更辟易はしないが、部屋主である俺がなぜ居場所に困らなければならないのか。立ち竦んだまま固まる俺に、阿賀松は自分の隣をぽんぽんと叩くのだ。……これも、いつものことだ。座れ、そう無言で圧をかけてくる。  機嫌がいい阿賀松に逆らうのは自殺行為に等しい。俺は、なるべくソファーの端に腰を下ろそうとすれば、伸びてきた手に腰を抱き寄せられる。 「……っ、ぁの……」 「お前、詩織ちゃんに捨てられたのか」 「……ッ!」 「あいつは優しい子だからなァ、ユウキ君に心配かけたくなかったんだろ。まあ、そのくせ無言で出ていくのはあいつらしいがな」  阿賀松の笑い声が近い。慰めてるつもりなのか、腰から脇腹を撫でられればぎょっとする。……この体勢、嫌だ。そう思うのに、阿賀松に腰を掴まれてるせいで逃げ場がない。 「なあ、ユウキ君。お前、あいつがどの部屋に移ったか知りたいか?」  思わず、俺は阿賀松を見上げた。見下ろすその目はまるで何を考えているのかわからない。けれど、緩く弧を描くその笑みはどことなく不気味で。 「教えてやろうか」 「……ぇ……」 「知りたいんだろ? なんなら案内してやるよ」  耳朶を撫でられ、今朝キスされたときの熱が蘇る。恐らく、ろくなことを考えていないのだろう。いつの日か無茶な要求をされたことを思い出す。  そもそも、この男が本当に阿佐美の居場所を知っているのかも怪しい。俺は阿賀松の体を押し返し、「大丈夫です」と声を絞り出した。すると、阿賀松は意外そうな顔をする。 「んだよ、会いたくねえのか?」 「……あい、たいです……けど……」 「けど?」 「……っ、先輩に、迷惑はかけられないので……」  声が震えた。なるべく、阿賀松の怒りに触れないように。そう遠回しにやんわりと断れば、阿賀松も気付いたようだ。ああ、と嫌な笑みを浮かべた。 「俺に借りを作りたくねえのか」 「……っ、そ、れは……」 「ユウキ君なりに少しは賢くなったみてえだな。……可愛げねーけど」  軋むソファーに、沈むクッション。伸びてきた手に押し倒されそうになり、咄嗟に俺は逃げようとして、捕まえられる。絡め取られる指先に上半身を引き寄せられるのだ。  すぐ鼻先に阿賀松の顔が近付き、息を飲んだ。 「賢くなったついでに教えてやるよ。俺はなあ、貸し借りは興味ねえんだわ」 「……ッ、……」 「……お前はまずカワイイ甘え方覚えねえとな」  唇が触れるほどの至近距離、顔を逸らそうとして、顎を掴まれるのだ。当たり前のように重ねられる唇に、頬を舐める舌に、逃れる暇もなかった。  阿賀松が部屋に来ると聞いてわかっていたはずだ、なにがどうなるくらいは。予感はしていた。 「っ、は……ん、ぅ……ッ」  噛み付くようなキスに、のしかかって来る阿賀松から逃げ遅れる。苦しい。というか、苦い。……煙草の味だ。絡み取られる舌に、獣じみた強引なキスに次第に何も考えられなくなっていく。首の付け根を掴まれ、顎を固定され、喉の奥まで挿入される舌に口蓋まで舐られる。唾液を流し込まれ、舌の先っぽまでを愛撫されればそれだけで頭の奥がじんじんと痺れてくる。  視界が滲み、指先に力が籠もったとき、阿賀松は唇を離す。 「……なあ、あの眼鏡とはこんな風にキスはしたのか?」  突然芳川会長の話題を振られ、全身が強張る。  絶対に突っ込まれると思っていたが、まさかいきなり聞かれるとは思わなくて。反応に困惑したとき、阿賀松が目を丸くした。 「その反応、まさかまだしてねえのか? ……つうか流石にキスくらいはしただろ」  首筋をなぞる指に、ぴくりと体が反応する。  会長と、キス。考えたこともなかった。会長に恋人のフリを頼んで、それから……それだけだ。俺たちは本物の心を通わせた恋人でもない、阿賀松の目を欺くためだけに協力している。それを悟られてはいけない。そう思うのに、不意打ちを突かれてしまいうまく対応できない自分に内心焦る。恐る恐る首を横に触れば、「まじかよ」と阿賀松はドン引きするのだ。 「……キスもしねえとか、あいつ枯れてんのか?」 「……か、れ……っ」 「――なあ、お前あの朴念人をどうやって口説き落としたんだ?」  言えよ、と顎を掴まれ、強引に視線を覗き込まれる。ああ、まずい。と思った。疑われている。  親指で唇を撫でられ、「早くしろ」と皮ごと抓られるのだ。 「ぁ、あの……お、れが……告白して……」 「……それで?」 「か、いちょ……も、いいよって……」 「それだけか?」  数回頷けば、阿賀松は「信じらんねえ」と溜息を吐いた。  そして、腰を撫でていた手に徐に尻を揉まれ、息を飲む。 「お前、あいつに抱かれたことあんだろ? 不能かよ」 「ぁ、あれは……っ、ちがくて……会長は、そんなこと……」 「ああ? じゃあ誰だよ」 「……そ、れは……ッ」  栫井だ、なんて言えるわけがない。阿賀松が勝手に勘違いしたことだ。 「っ、と……とにかく、会長とはそういうことはないですから……」 「へえ?」と、嫌な笑みを浮かべる阿賀松。腿の間に入ってくる指先に、そのまま内腿を撫でられれば堪らず息を飲む。 「せ、んぱい……ッ」 「……いいこと思いついた」 「……っ、ぇ……?」 「ユウキ君、あいつとセックスしろよ」 「場所は俺が指定する。ユウキ君たちはそこで一発ヤるだけでいい」ほら、簡単だろ?と、阿賀松はまるで新しいイベントでも提案するように軽々しく口にするのだ。  この男が何を言ってるのか理解した瞬間、血の気が引いた。 「本当に付き合ってんなら簡単だろ、そんなの」  この男は俺を試しているのだ。最初から俺の言葉だけを信じるつもりなど毛頭ないのだ。  そう理解した途端、頭の中が急激に冷たくなっていくのを感じた。 「生徒会室。あそこにしよう」 「生徒会長さんと生徒会室でセックスなんてロマンチックだろ?」俺の中のロマンチックとこの男の言うロマンチックに大きな齟齬があることは確実だろう。背筋に冷たい汗が流れる。  生徒会室で芳川会長とセックスをしろ。それが約束通りに芳川会長の恋人というポジションを獲得した俺への次の命令だった。 「ああ、そうだ。期限だけどな、今週までにはヤっとけよ」 「出来なかったら罰ゲームな」おまけに期限まで設けられるなんて。本気なのだろう、そう続ける阿賀松の目は笑っていない。俺一人でなんとかなるものならまだよかった。  けれど、こればかりは芳川会長に伝えないといけなだろう。もう、俺一人の問題ではないのだから。 「ば……罰ゲームって……」 「ユウキ君が二度と学校に来れなくなるくらい恥ずかしいことしてやるよ」  笑う阿賀松の言葉に、息を飲む。汎ゆる可能性が思考を駆け巡り、顔に血が集中した。なんだ、恥ずかしいことって。ろくでもないことは確かだ。 「……わかり、ました」  そう答えた声は冷たく響く。正直、生きた心地がしなかった。 「一応期待してんだからな、お前には」 「…………」  嬉しくない。嬉しいわけがない。ありがとうございます、と答えれば阿賀松はただ笑う。皮肉のつもりなのか、それでも探られるように絡みつく視線はただただ不快だった。 「ああそうだ、詩織ちゃんに会いに行くんだったっけ。お前」  不意に、立ち上がろうとしていた阿賀松は思い出したように口を開いた。「はい」と頷き返せば、阿賀松はタバコを取り出し咥える。当たり前のように火をつける阿賀松にぎょっとしたが、慌てて灰皿代わりペットボトルを渡した。ん、と阿賀松は「ああそうか」とそれを受け取った。どうやら自分の部屋だと思っていたのか。 「ユウキ君が行ってもまともに話せないと思うけどな、詩織ちゃんと」 「え……」 「新しい部屋に引っ越し中で忙しいんだってよ。俺も追い払われたし」 「……そう、ですか」  行っても阿佐美が会ってくれるかどうかもわからない。下手したら居留守されるかもしれない。阿佐美のことだ、律儀に志摩の言いつけを守ってる可能性もある。 「ま、そういうことだ。頑張れよ」  なにを、とは阿賀松は言わない。それから、気まずい時間が過ぎる。喫煙中なにやら阿賀松は携帯をいじっていたが……ちらりと目を向けた俺はぎょっとした。 「あ、あの……っそれ……俺の……」 「ああ、そうだな。お前、亮太しか友達いねえのかよ」 「……え」  亮太って、志摩か?  志摩と連絡先交換した覚えがないだけにひやりとした。というか……。 「なに、勝手に……」 「どうせ大して使ってねえんだからいいだろ。ほらよ」  そう、こちらへと放って返す阿賀松。慌てて携帯を受け止めた俺は、その画面に目を向けた。連絡先には確かに志摩の連絡先と、それからもう一つ。 「俺の連絡先登録しといたから」 「え……」 「セックスする日決まったら連絡しろよ」  ――本当に、勝手な人だ。  阿賀松が俺の携帯の連絡先知ってるというだけでも嫌だったのに、おまけにこれからのことを考えるとただ気分が重い。  それから、阿賀松はタバコを一本吸い終わるとさっさと部屋を出ていった。一人部屋に残された俺は、暫く携帯端末を見つめたまま動けなかった。   この学校へ来てから初めてちゃんと連絡先を交換した相手がよりによって阿賀松だなんて、しかも理由が理由なだけ素直に喜べない。携帯をポケットにしまう。  いつの間にかに増えていた志摩の名前を消そうか迷ったが、俺がそれを実行することはなかった。自分がどういうつもりなのかは、俺自身よくわからない。それにしても、いつの間に登録したんだ。俺が寝てる間か、チャンスは限られてるはずだ。  ……考えたところで、あまりいい気分になれるものではない。  疲労感が抜けないまま、俺は自室を後にした。

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